第七十三話 国境
村を出てから、さらに数日が過ぎた。
私は当初の目的の通り、東へ向かって歩き続けていた。
旅にも、少しずつ慣れてきている。
朝になれば出発し、日が暮れる前に次の町を探す。
途中の護衛や盗賊退治で身銭を稼ぎ。
町へ着けば食料と水を補給し、必要な情報を集める。
宿に泊まれる余裕がなければ、街道から外れた場所で夜を明かした。
以前なら、旅の予定を決めるのも、危険な道を避けるのも、仲間と相談していた。
今は違う。
どこへ行くのか。
いつ休むのか。
何を食べるのか。
すべて自分で決める。
最初は、それがひどく不自然だった。
けれど、誰かに指示されることもなく、誰かの判断を待つ必要もない。
それは同時に、初めて手に入れた自由なのかもしれなかった。
◇◇◇
東へ進むにつれて、街道を行き交う人々の数が増えていった。
荷物を背負って歩く人。
壊れかけた荷車を引く家族。
幼い子供の手を引く老人。
彼らの多くは、私が以前立ち寄った村で見た人々と同じように疲れ切っていた。
戦争の影響は、王都から遠く離れた場所にも残っている。
私は街道の端を歩きながら、黙って人々を眺めていた。
「……たくさんいる」
王都が滅びたことで、多くの人間が故郷を失ったのだろう。
自分だけではなかった。
住む場所を失った者。
家族を失った者。
帰る場所をなくした者。
それでも、彼らは歩いている。
生きるために。
少しだけ目を伏せ、物思いにふける。
私も、同じだ。
王国を失った。
家族を失った。
仲間を失った。
それでも私は、歩いている。
◇◇◇
ある町へ立ち寄った時だった。
昼食を取るため、小さな酒場の隅に座っていた私の耳へ、聞き慣れない噂が入ってきた。
「王都は完全に落ちたらしいぞ」
「聞いた話じゃ、城まで燃えたそうだ」
「王も王妃も殺されたって話だ」
「公爵家も無事じゃないらしい」
「王女様も……亡くなったんだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、手が止まった。
「……」
誰も、こちらを見ていない。
話している男たちにとって、それは遠い国で起きた出来事に過ぎない。
だからこそ。
その会話は、ひどく現実的だった。
「王国も、これで終わりか」
「仕方ないさ。あれだけ戦争が続いたんだ」
「生き残った連中は、これから大変だろうな」
私は黙って席を立った。
代金を置き、酒場を出る。
外へ出ると、昼下がりの町が広がっていた。
商人が荷物を運んでいる。
店先では客と店主が値段の交渉をしている。
子供たちは笑いながら走り回っていた。
誰もが、自分の生活を続けている。
王国が滅びても。
王都で多くの人間が死んでも。
世界は何もなかったように動いている。
「……そうなんだ」
町の人々を眺めながら、ひとり、言葉が漏れた。
自分たちの物語が終わっても、世界そのものが終わるわけではない。
ガルドが死んでも。
ドレイスが死んでも。
ナージャが死んでも。
レオンが死んでも。
王も王妃も、姫も、ルカも。
その死を知らない人々は、今日も笑っている。
当たり前のことなのに、とても残酷なことに思えた。
街をフラフラとあてもなく彷徨う。
大通りに出た。
中央には、大きな噴水。
私は噴水の縁へ座り、ボーッと人々を眺める。
行き交う人々は、誰もこちらのことなど気にしていない。
しばらく眺めているうちに、ふと、気づいた。
――世界は、自分を待っていない。
『過去』に囚われていても、『今』は進み続けている。
私がいくら嘆いても、月日は淡々と去っていく。
失った人たちを忘れる必要はない。
思い出を捨てる必要もない。
ただ、それを抱えたまま、生きていくしかない。
きっとこの罪悪感を、罪を、事実を。
忘れることはできないけれど。
「……行こう」
私は再び、町を出た。
◇◇◇
それから数日後。
ついに国境が見えてきた。
大きな門の向こうには、これまで知らなかった国が広がっている。
私は門の手前で足を止めた。
ここを越えれば、本当に王国の外だ。
もう、簡単には戻れない。
振り返る。
遥か西には、自分が生まれ育った国がある。
けれど、ここから王都を見ることはできない。
城も。
屋敷も。
《暁の牙》の拠点も。
