第六十八話 脱出
魔女を倒した直後、私はは聖剣を支えにして中庭を離れた。
身体中の傷が痛む。脇腹から流れる血は止まらず、最後に受けた呪いも身体を蝕んでいる。まともに歩ける状態ではなかったが、敵兵の声が近づいている以上、ここに留まるわけにはいかなかった。
聖剣を握り直す。
白い刀身だけが、燃え落ちていく王城の中で異様なほど鮮明だった。
「……姫」
その名が口から漏れた。
そうだ。
まだ、確認していない。
最後に王女を見た時、彼女はレオンと一緒だった。
レオンが、王女を守っているのを見届けた。
あれから何が起きたのか、何も知らない。
「生きていてくれ……」
祈るように呟き、壁に手をついて歩き出す。
廊下を曲がる。
階段を上る。
途中で何度も足が止まりそうになる。
「……っ」
膝が折れかけ、聖剣を床へ突き立てて身体を支えた。
敵兵の声が聞こえる。
「まだ城内にいるぞ!」
「生存者を探せ!」
「王族を見つけたら報告しろ!」
歯を食いしばる。
ここにいれば見つかる。
逃げなければならない。
それは分かっている。
それでも、姫を置いていくことだけはできなかった。
私は再び歩き出す。
足を引きずりながら、王族の居住区へ向かった。
◇◇◇
永遠にも感じるような廊下を進む。
(もう、動けない……)
廊下の壁際に倒れるように横たわる。
「……はぁ……」
呼吸が浅い。
視界がぼやける。
指先から力が抜け、聖剣を握る手さえ震えていた。
少しだけ休めば動ける。
そう思った直後、意識が途切れた。
◇◇◇
「――いたか!?」
「まだ城内にいる!」
遠くから聞こえた声で、私は目を覚ました。
(今……意識を失っていたのか?)
「……っ」
身体を起こすと、全身に痛みが走る。
呪いのせいなのか、それとも傷のせいなのか、身体の感覚すら曖昧だった。
それでも立ち上がる。
聖剣を杖代わりにして、敵兵の声から離れるように進んだ。
「姫……」
もう一度、その名を呼ぶ。
返事はない。
それでも、足は王族専用区画へ向かっていた。
長い廊下を抜けた先に、大きな扉が見える。
見覚えがあった。
王族だけが使うことを許された場所。
幼い頃に何度か見かけたことはあったが、中へ入った記憶はない。
扉へ手をかける。
「……ここにいるのか?」
返事はなかった。
扉を開ける。
その先には、広い部屋があった。
床には巨大な魔法陣が描かれている。
壁には古い文字。
そして、その中央に――一人の少女が横たわっていた。
「…………」
足が止まった。
「……姫?」
声をかけても動かない。
私は聖剣を床へ立てかけ、少女のそばへ膝をついた。
「姫……」
肩へ手を伸ばす。
触れる前から分かっていた。
呼吸がない。
身体から温もりが失われている。
「……嘘だ」
指先が震える。
「そんな……」
少女の顔を見つめる。
少し前まで、王城の中を歩いていた。
社交の場では緊張しながらも笑っていた。
訓練場では必死に剣を振っていた。
何も知らないように見えて、その裏では王女として国を背負おうと努力していた。
そんな少女が、目の前で死んでいる。
「姫……」
何度呼んでも返事はない。
(遅かった……)
唇を噛んだ。
涙が頬を伝う。
「……どうして」
その言葉を口にした瞬間、前世の記憶が蘇った。
乙女ゲーム。
『ナエラ王国物語~戦場に舞う乙女~』。
ゲームの冒頭で語られていた、この国の歴史。
かつて栄えていたルナエ王国は、内乱によって滅びた。
王族は殺され、王女も命を落とす。
ここまでは知っていた。
ここから、どうやってゲームが始まるのか。
それが、どうしても思い出せなかった。
(思い……出した)
王女の魂は聖剣によって遠い未来へ受け継がれ、ゲーム本編の主人公として生まれ変わる。
何度も見た設定だった。
攻略本にも書かれていた。
ゲームを始めるたびに目にした、物語の始まり。
(なんで今更、思い出すの)
「……これが」
クリスの声が掠れる。
「ゲームで語られていた……王国滅亡の瞬間……」
自分が転生したことで、歴史は変わると思っていた。
ゲームには存在しなかった自分が、この世界で生きてきた。
公爵家を出た。
《暁の牙》に入り、ガルドたちと出会った。
レオンと肩を並べて戦った。
戦争にも勝った。
王国の未来を変えられる。
そう信じていた。
だが、目の前にある現実は違った。
王国は滅びた。
王女は死んだ。
自分が知っているゲームの歴史と、同じ場所へ辿り着いてしまった。
「……私は」
クリスは少女の手を握った。
「何のために、ここまで……」
答えは返ってこない。
その時、遠くから敵兵の声が響いた。
「こっちだ!」
「まだ生存者がいるかもしれない!」
クリスは顔を上げた。
ここに長くはいられない。
敵に見つかれば、今度こそ動けなくなる。
立ち上がろうとした時、部屋の隅に小さな扉があることに気づいた。
「……あれは」
壁の装飾に紛れるように作られた、目立たない扉だった。
記憶を探る。
ゲームでは、王城の隠し通路がいくつか登場した。
その中には、王族専用区画から城外へ抜けるものもあったはずだ。
「……使えるかもしれない」
クリスは少女をもう一度見る。
本当なら、ここを離れたくなかった。
せめて最後までそばにいたかった。
だが、自分まで捕まれば、何も残らない。
クリスは立ち上がった。
「……ごめん」
それだけを少女へ告げる。
「姫を守れなかった私が言うことじゃないけど……」
言葉が続かない。
私は拳を握り、扉へ向かった。
◇◇◇
扉の向こうには、狭い石造りの通路が続いていた。
私は聖剣を杖代わりにして、一歩ずつ進む。
背後から敵兵の足音が近づいてくる。
やがて扉が開く音がした。
「この部屋だ!」
私は振り返らなかった。
ただ、前だけを見て歩く。
王城の中には、まだ燃える音が響いている。
炎の向こうにあった日常は、もう戻ってこない。
ガルドも。
ドレイスも。
ナージャも。
ルカも。
レオンも。
そして、姫も。
すべてを失った。
それでも、足を止めることはできなかった。
暗い通路の先へ進む。
この先に何が待っているのかは分からない。
ただ、生き残らなければならない。
それだけが、今の私に残された唯一の命令だから。




