第九話 初めての居場所
薬師の店を出る頃には、日は少しずつ西へ傾き始めていた。
通りを照らしていた昼の光が、少しだけ柔らかくなっている。
私の手には、小さな薬瓶が二本。
服屋で手に入れた金貨二枚で買えるだけの解毒薬だった。
「これを使いなさい」
店を出る前、薬師がもう一度念を押した。
「症状が出た時に飲めばいい。毎日飲む必要はない」
「分かった」
「ただし――」
薬師は少しだけ表情を曇らせる。
「これは完全な治療薬ではない」
私は黙って薬瓶を見る。
「身体に残った毒を少しずつ減らすためのものだ。毒そのものを盛られ続ける限り、薬だけではどうにもならん」
「……分かってる」
だからこそ、これだけで安心するつもりはなかった。
毒を盛られないようにする。
解毒薬を自分で手に入れられるようにする。
そしていつか、この身体から毒を完全に取り除く。
そのためには、お金も必要だった。
「残りは、必ず用意する」
隣を歩くガルドが言った。
「無理はしなくていい」
私は首を横に振る。
「自分で稼ぐ」
「ほう?」
「薬代くらい、自分で払えるようになりたい」
ガルドは少しだけ目を細めた。
そして。
「そうか」
それだけ言って笑った。
「なら、頑張れ」
助けると言いながら、何もかも代わりにやろうとはしない。
その距離感が、妙に心地よかった。
「働かねぇ奴は嫌いだからな」
「五歳に言うこと?」
「五歳だからって、何もしなくていい理由にはならねぇだろ」
「……確かに」
思わず笑ってしまう。
ガルドも笑った。
「その顔の方がいいな」
「?」
「さっきまでずっと難しい顔してたからな」
「そうだった?」
「ああ」
私は少しだけ頬を緩めた。
薬を手に入れた。
今日のところは、それだけで十分だった。
◇◇◇
《暁の牙》の拠点へ戻ると、裏庭から威勢のいい声が聞こえてきた。
「そこだ!」
「足を止めるな!」
「もう一度!」
木剣がぶつかる音。
掛け声。
笑い声。
汗を流す団員たちの姿がある。
数人が組になり、木剣を使って模擬戦をしていた。
その中に、小さな姿を見つける。
「えいっ!」
黒髪の少年――レオンだった。
両手で木剣を握り、一生懸命に振り下ろしている。
だが。
「甘い!」
相手の傭兵が木剣を横へ流す。
「わっ!」
レオンの身体が大きくよろめいた。
そのまま尻餅をつく。
「まだまだだな」
「くそぉ……!」
レオンは悔しそうに顔を歪める。
それでも、すぐに立ち上がった。
「もう一回!」
「おう。来い」
再び木剣を構える。
(……楽しそうだな)
思わず足を止めて見ていた。
「興味あるのか?」
ガルドが隣から声を掛ける。
「ああ」
「剣をやったことがあるのか?」
「ある」
「どれくらいだ?」
「三歳から」
「三歳?」
ガルドが驚いた顔をする。
「ずいぶん早いな」
「必要だったから」
「必要?」
「……自分の身を守るために」
それだけ答えた。
それ以上は話さない。
ガルドも追及しなかった。
「なるほどな」
ガルドは庭を見回す。
そして。
「ちょっと待ってろ」
近くにいた団員から木剣を一本借りた。
「持ってみろ」
差し出された木剣を受け取る。
両手で握り、重さを確かめた。
今まで使っていた木剣より軽く、長さも短い。
五歳の身体でも扱えるように作られているのだろう。
「振ってみろ」
私は一度だけ振る。
空気を切る音がした。
「……なるほど」
ガルドが呟く。
「構えてみろ」
私は言われた通りに構えた。
すると、周囲にいた団員たちの視線が集まり始める。
「おい、あの坊主……」
「剣を持てるのか?」
「構えが妙に綺麗だな」
そんな声が聞こえてくる。
ガルドは私の構えをしばらく眺めていた。
「クリス」
「何だ?」
「一度、誰かと打ち合ってみるか?」
「いいのか?」
「ああ」
ガルドが周囲を見回す。
「誰か相手してやれ」
「俺がやります」
手を挙げたのは、先ほどレオンの相手をしていた男だった。
四十歳前後。
身長は私より遥かに高く、肩幅も広い。
木剣を握る手には、何年も剣を振ってきた者の硬さがあった。
「怪我させないようにしますよ」
「頼む」
男が私の前に立つ。
「坊主」
「何だ?」
「無理だと思ったら、すぐ言えよ」
「分かった」
男が木剣を構えた。
私は一歩下がる。
身長差は大きい。
腕の長さも違う。
力比べをすれば、勝負にならない。
なら最初から、力比べをしなければいい。
「始め!」
ガルドの声が響いた。
同時に、男が踏み込んだ。
「おらっ!」
木剣が真っ直ぐ振り下ろされる。
速い。
だが、軌道は読める。
私は真正面から受けない。
身体を半歩だけ横へずらした。
木剣が肩のすぐ横を通り過ぎる。
男の身体が前へ流れた。
――今。
私は一歩踏み込む。
狙うのは身体ではない。
木剣を握っている手。
手首へ向けて、木剣を横から叩き込む。
カンッ!
