第14話 お客様は何をお待ちですか
土曜日、午前四時三十一分。
召喚管理局の仮眠室は、静かだった。
壁際に並ぶ簡素な寝台。
薄い毛布。
小さな棚。
そして、部屋の隅に置かれた古い時計。
ハスターは、そのうちの一つに腰を下ろした。
カバンを棚へ置く。
黄色いスーツの上着を脱ぎ、丁寧に畳む。
それから、靴を脱いだ。
「……ようやくか」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
ここには執務室の書類がない。
未処理案件の束もない。
窓の外に、永遠の午後五時が広がっているわけでもない。
ただ、眠るための場所だった。
ハスターは、寝台へ横になった。
天井を見る。
薄暗い。
静かだ。
何も起こらない。
「……素晴らしい」
黄衣の王は、心からそう思った。
彼は目を閉じた。
今は、考えない。
受付のことも。
待機者のことも。
誰が誰を代理にしたのかも。
何も考えない。
少なくとも、今だけは。
時計が、小さく時を刻んでいた。
かちり。
かちり。
やがて、ハスターの呼吸がゆっくりになった。
管理局のどこかで、通常業務の通知が一件、所定の受信箱へ収められた。
緊急案件ではなかった。
その通知は、誰かを起こすことなく、次の処理を待つことになった。
*
土曜日、午前八時十七分。
深町由紀は、ホテルのベッドで目を覚ました。
最初に見えたのは、白い天井だった。
「……あれ」
しばらく、自分がどこにいるのかわからなかった。
いつもの部屋ではない。
見慣れない照明。
見慣れない壁。
窓のそばには、小さな丸いテーブルがある。
そこでようやく、ホテルに泊まっていたことを思い出した。
「……そっか」
由紀は、ゆっくり起き上がった。
枕元のスマートフォンを見る。
午前八時十七分。
土曜日。
画面に、曜日が表示されている。
「……休み、か」
口にしてみる。
まだ、実感がなかった。
昨日も休むように言われていた。
それなのに、事務所へ戻って給与関係の確認をしてしまった。
自分がいなければ仕事が止まる。
そう思っていたわけではない。
ただ、気になることを残したままにしておくのが苦手だった。
「……職業病だなあ」
由紀は、小さく笑った。
ベッドから降りる。
カーテンを開ける。
窓の外には、朝の街が広がっていた。
車が走っている。
歩道を人が歩いている。
向かいの建物の窓に、朝日が反射している。
普通の土曜日だった。
由紀は、しばらくその景色を眺めていた。
そして、机の上のスマートフォンへ目を戻した。
新しい連絡はない。
榊原からも、何も届いていなかった。
『今日はもう連絡不要です。ゆっくり休んでください』
昨夜の文章を思い出す。
「……うん」
今日は、休む。
そう決めた。
決めたのだが。
「……」
机の上に、バッグがある。
中には、手帳が入っている。
いつも持ち歩いている、小さな手帳だった。
由紀は、それを見つめた。
「……いや」
首を振る。
「仕事しないって決めたじゃん」
手帳は、何も言わなかった。
当然である。
由紀は、洗面所へ向かった。
顔を洗う。
歯を磨く。
髪を整える。
それから、もう一度机の前へ戻った。
手帳は、まだそこにあった。
「……」
由紀は、椅子に座った。
「……五分だけ」
誰に対する言い訳なのか、自分でもわからなかった。
バッグから手帳を取り出す。
表紙を開く。
そこには、月曜日からの出来事が、時刻とともに書き込まれていた。
もともとは、仕事のための記録だった。
電話を受けた時間。
書類を確認した時間。
誰に何を伝えたか。
あとから確認できるように、必要なことだけを残している。
月曜日のページを開いた。
『9:14 旧市民会館 利用許可発行』
『同一管理番号の許可証が二件』
由紀は、指で文字をなぞった。
あの日、確かに二つの団体へ、同じ管理番号が付けられていた。
普通なら、そこで発行元へ確認する。
実際、彼女もおかしいと思った。
だが、そのときにはもう、予定が動き始めていた。
ページをめくる。
『22:40 許可証再確認』
『担当者欄空白』
『備考欄「代理処理」』
由紀は、手を止めた。
「……」
その文字を、しばらく見つめる。
担当者欄は、空白だった。
それは覚えている。
備考欄には、『代理処理』と書かれていた。
それも覚えている。
ただし。
「……最初から、そうだったっけ」
由紀は、眉を寄せた。
午前九時十四分。
許可証が発行されたとき。
自分は、二つの管理番号が同じであることを確認した。
では、担当者欄は?
