第五十五話 はじまり
どれほど戦ったのか、もう分からなかった。
気が付けば、白の正門前に立っていた人々の数は大きく減っていた。
石畳には倒れた人々が横たわり、折れた剣や槍が散らばっている。あちこちに血が滲み、先ほどまで響いていた怒号も、今は途切れ途切れになっていた。
「……もう、来ないのか?」
一人の兵士が呟く。
返事はなかった。
誰もが盾を構えたまま、門の向こうを警戒している。
「警戒を解くな!」
ガルドが大声を張り上げた。
「まだ何が起きるか分からねぇぞ!」
兵士たちは頷き、倒れた人々の間を慎重に見回していく。
しばらくして、ドレイスが周囲を確認した。
「現在、こちらへ向かってくる者はありません」
「本当にか?」
「はい。少なくとも、この周辺では新たな動きは確認できません」
ガルドは大剣を下ろした。
「……ようやく止まったか」
私は剣を握ったまま、目の前に広がる光景を見つめていた。
相手は敵国の兵士ではない。
昨日まで城下町で暮らしていた人々だ。
店を営み、家族と食事をし、明日の仕事を考えていたはずの人たち。
そんな人々が、目の光を失ったような顔で襲い掛かってきた。
斬られても怯まず、倒されても立ち上がる。
あれほどの恐怖を感じているはずなのに、逃げようともしなかった。
(何をされたんだ……)
答えは出ない。
私は剣を鞘へ収めた。
「クリス」
ガルドがこちらを見る。
「怪我は?」
「ありません」
「ならいい。お前、顔色が悪いぞ」
「……少し疲れただけです」
公爵領を出てから、一度も馬を休ませていない。
そのまま王都へ入り、目の前の人々と戦った。
疲れていない方がおかしい。
それでも今は、自分のことを気にしている場合ではなかった。
「それより、王族は?」
ガルドの表情が変わる。
「まだ確認できてねぇ」
「では、確認しましょう」
「ああ」
私たちは正門を離れ、王城内部へ向かった。
城下町で暴動が起きた以上、この混乱に乗じて別の集団が城内へ侵入している可能性もある。
まずは王族の無事を確かめなければならない。
◇◇◇
王城の中へ入ると、正門前とは違う緊張が漂っていた。
兵士たちが廊下の要所に配置され、普段なら行き交っている使用人の姿もほとんどない。
誰もが声を抑え、周囲を警戒している。
「国王陛下は?」
ガルドが近くの兵士に尋ねた。
「ご無事です」
「王妃殿下は?」
「そちらも問題ありません」
「王女殿下は?」
「王女殿下も、ご無事です」
その言葉を聞いて、私は肩の力を抜いた。
「……そうですか」
それだけ言うのが精一杯だった。
王女。
まだ幼く、何も知らない少女。
公爵領で魔女と対峙した時から、ずっと気になっていた。
あの子が無事なら、それだけでいい。
私たちは王族がいる区画へ向かい、直接その姿を確認した。
国王も王妃も無事だった。
王女にも怪我はない。
ただ、突然の騒動に巻き込まれた少女の顔には、隠しきれない不安が浮かんでいた。
「クリス……」
王女が私を見る。
「何が起きているのですか?」
答えに迷った。
公爵領で見たものを、すべて話すわけにはいかない。
魔女。
黒い魔剣。
公爵軍の異常な動き。
領民の不満を利用していた武装集団。
そして、今夜の王都で起きた暴動。
どれもまだ、確かな証拠で繋がっているわけではない。
「城下町で暴動が起きました」
私は言葉を選びながら答えた。
「現在は王国軍が鎮圧に当たっています。王城内への侵入は確認されていません」
「……そうですか」
王女は頷いた。
「では、皆さんは大丈夫なのですね?」
「はい」
「よかった……」
少女の表情がわずかに緩む。
自分のことより、城下町の人々を心配している。
その姿を見ていると、昔から変わらないものを感じた。
「王女殿下」
ガルドが声を掛ける。
「俺たちが必ず原因を調べます。今は部屋から出ないようにしてください」
「分かりました」
王女は素直に頷いた。
私はその姿を確認してから、踵を返した。
まだやるべきことが残っている。
公爵領で起きていたことを、ガルドたちだけではなく王国軍にも伝えなければならない。
◇◇◇
兵舎へ戻ると、作戦会議室にはすでに王国軍の幹部たちが集まっていた。
机の上には王都の地図が広げられ、城下町の各所に印が付けられている。
「まず、王都で何が起きたのか確認しましょう」
ドレイスが言った。
私は席に着くと、先ほどまでの出来事を順に話した。
「最初に確認されたのは、城下町の一部で起きた騒ぎです」
「商店が襲われ、住民同士の争いが発生した。その後、王城へ向かう集団が現れました」
「正門前では、多くの民間人が兵士へ襲い掛かってきた」