すべて、遠い記憶の中にしか残っていない。
私は静かに目を閉じた。
思い浮かぶのは、失った人たちの顔。
笑っていたガルド。
静かに地図を眺めていたドレイス。
楽しそうに笑うナージャ。
ルカと過ごした時間。
姫と交わした言葉。
そして。
最後まで、自分の中に残り続けるレオン。
その姿を思い出すと、胸の奥が痛んだ。
それでも。
私は目を開く。
「……さようなら」
誰に届くわけでもない。
それでも、言わずにはいられなかった。
そして。
一歩、前へ進む。
国境門を越える。
一歩。
また一歩。
ついに、王国の外へ出た。
◇◇◇
国境の向こうには、見慣れない街並みが広がっていた。
建物の造りが違う。
人々の服装も違う。
聞こえてくる言葉にも、わずかな違いがある。
けれど、そこにある日常は、どこか懐かしかった。
どこにでもある、平和な日常。
店先で笑う人。
子供を叱る母親。
仕事へ急ぐ男。
友人と話しながら歩く若者。
誰かを待つ老人。
王国にいた頃と、何も変わらない。
世界は、国境を越えても続いている。
私は街を歩きながら、不思議な感覚に包まれていた。
誰も自分を知らない。
誰もクリスティーナという名前を知らない。
第一王女だったことも。
公爵家の嫡男として生きていたことも。
王国軍で戦っていたことも。
《暁の牙》に所属していたことも。
すべて、この国では意味を持たない。
それは少し寂しかった。
けれど同時に、肩の力が抜けていくのを感じた。
もう、誰かの期待に応える必要はない。
王女として振る舞う必要も。
公爵家の後継者として生きる必要も。
王国軍の兵士として戦う必要もない。
何者になるのか。
これから何をするのか。
それを決めるのは、自分自身だ。
「……まずは、仕事を探さないと」
私は小さく呟く。
王国を失ったばかりだというのに、
そんな現実的なことを考えている自分が、
少しだけおかしかった。
でも、生きていくとは、そういうことなのかもしれない。
食事をする。
眠る場所を探す。
金を稼ぐ。
明日のことを考える。
大切な人を失ったからといって、それらがなくなるわけではない。
私は、ゆっくりと歩き出した。
◇◇◇
新しい国での最初の夜。
小さな宿の一室で、窓の外を眺めていた。
見知らぬ街。
見知らぬ人々。
聞き慣れない言葉。
何もかもが新しい。
これから先、自分がどこへ行くのかも分からない。
何をして生きるのかも決まっていない。
それでも、不思議と怖くはなかった。
王国が滅びる前なら、未来には決められた道があった。
王家の血を持つ者として。
公爵家の嫡男として。
王国軍の一員として。
そして、ゲームの世界を知る者として。
未来を変えなければならないと思っていた。
けれど、今は違う。
もう、変えるべき未来もない。
知っている物語も、終わった。
ここから先は。
ゲームには存在しなかった人生だ。
「……私の人生、か」
その言葉を口にして、少しだけ笑った。
初めてだった。
自分の人生を、自分だけのものだと思えたのは。
もちろん、失った人たちを忘れることはできない。
忘れるつもりもない。
これから先、どこで何をしていても。
ガルドたちと過ごした時間は、自分の中に残り続ける。
そして、あの日のことは。
今でもたまに、夢に見てしまう。
全てを失った、私が避けられなかったあの日。
目が覚めると、頬に涙のあとが残っていることもある。
割り切ることなど、できない。
それでいい。
それを抱えたまま、生きていけばいい。
少し肌寒く感じ、窓を閉める。
そして、暗い部屋の中で目を閉じる。
「……明日は、仕事を探そう」
小さな決意だった。
けれど。
それが、滅びた王国を背負った少女にとっての、新しい一歩だった。
王国の外には、まだ知らない国がある。
知らない街がある。
知らない人々がいる。
これまで歩いたことのない道がある。
何が待っているのかは、まだ分からない。
幸せになれるかもしれないし、
終わらぬことのない生に、この先絶望するかもしれない。
それでも私は、進むことにした。
失ったものを抱えたまま。
過去を忘れることなく。
それでも、自分の人生を生きるために。
滅びた王国の外で。
誰にも知られていない一人の少女として。
私の新しい生活が始まった。




