第六十五話 守護者の最期(レオンside)
黒い剣を握ったまま。
俺は、王女へ向かって歩いていた。
一歩。
また一歩。
足は自分の意思で動かしているはずなのに、どこか遠い。
身体の感覚が薄れていく。
さっきまで痛かった肩の傷も、脇腹から流れていた血も、今はほとんど気にならなかった。
それよりも。
頭の中に響く声の方が、ずっと大きかった。
『殺せ』
「……違う」
口から声が漏れる。
けれど、自分の声なのに妙に遠く聞こえた。
『敵だ』
『目の前の敵を殺せ』
『すべて殺せ』
「違う……」
俺は歩みを止めようとした。
だが、足は止まらない。
黒い剣を握った右手も、力を抜くことができなかった。
「くっ……!」
指を開こうとする。
動かない。
まるで手そのものが剣に縫い付けられてしまったようだった。
「なんだよ……これ……」
目の前には王女がいる。
さっきまで俺を心配そうに見つめていた。
その姿を見た瞬間、頭の中に別の声が浮かんだ。
『守れ』
「……え?」
『守れ』
さっきまで殺せと言っていた声とは違う。
その言葉に導かれるように、俺の足が止まった。
「姫……」
王女が俺を見る。
「レオン?」
その声を聞いた途端、頭の中を激しい痛みが走った。
「――っ!」
視界が揺れる。
何かが頭の中へ流れ込んでくる。
憎悪。
怒り。
悲しみ。
絶望。
誰かを憎む感情。
誰かを殺したいという衝動。
そして。
失ったものを取り戻したいという、強烈な願い。
「やめろ……」
俺は頭を押さえた。
「俺の中に……入ってくるな……!」
黒い剣が脈打つ。
手のひらから伝わる冷たさが、腕を這い上がってくる。
『殺せ』
「違う!」
『お前からすべてを奪った者たちを』
「違う!」
『ならば、目の前の者を殺せ』
「この人は……」
俺は王女を見る。
怯えている。
それでも逃げようとはしなかった。
「この人は敵じゃない」
王女は俺のことを見つめている。
「レオン……?」
「来るな」
「え……?」
「俺に近づくな!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
王女の肩が跳ねる。
「どうしたの……?」
「来るな!」
俺は剣を握ったまま、一歩後ろへ下がった。
そのはずだった。
なのに。
身体は逆に、一歩前へ進んだ。
「……っ!」
恐怖が込み上げる。
俺の身体が。
俺の意思とは関係なく。
王女へ近づいている。
「レオン……」
「来ないで……」
今度は懇願するような声になった。
「お願いだから……俺に近づかないで」
「どうして……?」
「俺にも分からないんだ」
視界が歪む。
王女の姿が二重に見える。
その向こうに。
別の誰かの姿が重なった。
倒れた兵士。
燃える城。
血に染まった王都。
そして。
黒い剣を握った男たち。
知らない記憶だった。
「何だよ……これ……」
頭の中で声が重なる。
『殺せ』
『奪え』
『憎め』
『お前も失っただろう』
「……違う」
『ならば、なぜ生きている』
「違う……!」
『守れなかったくせに』
「……!」
その言葉に。
俺の身体が止まった。
守れなかった。
その言葉だけは。
胸に突き刺さった。
ガルド。
ドレイス。
ナージャ。
そして、クリス。
俺たちは王城へ来た。
王族を逃がすために。
国を守るために。
なのに。
今。
俺の手にあるのは、こんな禍々しい剣だった。
「……クリス」
その名前を呟く。
初めて会った時のことを思い出す。
無愛想で。
何を考えているのか分からない奴だった。
それなのに。
気がつけば、いつも近くにいた。
一緒に飯を食べた。
一緒に訓練した。
一緒に戦った。
くだらない話で笑った。
危険な場所へ行く時には、いつも自分が先に行った。
何度言っても。
あいつは自分を大切にしなかった。
だから。
俺は何度も言った。
「お前、自分のこと全然大事にしてないよな」
クリスは困ったように笑っていた。
「……クリス」
声が震える。
「俺、まだ帰ってないんだ」
帰りたかった。
《暁の牙》へ。
ガルドのところへ。
ドレイスのところへ。
ナージャのところへ。
そして。
クリスのところへ。
いつもの場所へ戻りたかった。
けれど。
右腕が動いた。
「……っ!」
俺の意思とは関係なく、黒い剣が持ち上がる。
「嫌だ……!」
切っ先が王女へ向く。
「レオン……?」
王女の顔が強張る。
「来るな!」
俺は叫んだ。
「俺に近づくな!」
「でも……」
「早く逃げて!」
王女は首を横に振った。
