幕間 さいごの願い(姫side)
私は、ずっと何も知らなかった。
王城の中は、いつも穏やかだった。
朝になれば侍女たちが部屋へやってきて、カーテンを開ける。窓の外には白い城壁が見え、その向こうには王都の街並みが広がっていた。
「おはようございます、姫様」
「おはよう」
庭園には季節の花が咲き、鳥の声が聞こえる。
廊下を歩けば、侍女や兵士たちが頭を下げる。
食事の時間になれば、料理が運ばれてくる。
それが私にとっての毎日だった。
国境で何が起きているのか。
戦場で兵士たちがどんな思いで剣を握っているのか。
民がどれほど不安を抱えているのか。
私は知らなかった。
父が王として、どれほど多くの決断を迫られていたのかも。
母が王妃として、どんな不安を抱えていたのかも。
何も知らないまま、私は王城の中で守られていた。
綺麗な服を着て、美味しい食事を食べて、勉強をして、時には庭を散歩する。
それが王族として当然なのだと思っていた。
外の世界には、もっと恐ろしいものがある。
そんなことさえ、私は本当の意味では理解していなかった。
あの日までは。
◇◇◇
私には、憧れている人がいた。
仮面の騎士様。
戦場で王国を救った、正体不明の騎士。
誰も素顔を知らない。
どこから来たのかも分からない。
それでも、戦場で何度も王国の兵士たちを救った英雄だった。
王城でその姿を見かけるだけで、嬉しかった。
声を聞くだけで心が弾んだ。
あの人は、私にとって初めての憧れだった。
けれど、そんな私のそばには、いつもレオンがいた。
「姫、また一人で来たんですか?」
「だって、レオンがいるでしょう?」
「俺がいればいいって問題じゃないだろ」
呆れたように言いながらも、結局は私の隣を歩いてくれる。
少し乱暴で、口も悪い。
自分のことになると、驚くほど無頓着。
怪我をしても平気な顔をするし、無茶をしてクリスに怒られていることもあった。
それでも、私が怖がれば必ず前に立ってくれた。
泣いていると、何も言わず隣にいてくれた。
「俺が守りますから」
その言葉を、私は何度聞いただろう。
だから、信じていた。
何が起きても大丈夫なのだと思っていた。
レオンがいる。
クリスがいる。
ガルドたちがいる。
みんながいるなら、王国はこれからも続いていく。
明日も今日と同じように朝が来る。
そんな未来を疑ったことはなかった。
今思えば、私はあまりにも何も知らなかった。
◇◇◇
王都は燃えていた。
王城にも敵が入り込んだ。
兵士たちが倒れ、逃げ惑う人々の声が響き、見慣れた廊下が血で汚れていく。
父は死んだ。
母も死んだ。
そして、最後に残った私を守ろうとしてくれたレオンまで。
「……レオン」
何度呼んでも返事はない。
「起きて……」
肩を揺らす。
けれど、身体は動かなかった。
血に濡れた顔。
閉じられた瞳。
もう、あの無邪気な声を聞くことはできない。
「嫌……」
涙が頬を伝う。
「嫌だよ……」
どうして。
どうして、こんなことになったの。
私は何も知らなかった。
何もできなかった。
ずっと誰かに守られていただけだった。
父も。
母も。
レオンも。
私を守ろうとしてくれた人たちは、みんな私の前から消えてしまった。
「……どうして」
呟いても、答えてくれる人はいない。
遠くでは炎が燃え続けている。
その音を聞きながら、私はレオンの手を握った。
もう、温もりはほとんど残っていなかった。
「……私も、何かできたらよかったのに」
その言葉が口からこぼれた時だった。
中庭の奥にある扉が目に入った。
王族専用の脱出通路。
幼い頃、一度だけ父に連れられて近くまで来たことがある。
その先に何があるのか、詳しく教えられた記憶はない。
ただ、王族だけが知る場所だと聞かされていた。
今まで気にしたこともなかった。