そのときにも空白だったのか。
備考欄の『代理処理』は、すでに書かれていたのか。
由紀は、月曜日の記録を読み直した。
午前九時十四分の項目には、管理番号の重複しか書かれていない。
担当者欄についての記載は、午後十時四十分が最初だった。
「……あ」
小さく声が漏れた。
由紀は、手帳を机へ置いた。
わからない。
午前九時十四分の時点で、担当者欄がどうなっていたのか。
確認した記憶が、はっきりしない。
空白だったかもしれない。
名前が書かれていたかもしれない。
最初から『代理処理』だった可能性もある。
ただ、そこを確かめた記録はない。
「……ここ、分けないと駄目だ」
由紀は、ペンを取った。
手帳の余白に、二つの見出しを書く。
『確認したこと』
『確認していないこと』
その下に、記録を整理していく。
午前九時十四分に確認したのは、管理番号の重複。
午後十時四十分に確認したのは、担当者欄の空白と『代理処理』の記載。
日付が変わるころ、担当者欄に自分の名前が現れていたこと。
そして、許可証の裏面に、奇妙な文章があったこと。
由紀は、書き終えると、もう一度読み直した。
「……うん」
少しだけ、頭の中が整理された。
重要なのは、何が書かれていたかだけではない。
いつ、それを確認したのか。
その二つを混同すれば、あとから何が変わったのかもわからなくなる。
由紀は、最後に一行を加えた。
『発行時点の担当者欄・備考欄の状態は未確認』
ペンを置く。
これで、今わかることは全部だった。
「……よし」
手帳を閉じる。
榊原へ送るべきか、少し迷った。
だが、急いで連絡するほどの新事実ではない。
むしろ、確認できていないことを確認できていないと整理しただけだ。
由紀は、スマートフォンへ伸ばしかけた手を止めた。
「……月曜日でいいか」
そう呟いた。
そして、少しだけ驚いた。
自分が、仕事を月曜日へ回した。
それが、妙に新鮮だった。
「……私、成長してる?」
誰も答えなかった。
由紀は、手帳をバッグへ戻した。
今度こそ、休む。
そう決めて、ホテルの朝食時間を確認した。
*
土曜日、午前八時四十二分。
榊原は、自宅の食卓で新聞を広げていた。
湯気の立つ茶碗。
焼いた魚。
味噌汁。
そして、読みかけの新聞。
ごく普通の朝だった。
榊原は、新聞の一面を眺めていた。
内容は、ほとんど頭に入っていない。
「……」
彼は、新聞を畳んだ。
昨日、由紀が無事にホテルへ入ったことは確認している。
管理局への報告も済ませた。
旧市民会館と市役所への照会は、次の営業日。
今できることは、ない。
少なくとも、急いでやるべきことはない。
榊原は、味噌汁を一口飲んだ。
「……休めと言った手前、こちらも休まんとな」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
それから、食卓の端に置かれたメモへ目を向けた。
昨日、帰宅してから書いたものだった。
管理局からの照会事項を、忘れないように整理してある。
市役所の発行記録。
旧市民会館の利用管理記録。
二重になった管理番号。
代理処理の記載。
担当者欄の変更。
榊原は、しばらくメモを見つめていた。
「……発行と、利用管理か」
同じ会館の予約に関する記録でも、発行された許可証と、施設側の管理記録は必ずしも同じものではない。
どの記録に何が残っているのか。
それは、実際に確認しなければわからない。
しかし、照会先を分ける必要があることは確かだった。
榊原は、メモの端へ短く書き加えた。
『記録の作成時点と更新履歴を確認』
それだけだった。
由紀がホテルで何を考えているのか、榊原は知らない。
由紀が、同じように時刻の違いを気にしていたことも知らない。
ただ、二人とも、同じ事件の記録を扱っていた。
そして、どちらも、まだ答えを持っていなかった。
榊原は、ペンを置いた。
「……月曜日だな」
そう言って、新聞を開き直した。
今度は、少しだけ記事の内容が頭に入ってきた。
*
土曜日、午前九時六分。
カルコサの管理局。
仮眠室の時計が、静かに時を刻んでいた。
ハスターは、まだ眠っていた。
寝台の脇には、畳まれた黄色いスーツの上着がある。
棚には、カバンが置かれている。
その中には、自宅の鍵が入っていた。
今朝も使わなかった鍵だ。
だが、持っていることを忘れたわけではない。