そこまで話してから、私は公爵領で見たものを伝えた。
「公爵領でも、以前から領民の不満が広がっていました」
「武装した集団が村へ入り、商人を脅し、公爵家への不満を煽っていたんです」
ドレイスが地図から顔を上げる。
「それが公爵領だけではなかった、と」
「はい」
「さらに、公爵の側には一人の女がいました」
室内の視線が集まる。
「女?」
「公爵の相談役を名乗っていました」
私は頷いた。
「その女が、公爵へ魔剣を渡した」
「魔剣だと?」
幹部の一人が声を上げる。
「公爵は力を求め、その女から魔剣を受け取ったようです。私が見た限り、あの剣には普通ではない何かがありました」
ガルドが腕を組む。
「それで、公爵軍まで妙な動きを始めたわけか」
「はい。王国軍の介入を拒み、領民へ忠誠を求める動きが出ています」
ドレイスはしばらく地図を見つめた。
「公爵領の武装集団。そして、今夜の王都の暴動……」
「私は無関係だとは思えません」
私が言うと、ドレイスがこちらを見る。
「魔女が関わっていると?」
「断定はできません」
私は首を横に振った。
「ですが、あの女は人の不安や欲望を利用していました。公爵領では、領民の不満が膨らむよう仕向けていた」
「そして、今夜は王都でも民衆が突然暴れ始めた」
「同じ手口とは限りません。でも、タイミングが良すぎます」
ナージャが腕を組む。
「城下町の人たち、本当に普通じゃなかったよ」
彼女は正門で見た光景を思い出すように眉を寄せた。
「痛がる様子もなかった。逃げることもなかったし……まるで、自分が何をしてるのか分かってないみたいだった」
「そこが問題です」
ドレイスが答える。
「ただ不満を煽っただけなら、あれほど無謀な行動には出にくい」
「操られていたってことか?」
ガルドが尋ねる。
「可能性はあります。しかし、現時点では判断できません」
ドレイスはきっぱりと言った。
「魔法によるものなのか、薬物なのか、それとも別の手段なのか。調べなければ分かりません」
「なら、調べるしかねぇな」
ガルドが立ち上がる。
「まずは王城の警備を強化する。城下町との出入口も監視だ」
「公爵領からの動きも確認しましょう」
私が続ける。
「公爵軍が王都へ向かっている可能性があります」
「分かった」
ガルドが頷く。
「ドレイス、兵の配置を頼めるか?」
「すでに考えています」
ドレイスは地図へ手を伸ばした。
「城門を固めるだけでは不十分です。敵が内部へ入り込むことを前提に、王城内の警備も見直しましょう」
「ナージャは?」
「城下町の情報を集める。商人や酒場に顔が利く人間を使えば、暴動が始まる前に何があったのか探れると思う」
「頼む」
次々と役割が決まっていく。
誰も、公爵がすぐに攻め込んでくるとは断定していない。
魔女が王都の暴動を引き起こしたとも言い切れない。
それでも、何かがおかしい。
だからこそ、今できる備えをする。
「今夜は交代で警備に当たります」
ドレイスが言った。
「全員が起きている必要はありません。判断力が落ちれば、かえって危険です」
ガルドが私を見る。
「クリス、お前も休め」
「私は――」
「公爵領から馬を飛ばして戻って、そのまま戦ってんだろ?」
言われて初めて、自分の身体が限界に近づいていることに気付いた。
「ここで無理して倒れたら、明日から困る」
「……分かりました」
私は頷いた。
会議室を出る前に、窓の外を見る。
王都のあちこちから立ち上っていた煙は、まだ完全には消えていない。
だが、正門前の戦いは終わった。
王族も無事だった。
ガルドも、ドレイスも、ナージャも生きている。
今は、それで十分だった。
それでも、頭から離れない。
公爵領で見た女の顔。
金色の瞳と、穏やかな笑み。
『私は少しだけ、背中を押しているだけです』
あの言葉が、今になって別の意味を持って聞こえる。
人を動かす。
不安を利用する。
欲望を膨らませる。
それだけで国を揺らせるのなら、あの女は公爵領だけを見ているわけではないのかもしれない。
私は窓から視線を離した。
まだ何も分からない。
だからこそ、決めつけるわけにはいかない。
明日になれば、新しい報告が届く。
その報告を一つずつ確認し、何が起きているのかを見極めるしかない。
「クリス」
廊下からガルドが呼ぶ。
「行くぞ。今日はもう休め」
「はい」
私は彼の後を追った。
王都を襲った異変は、まだ終わっていない。
公爵領で起きていることとも、無関係とは思えない。
ただ今夜、私たちにできるのは、王城を守り、情報を集め、次の動きに備えることだった。