「嫌です」
「……!」
「レオンを置いていけません」
「違う!」
声が震える。
「今の俺は……俺じゃないんだ!」
王女は怯えながらも、その場から動かなかった。
「怖くないよ」
「……嘘だ」
「怖いです」
王女は正直に答えた。
「でも、あなたが苦しんでいるのに、逃げられません」
その言葉が。
俺の心を揺らした。
殺せ。
殺せ。
殺せ。
頭の中では、相変わらず声が響いている。
それでも。
目の前の王女は。
俺を敵として見ていなかった。
「……姫」
「はい」
「俺……」
剣先が震える。
王女の首元へ近づいていく。
「俺は……姫を殺したくない」
「分かっています」
「でも……止められない」
切っ先が肌に触れた。
ほんの少し力を入れれば。
終わる。
「レオン……」
王女の目から涙が落ちた。
それを見た瞬間。
俺の中で何かが切れた。
「……嫌だ」
俺は剣を引こうとした。
動かない。
「俺は……」
歯を食いしばる。
「俺は、この人を守るって決めたんだ!」
ガルドの言葉が蘇る。
『剣ってのはな、誰かを斬るためだけのもんじゃねぇ』
『守るために握ることもできる』
「そうだ……」
俺は黒い剣を握り締めた。
「俺は守るために剣を握った」
王女を見る。
「だから……」
俺は震える腕を無理やり動かした。
剣先が王女から逸れる。
「逃げて」
「レオン……?」
「俺から離れて」
「でも!」
「早く!」
叫ぶ。
「俺が俺でいられるうちに!」
王女は涙を流しながら首を横に振る。
「嫌です……」
「頼む!」
俺は叫んだ。
「俺は、姫を傷つけたくない!」
その言葉を吐き出した瞬間。
頭の中で、何かが大きく軋んだ。
『邪魔だ』
「……!」
黒い剣が強く脈打つ。
腕が再び動き始める。
「くそっ……!」
俺は必死に抵抗した。
けれど。
もう限界だった。
視界の端から黒く染まっていく。
身体の感覚が消えていく。
このままでは。
本当に王女を殺してしまう。
「……そうか」
俺は呟いた。
「俺が死ねば……いいんだ」
「レオン?」
王女が目を見開く。
俺は黒い剣を握ったまま、切っ先を自分へ向けた。
「そんな……!」
「来るな!」
王女が駆け寄ろうとする。
「でも!」
「来ないで!」
最後に残った力を振り絞る。
「俺は……姫を守りたい!」
それだけは。
魔剣に奪わせなかった。
黒い剣を、自分の胸へ向ける。
「レオン――!」
王女の叫びが聞こえた。
「ごめん」
俺は目を閉じる。
「俺……まだ、帰りたかったんだけどな」
ガルドのところへ。
ドレイスのところへ。
ナージャのところへ。
クリスのところへ。
もう一度。
みんなと笑いたかった。
それでも。
俺の剣が王女へ向くくらいなら。
俺は。
自分で終わらせる。
「――っ!」
黒い剣が胸を貫いた。
熱い。
身体の奥まで焼けるような痛みが走る。
「レオン――――ッ!」
王女の悲鳴が響いた。
膝から力が抜ける。
それでも。
最後まで剣先は王女へ向かなかった。
俺はそのまま地面へ倒れた。
「レオン!」
王女が駆け寄ってくる。
身体を抱き起こされる。
「嫌……」
王女の声が震えていた。
「起きて……」
「お願いだから……」
返事をしようとした。
けれど。
声が出ない。
視界がぼやける。
王女の顔だけが、霞んでいく。
「……泣かないで」
ようやく。
それだけを口にした。
「俺は……」
言葉が続かない。
それでも。
伝えたかった。
「幸せだった」
《暁の牙》に入れた。
ガルドに出会えた。
ドレイスとナージャと過ごせた。
クリスと出会えた。
そして。
最後まで。
誰かを守るために剣を握れた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
王女か。
仲間たちか。
クリスか。
それとも。
自分をここまで育ててくれたガルドか。
全部だったのかもしれない。
「レオン……!」
王女が俺の身体を強く抱きしめる。
温かい。
けれど。
その温もりも、少しずつ遠ざかっていく。
意識が沈む。
音が消えていく。
最後に見えたのは。
泣きながら俺を抱きしめる王女の姿だった。
そして。
俺の手に残っていた黒い剣が、ゆっくりと脈打つ。
まるで。
何かを待っているかのように。
俺の意識が完全に途切れる直前。
どこからか、声が聞こえた気がした。
『――見つけた』
その声を最後に。
俺の意識は闇へ沈んだ。
王城の中庭には。
泣き叫ぶ王女と。
血に濡れた少年。
そして。
黒い剣だけが残された。