ハスターは、眠ったまま、わずかに身じろぎした。
時計が進む。
午前九時七分。
午前九時八分。
何も起こらない。
誰も、彼を呼ばない。
少なくとも、この部屋では。
やがて、午前九時十一分。
ハスターは、ゆっくり目を開けた。
「……」
天井を見つめる。
しばらく、動かなかった。
それから、時計へ視線を向けた。
「……四時間半ほどか」
思ったより、眠れた。
緊急の呼び出しもなかった。
夢を見たかどうかも、覚えていない。
ただ、少しだけ頭が軽くなっていた。
ハスターは、ゆっくり起き上がった。
「……さて」
上着を取る。
袖を通す。
襟元を整える。
カバンを持つ。
ちゃり。
中で、鍵が鳴った。
ハスターは、一瞬だけ手を止めた。
それから、仮眠室の扉へ向かった。
自宅へ帰るのではない。
執務室へ戻るのだ。
「……仕事だな」
彼は、扉を開けた。
*
午前九時十九分。
ハスターは、執務室へ戻っていた。
窓の外には、相変わらず午後五時のカルコサが広がっている。
二つの黒い太陽。
黒い湖。
遠くに並ぶ塔。
景色は、何も変わっていなかった。
机の上には、通常業務の通知が数件届いている。
緊急案件はない。
未登録受付の保全記録にも、目に見える変化はなかった。
「……よし」
ハスターは、椅子に座った。
まず、夜間に届いた通常業務の通知を確認する。
必要な処理を行う。
担当部署へ回す。
保存する。
それから、机の端の保全記録を開いた。
未登録受付。
受付番号000。
待機数四十。
三件の接触完了。
待機理由の照会。
回答なし。
ハスターは、昨日の記録を読み直した。
『お待ちの理由をお聞かせください』
扉の向こうから、そう尋ねられた。
自分は待機者ではないと答えた。
だが、相手はその根拠を示さなかった。
ハスターは、次のページを開いた。
木曜日の記録。
午前九時十分。
待機数が四十三から四十へ変化。
三件に『接触完了』の表示。
誰が接触したのか。
何に接触したのか。
どこで接触したのか。
記録には、何も示されていない。
「……」
ハスターは、しばらく考えた。
これまで、自分は『接触完了』の意味を確認しようとしてきた。
それは当然だった。
しかし、そもそも。
「……何をもって、完了とした」
彼は、小さく呟いた。
受付の目的が不明。
待機の理由も不明。
それなのに、三件だけが完了したと表示されている。
完了という言葉には、何らかの基準が必要だ。
何が満たされたから、完了なのか。
誰が、その基準を決めたのか。
ハスターは、紙を取り出した。
新しい見出しを書く。
『接触完了の判定基準』
そして、確認事項を並べた。
『一、接触完了の判定主体』
『二、判定に用いられた条件』
『三、判定時刻』
『四、判定の対象』
『五、判定結果を記録した主体』
書き終えてから、彼は筆を置いた。
「……ふむ」
これまでの問いと似ている。
だが、少し違う。
誰が接触したかを尋ねても、相手は答えなかった。
ならば、接触完了という表示が成立するための条件を確認する。
もし、判定基準が存在するなら。
そこから、待機数の変化を説明できるかもしれない。
存在しないなら。
なぜ完了と表示されたのか、別の問題になる。
どちらにせよ、調べる価値はあった。
ハスターは、記録用紙の端へ書き加えた。
『待機数の減少と接触完了表示の対応関係は未確認』
数字が三つ減った。
三件が接触完了と表示された。
同じ時刻に起きた変化だ。
だが、それだけで、一方が他方の原因だとは言えない。
「……順番を間違えるな」
ハスターは、自分に言い聞かせた。
わからないことを、わかったことにしない。
そのために記録しているのだ。
彼は、文書を正規の調査記録へ保存した。
そして、ふと、月曜日の許可証を思い出した。
二つの団体。
同じ管理番号。
『代理処理』。
あとから現れた、深町由紀の名前。
こちらも、記録が変わっている。
だが、いつ何が変わったのかは、まだ確定していない。
管理局が把握しているのは、由紀が報告した内容と、その後に確認できた事実だけだ。
発行時の記録は、現在照会中。
「……記録があることと、記録が正しいことは別だ」
ハスターは、低い声で言った。
その言葉を口にしてから、少し考えた。
未登録受付も同じだった。
待機数四十。
接触完了三件。
表示はある。
