第七十一話 歩み
私は雨に打たれながら、これからのことを考える。
「もう、戻れない」
それは確かだった。
衣服は血まみれ、手元にあるのは聖剣と、戦場から持ち出した最低限の装備。
金も多くない。
少量だったが持っていたはずの食料など、いつの間にか無くなっていた。
頼れる人間は、誰もいない。
「私は……、生き続けなくてはならない」
瞼に浮かぶのは、ガルドたちの最期の姿。
彼らは私に『生きろ』と言った。
「こんな姿を見られたら、叱られちゃうな」
久しぶりに手足を動かす。
まず一歩。
歩くだけなのに、バランスを崩しそうになる。
でも、手当もせず、食料も水分も取っていないのに、身体は軽かった。
「これから、どうしようか」
この国に留まり続ければ、敵兵や反乱軍に見つかる可能性もある。
聖剣の存在を知られれば、追われる理由はさらに増えるだろう。
私は立ち上がる。
乗り越えた訳じゃない。
割り切った訳でもない。
ただ、これからの人生を、みんなに恥じないように。
この長い人生と、向き合うことを決めた。
◇◇◇
夜が明ける頃、私は再び森の中を歩いていた。
街道は目立ちすぎるため、街道から少しそれた場所を進むようにしているからだ。
ひとまず、王都からは離れることは決まっている。
問題は、そこからどこへ向かうかだ。
王都から離れるなら、いくつかの道がある。
西へ向かえば、これまで戦争が続いていた地域へ戻ることになる。
そこには敗残兵や難民が集まっている可能性が高い。
南へ向かえば、王国軍の残党と遭遇するかもしれない。
どちらも安全とは言えなかった。
ならば、東だ。
「……東へ行こう」
東へ進めば、やがて国境へ辿り着く。
その先には、別の国がある。
もちろん、他国へ逃げたからといって安心できるわけではない。
身分を証明するも、金も、今の私には無い。
知らない土地で暮らす方法も分からない。
それでも、滅びた国に残るよりは生き延びる可能性がある。
何者として生きるのか。
どこへ行くのか。
何をして金を稼ぐのか。
今は何一つ決まっていない。
それでもいい。
まず、生きていればいい。
私は再び、歩き出す。
そしてふと、足を止め、後ろを振り返る。
遠くに、王都の方角から黒煙が上がっていた。
「……さようなら」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
ガルドかもしれない。
ドレイスかもしれない。
ナージャかもしれない。
レオンかもしれない。
王か、王妃か、姫か。
あるいは、王都で生きていた頃の自分自身に向けた言葉なのかもしれなかった。
私は聖剣を布で包み、背負った。
そして、東へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
街道の脇の森を進む。
人や馬車が来れば、見つからぬように身を潜めた。
聖剣も、決して人目に触れさせない。
今の自分を知る者が、この国にどれほど残っているのか分からない。
だから、慎重になるしかなかった。
以前なら、こんな旅を一人でする必要などなかった。
危険な道ならガルドが先頭を歩いた。
ドレイスが地図を広げ、安全な道を探した。
ナージャは周囲を警戒しながら、くだらない話で皆を笑わせた。
レオンなら、きっと隣を歩きながら何度も声を掛けてきただろう。
『クリス、早く行こうぜ!』
そんな声が聞こえた気がした。
私は足を止めた。
反射的に振り返る。
誰もいない。
朝の林に響いているのは、鳥の声だけだった。
「……そうだよな」
笑おうとした。
口元が少し動いただけで、表情にはならなかった。
レオンの声が、あまりにも鮮明に残っている。
ガルドの豪快な笑い声。
ドレイスの淡々とした話し方。
ナージャのからかうような声。
全部、もう聞けない。
そう思うと、足が重くなる。
それでも私は歩いた。
立ち止まっていても、誰かが戻ってくるわけではない。
泣いていても、王都が元に戻るわけではない。
なら、自分がするべきことは一つだった。
生きる。
今は、それしかない。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、街道沿いに小さな店を見つけた。
旅人向けの雑貨屋らしく、水袋や保存食、簡素な衣服、地図などが並べられている。
私は持っている金を確認した。
決して多くはない。
それでも、何日か分の食料と水なら買える。
フードを深く被ったまま店へ入り、必要なものだけを購入する。
最後に、壁へ掛けられた地図へ目を向けた。
王国東部。
国境。
その先にある国々。
街道や都市、山脈、河川。
これから自分が進む場所が、紙の上に広がっている。
私は国境までの道を頭に入れた。
もう、誰かが決めた道を歩くことはできない。
自分で選び、自分で進むしかない。
店を出ると、空が夕焼けに染まり始めていた。
私は再び歩き出す。
王都は、もう見えない。
故郷だった国も。
仲間たちと過ごした場所も。
少しずつ遠ざかっていく。
背負った聖剣へ手を添える。
今の自分に残されたものは、この剣だけだった。
そして、この剣は姫が最後に残したものでもある。
「……私は、生きるよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それが、今の自分にできる唯一の約束だった。
夕暮れの街道を、一人で歩いていく。
帰る場所は、もうない。
家族も。
仲間も。
友も。
すべて失った。
それでも、命だけは残っている。
ならば、生きるしかない。
この先に何が待っているのかは分からない。
どこまで歩けばいいのかも分からない。
ただ、東へ向かう。
知らない国へ。
誰も自分を知らない場所へ。
そこで、もう一度生き方を探すために。
独り歩む背中に、沈みかけた夕日が長い影を落としていた。