「っ!」
男の手がわずかに緩んだ。
私はそのまま木剣を引く。
男が体勢を立て直す。
「なるほどな」
男が笑う。
「今のは偶然じゃねぇな」
「偶然じゃない」
「じゃあ、もう一度だ」
今度は男も慎重になった。
間合いを測る。
私は動かない。
先に動けば、体格差で押し切られる。
だから待つ。
男が踏み込む。
今度は横薙ぎ。
私は低くしゃがんだ。
頭上を木剣が通り過ぎる。
そのまま前へ。
男の懐へ入り込む。
「なっ……!」
木剣を振るには近すぎる距離。
私は男の腕を狙う。
コンッ!
手首を打つ。
男が反射的に木剣を引いた。
私は追わない。
一歩下がる。
「……そこまで!」
ガルドの声が響いた。
男は自分の手を見つめる。
「参った」
周囲からざわめきが起きた。
「今の見たか?」
「二回とも手を狙ったぞ」
「正面から勝てないって分かってるんだな」
「五歳だろ……?」
私は木剣を下ろした。
勝った、という感覚はなかった。
相手が本気で戦っていたわけではない。
ただ自分より強い相手と戦うなら、どうすれば生き残れるかを考えた結果だった。
「クリス」
ガルドが口を開く。
「お前、力じゃ勝てねぇって最初から分かってたな」
「ああ」
「だから、相手の力を使った」
「そうしないと勝てない」
ガルドは少し黙った。
それから。
「……面白ぇな」
楽しそうに笑った。
「剣が強いっていうより、戦い方を知ってる」
その言葉に。
私は少しだけ視線を落とした。
戦い方を知っている。
それは褒め言葉なのだろう。
けれど私がそれを覚えた理由は、決して楽しいものではなかった。
死なないため。
狙われた時に逃げるため。
誰も助けてくれない場所で、自分を守るため。
だから、こうして誰かに褒められるのは、少し不思議だった。
「クリス!」
声がした。
振り返る。
レオンが駆け寄ってくる。
「すごい!」
「そうか?」
「うん!」
レオンは目を輝かせている。
「ぼくともやろう!」
「いいぞ」
「やった!」
レオンが嬉しそうに木剣を構える。
私はその姿を見て、自然と笑った。
その様子を見ていたガルドが、満足そうに頷く。
「よし」
「明日から、訓練に混ざれ」
「……私も?」
「ああ」
私は少し驚いた。
「いいのか?」
「もちろんだ」
ガルドは当然のように言った。
「ここにいるなら、一緒に飯を食って、一緒に鍛える」
「それが《暁の牙》だ」
私は木剣を見つめる。
そして周囲を見る。
笑っている団員。
訓練を続ける仲間。
レオン。
当たり前のように私を受け入れているガルド。
王宮生まれた私は、誰にも必要とされなかった。
公爵家では、嫡男という立場を与えられたが、そこは私の居場所ではなかった。
ここでは違う。
私は何者なのか。
どこの家の子どもなのか。
そんなことを知らなくても。
ただ一人の人間として扱ってくれる。
「……よろしく頼む」
私は小さく頭を下げた。
「おう!」
ガルドが笑う。
「こちらこそよろしくな、クリス」
レオンも笑った。
「明日、一緒に訓練しよう!」
「ああ」
私は頷いた。
『明日』。
そんな言葉を楽しみに思うのは、久しぶりだった。
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