だが、その数字が何を表しているのかは、まだわからない。
彼は、保全記録を閉じた。
「……まずは、数字の意味だな」
それから、通常業務の書類を一枚取り上げた。
調査は進める。
だが、答えを急いではいけない。
少なくとも、勝手な推測を正式な記録へ書き込むわけにはいかなかった。
*
同じころ。
どこかの静かな部屋で、ニャルラトホテプは紅茶を飲んでいた。
黒いスーツ。
磨かれた靴。
整った姿勢。
目の前には、小さな卓がある。
卓上には、白い皿と、薄い焼き菓子が一枚。
彼は、カップを持ち上げた。
香りを楽しむ。
一口飲む。
「……いいですね」
満足そうに微笑んだ。
彼の前には、新聞も書類もない。
管理局の保全記録もない。
旧市民会館の許可証もない。
少なくとも、今この部屋に見えているものは、それだけだった。
ニャルラトホテプは、焼き菓子を一口かじった。
さくり。
小さな音がした。
「……さて」
彼は、カップを皿へ戻した。
月曜日に、自分が少し手を加えた予約のことを思い出す。
同じ場所。
同じ時間。
二つの団体。
ほんの少し、条件を重ねただけだった。
それが、どこまで影響したのか。
彼は、まだ確かめていないことまで、自分の手柄にするつもりはなかった。
ただ。
あの几帳面な黄衣の王が、何かを調べ始めている。
それだけでも、十分に興味深い。
「……あなたは、どうするのでしょうね」
ニャルラトホテプは、誰にともなく呟いた。
答えはない。
彼は、少し楽しそうに笑った。
「まあ、急ぐこともありません」
そして、もう一口、紅茶を飲んだ。
その表情からは、何を予想しているのか読み取れなかった。
*
土曜日、午前九時三十七分。
召喚管理局。
ハスターは、処理中の書類から顔を上げた。
廊下の向こうで、何かが鳴った気がした。
だが、はっきりしない。
彼は、しばらく耳を澄ませた。
何も聞こえない。
「……」
時計を見る。
午前九時三十七分。
ハスターは、記録用紙へ手を伸ばしかけた。
しかし、途中で止めた。
音を聞いたと断定できない。
ならば、確かな事実として記録するべきではない。
彼は、筆を戻した。
そして、目の前の書類へ視線を落とした。
通常業務の申請書だった。
申請者の氏名。
担当部署。
申請目的。
必要な承認。
すべて、正しく記されている。
ハスターは、内容を確認した。
問題はない。
承認印を押す。
書類を処理済みの束へ移す。
それから、ふと、昨日の言葉を思い出した。
『お待ちの理由をお聞かせください』
「……」
ハスターは、机の端の保全記録を見た。
四十件。
誰かが待っていると表示されている。
何を待っているのかは、わからない。
しかし、もし。
その数字が本当に何かの待機を示しているのなら。
待っている対象には、何らかの目的があるはずだ。
受付を待っているのか。
確認を待っているのか。
別の何かを待っているのか。
そもそも、待っているという解釈自体が正しいのか。
ハスターは、静かに息を吐いた。
「……お客様は、何をお待ちですか」
そう呟いてから、すぐに首を振った。
「……いや」
黄衣の王は、記録用紙へ筆を走らせた。
『待機対象を「お客様」と呼称する根拠なし』
「……危ないところだった」
勝手に客だと認めてしまえば、次は受付係を決める話になりかねない。
その受付係が、自分だと言われては困る。
非常に困る。
ハスターは、筆を置いた。
「……まずは、何を待っているのかだ」
窓の外では、黒い湖が静かに揺れていた。
人間の世界では、土曜日の朝が進んでいる。
由紀はホテルで朝食を取り、榊原は自宅で新聞を読んでいる。
二人とも、管理局でハスターが何を考えているのかは知らない。
ハスターも、二人が今朝それぞれ記録の時刻と更新履歴を気にかけたことを知らない。
誰も、同じ場所にはいなかった。
誰も、事件の全貌を知らなかった。
それでも、三人が見つめているものには、一つの共通点があった。
記録に何が書かれているか。
そして。
その記録は、いつ、誰によって、何を根拠に作られたのか。
まだ、答えは揃っていない。
だが、問いの形だけは、少しずつ近づいていた。
ハスターは、次の申請書を引き寄せた。
「……さて」
いつものように、筆を取る。
「仕事だ」
その声に応じる者は、いなかった。
少なくとも、今は。
管理局の時計が、静かに時を刻んでいた。




