第五十三話 揺らぎ始めた心
領主館の奥にある執務室へ入ると、公爵が一人で机に向かっていた。
以前より顔色が悪い。
机の上には大量の書類が積まれていた。
領民からの嘆願書。
税収の記録。
各地から届いた報告書。
その隅には、黒い布に包まれた細長い物体が置かれている。
私は一瞬、それへ視線を向けた。
黒い布の隙間から覗く柄。
報告にあった黒い剣だ。
(まだ、魔剣だとは限らない。)
一縷の望みにかけたかった。
公爵は私の視線に気付いたようだった。
無言で側へ来るように示す。
「久しいな」
「はい」
「座れ」
促され、私は向かいの椅子へ腰を下ろした。
先ほどの女は、公爵の横に立っている。
私はまず、調査の目的を告げた。
「武装集団について確認したいことがあります」
「分かっている」
公爵は書類へ目を向けた。
「私の領内で騒ぎが起きている」
「公爵様自身は、彼らをどう見ていますか?」
「盗賊とは考えていない」
「なぜです?」
「金品を狙っていないからだ」
公爵は一枚の報告書を取り上げた。
「村人へ不満を口にさせ、領主への不信を広げている。目的が金ではなく、人そのものに向いている」
「心当たりは?」
「ない」
迷いのない答えだった。
「ただ、戦争で領民の生活が苦しくなったことは事実だ」
「だから不満が生まれること自体は不思議ではない、と?」
「そうだ」
公爵は椅子へ深く背を預けた。
「私は、領民の不満を消せるほど立派な領主ではない」
「ですが、対策はしているのでしょう?」
「している」
「税を下げた」
「その分、領地の財政は厳しくなった」
「備蓄も開放した」
「冬を越すための食料が減った」
「兵を配置した」
「今度は領民から恐れられる」
公爵の拳が机の上で固く握られる。
「何を選んでも、別の場所に問題が出る」
以前会った時よりも、疲弊している。
それでも、領地を捨てようとはしていない。
「だからこそ黒い剣を?人智を超えた力だと報告があります。」
私の視線が、布へ向かう。
公爵はしばらく黙った。
「……力が欲しかった」
「何のために?」
「この領地を守るためだ」
「領民を?」
「ああ」
公爵は答えた。
「家族もだ」
そこで言葉が止まる。
失った息子。
心を閉ざした妻。
公爵の中では、まだすべてが終わっていない。
「もう、失いたくない」
私は何も言えなかった。
その願いを否定することはできない。
守りたいと思うこと自体が悪いわけではない。
問題は、そのために何を選ぶのかだ。
「それは、魔剣ですか?」
「そうだ」
「魔剣を渡したのは、彼女ですか?」
「そうだ」
淡々と肯定する。
「私が望んだ」
公爵は、女を見る。
「公爵様は、力を求められた」
女が続ける。
「それに応えただけです」
公爵は、魔剣を手に取った。
魔剣に縋った。
(魔剣を……持ってしまった……)
「力を得れば……、すべてを守れると思ったのですか?」
力だけで守れる訳では無いのに。
「そう思っていたわけではない」
(ならっ!)
