第六十四話 最後の守護者(レオンside)
クリスとはぐれてから、俺は王女の手を引いて廊下を走っていた。
背後から敵兵の足音が迫っている。
剣戟。
怒号。
悲鳴。
壁の向こうでは、何かが崩れ落ちる轟音まで響いていた。
王城そのものが、少しずつ壊れている。
「レオン……」
隣を走る王女の声が震えた。
「大丈夫です」
俺は前を向いたまま答える。
「俺がついてますから」
「でも……クリスが……」
「クリスなら大丈夫です」
そう言い切った。
本当は、俺だって怖い。
あいつは、あれだけの敵を相手に一人で残った。
無事でいる保証なんてない。
それでも、今の俺には目の前の王女を守ることしかできなかった。
「もう少しです」
俺は前方を確認する。
「中庭を抜ければ、王族専用の脱出通路があります。そこから城の外へ出られます」
「……本当に?」
「はい」
少しだけ笑う。
「だから、絶対に俺から離れないでください」
「……分かりました」
王女が頷いた。
廊下の先に大きな扉が見える。
俺は王女の手を握り直し、そのまま扉を押し開けた。
その先に広がっていた中庭を見た瞬間、足が止まった。
「……え?」
中庭の中央。
そこに、一人の男が立っている。
朝の光が差し込んでいるのに、その男の周囲だけが別の場所のように暗く見えた。
手にしているのは、黒い剣。
血に濡れた刀身が、鈍い光を放っている。
足元には、何人もの兵士が倒れていた。
王女が息を呑む。
「……叔父様」
公爵だった。
公爵は何も言わない。
ただ、こちらへ黒い剣を向けている。
「叔父様……」
王女が一歩前へ出る。
「どうして……こんなことをするのですか?」
返事はない。
「私は、叔父様に何もしていません」
王女の声が震える。
「国民だって、何も悪いことをしていません。どうして……」
公爵の顔が僅かに歪んだ。
「……ルカ」
「え?」
王女が目を見開く。
公爵の口から、掠れた声が漏れた。
「ルカを……返せ……」
その言葉と同時に、黒い剣が脈打った。
公爵の表情が変わる。
悲しみも、迷いも消えた。
残ったのは、王女へ向けられた憎しみだけだった。
「姫!」
俺は王女の前へ飛び込む。
次の瞬間、公爵が地面を蹴った。
黒い剣が振り下ろされる。
「――っ!」
俺は剣を抜いて受け止めた。
ガァンッ、と凄まじい衝撃が腕を叩く。
「ぐっ……!」
身体が後ろへ押し込まれる。
足が石畳を擦った。
「重い……!」
ただ重いだけじゃない。
力の乗り方がおかしい。
公爵自身の膂力に加えて、黒い剣がさらに力を引き出しているようだった。
公爵が剣を押し込んでくる。
俺は歯を食いしばり、横へ刃を滑らせた。
力を逃がす。
同時に懐へ入り込んだ。
「そこだ!」
剣を振る。
公爵が身体を捻って避けた。
刃が肩を掠める。
浅い。
手応えがない。
「……速い」
俺が距離を取るより先に、公爵が踏み込んできた。
黒い剣が横薙ぎに迫る。
身を屈める。
頭上を刃が通り過ぎる。
そのまま足を払おうとした。
だが、公爵は踏みとどまった。
黒い剣が反転する。
「くっ!」
俺は剣を立てて受ける。
衝撃で腕が痺れた。
次の一撃。
さらに一撃。
防ぐたびに身体が後ろへ押されていく。
「レオン!」
王女の声が聞こえる。
「下がって!」
俺は叫んだ。
「絶対に前へ出ないで!」
公爵の剣が迫る。
受ける。
弾く。
避ける。
それでも追いつかれる。
黒い剣が俺の脇腹を浅く裂いた。
「――っ!」
熱い。
服が赤く染まる。
俺は後ろへ跳んだ。
息が乱れる。
それでも、王女との間には立ち続けた。
「レオン……血が……」
「平気です!」
嘘だった。
平気なわけがない。
痛い。
腕は痺れている。
脇腹から血が流れている。
それでも。
俺が退けば、王女が斬られる。
だから退けない。
公爵が再び構えた。
黒い刀身が、まるで生き物のように揺れている。
「来い……!」
俺も剣を構えた。
公爵が踏み込む。
今度は真正面から受けた。
「ぐあっ……!」
腕が軋む。
膝が沈む。
剣が押し込まれる。
あと少し耐えれば、身体ごと斬り裂かれる。