けれど、今はなぜか、その扉が気になった。
私は立ち上がる。
足元がおぼつかない。
それでも、扉へ向かって歩いた。
レオンを置いていくことが苦しかった。
何度も振り返りそうになった。
それでも、今の私には他にできることがなかった。
◇◇◇
重い扉を開く。
その先には、小さな部屋があった。
王城の他の場所とは明らかに違っている。
壁には古い文字が刻まれ、床には巨大な魔法陣が描かれていた。
そして、その中心に一振りの剣が置かれている。
「……剣?」
白い刀身。
装飾の施された柄。
炎と血に包まれた王城の中で、その剣だけは何一つ汚れていなかった。
私は吸い寄せられるように近づいた。
一歩。
また一歩。
魔法陣の中へ入った瞬間だった。
「……っ!」
頭の中に、知らない光景が流れ込んできた。
遥か昔。
この国がまだ建国されたばかりだった頃。
王族の血を継ぐ者たち。
国を守るために作られた秘術。
そして、その中心にある一振りの聖剣。
これはただの武器ではない。
王族の魂を次代へ繋ぐためのもの。
聖剣に認められた直系王族は、その力を受け継ぐことができる。
ただし、その代償として――。
「……命を?」
私は息を呑んだ。
聖剣の力を次代へ繋ぐには、今の肉体を捨てなければならない。
つまり。
これは死を意味している。
「私が……死ぬの?」
怖かった。
当然だ。
まだ何も分からない。
何も成し遂げていない。
王女として何もできなかった私は、これから何をすればいいのかすら分からない。
なのに。
背後には、レオンがいる。
父も母も、もういない。
王都は燃えている。
このまま何もしなければ、私もここで終わる。
「……嫌」
私は聖剣を見つめた。
「このまま終わるのは、嫌」
怖い。
死にたくない。
それでも、何も知らないまま守られていた自分に戻ることだけは、もっと嫌だった。
レオンは最後まで私を守ろうとした。
クリスも、きっと今も戦っている。
ガルドたちも、私たちを逃がすために残った。
みんなが命を懸けている。
だったら。
私だけが、何もせずに生き残ろうとするわけにはいかなかった。
私は聖剣へ手を伸ばした。
指先が柄に触れる。
温かな光が広がった。
「……」
拒まれない。
むしろ、ずっとこの時を待っていたかのように、聖剣は淡い光を放っていた。
頭の中に流れ込んできた記憶が、少しずつ薄れていく。
代わりに、言葉だけが残った。
――魂を、未来へ。
私は振り返った。
扉の向こうには、もう動かないレオンがいる。
「……レオン」
声が震えた。
「私、何もできなかった」
涙が落ちる。
「ずっと守ってもらってばかりだった」
それでも、聖剣から手を離さなかった。
「だから……今度は」
私は白い刀身を見つめる。
「私も、何かを守れる人になりたい」
聖剣が光を強める。
「私に何ができるのかは分からない」
それでも。
もう逃げたくなかった。
「教えて」
柄を両手で握る。
「この国を……未来を守るために、私に力を貸して」
白い光が、部屋いっぱいに広がった。
眩しさに目を閉じる。
その向こうで、私は知らない未来を思い描いた。
この国が滅びても。
王家が失われても。
私がここで命を終えても。
誰かが生きている限り。
この国の想いは、終わらない。
聖剣は、そのために存在している。
「……レオン」
最後に一度だけ、振り返る。
「ありがとう」
返事はない。
それでも、私は微笑んだ。
そして、聖剣を強く握り締めた。
白い光が、私の身体を包み込んでいく。
私の意識は、少しずつ遠ざかっていった。
その日。
王国は滅びた。
けれど。
魂だけは、聖剣によって未来へ託された。
◇◇◇
そして数百年後。
彼女は別の時代で、再び目を覚ます。
乙女ゲーム。
『ナエラ王国物語~戦場に舞う乙女~』
その物語の、主人公として。