そう思った瞬間だった。
公爵の目が、俺ではなく王女へ向いた。
「――姫!」
俺は無理やり身体を捻った。
黒い剣が肩を深く斬り裂く。
「――あああっ!」
血が噴き出した。
それでも倒れない。
痛みで視界が揺れる。
右腕に力が入らない。
それでも、剣は握っている。
「レオン!」
「大丈夫……です!」
息を切らしながら笑った。
「俺が……守りますから」
その言葉を口にした時。
ガルドの声が蘇った。
『剣ってのはな、誰かを斬るためだけのもんじゃねぇ』
『守るために握ることもできる』
昔の俺には、その言葉の意味が分からなかった。
強くなりたい。
誰にも負けたくない。
ただ、それだけだった。
でも今は違う。
俺の後ろには王女がいる。
守らなければならない人がいる。
「……そうだ」
俺は震える腕に力を込めた。
「俺は、守るんだ」
公爵が踏み込んだ。
黒い剣が振り上げられる。
俺は構えた。
さっきまでとは違う。
公爵の剣だけを見る。
肩。
腰。
踏み込む足。
黒い剣が振り下ろされる直前、僅かに身体が沈んだ。
「そこだ!」
俺は横へ滑った。
黒い刃が肩を掠める。
避けきれない。
それでも止まらない。
痛みに耐えながら、一歩踏み込む。
公爵の懐へ入った。
「――っ!」
公爵の目が見開かれる。
黒い剣が戻ってくるより早く、俺は剣を振り上げた。
肩から胸へ。
肉を裂き、骨を断つほどの一撃を叩き込む。
「ぐ……!」
公爵の身体が大きく揺れた。
剣が深く食い込む。
俺は歯を食いしばり、最後まで振り抜いた。
公爵の身体から力が抜ける。
黒い剣が手から離れた。
カラン、と乾いた音が中庭に響く。
公爵はその場に崩れ落ちた。
「……はぁ……」
俺もその場で膝をついた。
肩から血が流れている。
脇腹も痛む。
息をするたびに身体が軋んだ。
それでも。
立てる。
まだ動ける。
「レオン!」
王女が駆け寄ってくる。
「大丈夫です」
俺は壁に手をつき、身体を起こした。
「これくらいなら……まだ動けます」
「そんな傷で……」
「早く、脱出通路へ行きましょう」
俺は王女を見る。
「クリスとも合流しないと」
「……はい」
王女が頷く。
俺は一歩踏み出した。
その時だった。
背後から、金属音が響いた。
カラン。
地面に落ちた黒い剣が、僅かに動いている。
「……?」
俺は振り返った。
なぜか。
目が離せなかった。
王女を連れて行かなければならない。
クリスとも合流しなければならない。
分かっている。
なのに。
あの剣が気になる。
俺は数歩だけ近づいた。
「レオン?」
「……少しだけ」
黒い剣を見つめる。
禍々しい。
触れてはいけない。
頭ではそう分かっていた。
それでも、剣の柄へ手を伸ばす。
指先が触れた。
「――っ!」
冷気が身体を駆け抜けた。
「何だ……これ……」
手を離そうとする。
動かない。
黒い刀身が脈打った。
まるで、俺の存在を確かめるように。
「レオン! その剣から離れて!」
王女の声が響く。
「分かってます!」
そう答えた。
けれど、手は離れなかった。
黒い何かが指先から腕へ入り込んでくる。
「ぐっ……!」
視界が揺れる。
頭の中へ、知らない声が流れ込んだ。
殺せ。
奪え。
憎め。
「……やめろ」
俺は歯を食いしばった。
「俺は……そんなことしない」
声が重なる。
王女を見ろ。
守るべき相手。
ならば、その力を使え。
「違う……」
俺は黒い剣を握り締める。
「俺は、力が欲しいんじゃない」
ガルドの言葉を思い出す。
守るために剣を握る。
「俺は……姫を守る」
その瞬間。
黒い剣が大きく脈打った。
「――っ!」
身体中を冷たい感覚が走り抜ける。
それでも。
俺は剣を手放さなかった。
王女の声が遠くなる。
「レオン……!」
「姫……」
俺は必死に顔を上げた。
「大丈夫です」
傷だらけの身体を引きずるようにして、王女の方へ一歩進む。
「俺が……守りますから」
黒い剣を握った手だけが、妙に重かった。
それでも俺は歩く。
今はまだ。
自分の意思で歩いている。
そう信じながら。