私は希望を持ち公爵の顔を見る。
だが公爵は、虚ろな顔のままだった。
公爵は黒い布へ目を向ける。
「何もしないよりはましだと思った」
その答えは、あまりにも人間らしいものだった。
絶望した人間が、最後に縋るもの。
それが、この魔剣なのかもしれない。
「公爵様」
女が口を開く。
「以前も申し上げましたね」
「すべてを一人で背負う必要はない、と」
「……そうだったな」
公爵の表情がわずかに緩んだ。
私はその様子を見ていた。
この女は、公爵にとってただの客人ではない。
少なくとも今は、相談相手として大きな意味を持っている。
その時だった。
扉の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「失礼します!」
扉が開く。
一人の兵士が息を切らして立っていた。
「緊急報告です!」
公爵が立ち上がる。
「何があった」
「北部の村から報告が入りました」
兵士は一度息を整えた。
「公爵軍の一部が、村の出入口を封鎖しています」
「……何?」
「さらに、周辺の村にも兵を派遣しているとのことです」
公爵の顔色が変わる。
「命令は出していない」
「ですが、現地の兵士たちは公爵様の命令だと主張しています」
兵士が報告書を差し出す。
私は横から内容を確認した。
村人への忠誠の要求。
武装集団への協力者の捜索。
外部からの人間を警戒するようにとの指示。
そして、王国軍の介入を拒むような発言。
「これは……」
公爵が報告書を握る。
「私は、こんな命令を出していない」
「ならば、誰かが公爵様の名を使っている可能性があります」
私は立ち上がった。
「王国軍本部へ報告します」
「頼む」
公爵の声には、隠しきれない動揺があった。
兵士が退室する。
私も続こうとしたところで、女が呼び止めた。
「クリス様」
振り返る。
「少し、お話ししませんか?」
「……二人でか?」
「ええ」
私はしばらく女を見た。
「分かった」
公爵の執務室を出る。
案内された小さな応接室に入り、扉が閉まった。
私は椅子へ座らず、女と向かい合った。
「何が目的だ」
「先ほども申し上げましたが、私は公爵様の相談役です」
「なら、魔剣を渡した理由を話せ」
「公爵様が望まれたからです」
「それだけか?」
「ええ」
「嘘だ」
女は笑った。
「そう思われますか?」
「公爵が弱っていることを知っていた」
「息子を失い、妻の心も壊れ、領地も立て直せない」
「そこへ近づいた」
女は否定しなかった。
「その通りです」
「なら、お前は公爵の弱さを利用している」
「利用……」
女はその言葉を確かめるように呟いた。
「そうとも言えますね」
「人の弱さを利用して、力を与える」
「そして、その力を手放せない状況を作る」
「あなたは、本当に鋭い」
金色の瞳が私を捉える。
「ですが、私は公爵様に何をしろとも言っていません」
「反乱も?」
「勧めていません」
「王国を憎めとも?」
「言っていません」
「では、何をしている?」
女は少し考えてから答えた。
「選択肢を示しているだけです」
「力を求めるか」
「何も変えられないまま耐えるか」
「誰かに助けを求めるか」
「公爵様は、その中からご自身で選んだ」
「選択肢を狭めているだけだ」
私が言うと、女は首を傾けた。
「人間は追い詰められれば、自分から選択肢を狭めます」
「私は、その時にどの道を選ぶのかを見ているだけです」
「……魔女みたいな考え方だな」
思わず口から出た。
女の瞳が細くなる。
「その呼び方をされるのは、初めてではありません」
「否定しないのか?」
「あなたが私をどう呼ぶかは、あなたの自由でしょう」
やはり認める気はない。
だが、否定もしない。
「一つ聞きたい」
私は女を見据えた。
「武装集団について、本当に何も知らないのか?」
「知っています」
「なら、誰が動かしている?」
「そこまでは知りません」
「本当に?」
「ええ」
意外なほど素直な答えだった。
「私は人々の不満がどこへ向かうのかを観察しています。誰かが武装集団を組織したことまでは把握していますが、その人物にはまだ接触していません」
「つまり、別に動いている人間がいる?」
「その可能性はあります」
「お前が裏で動かしているわけではない?」
「少なくとも、今回の集団については違います」
私は女の表情を見た。
嘘をついているようにも見える。
だが、確証はない。
「あなたは、公爵がどうなるかを見ている」
「ええ」
「何が目的なんだ?」
女は少し考えた。
「聖剣と魔剣について知りたいのです」
「剣について?」
「なぜ人を選ぶのか」
「何を基準に選ぶのか」
「そして、選ばれた者がどこまで変わるのか」
女の声に初めて明確な興味が滲んだ。
「長い間、調べてきました」
「そのために公爵を?」
「観察対象としては、とても興味深い方です」
「人間を研究材料にしているのか」
「そう言われても否定はしません」
「……狂っている」
「そうかもしれません」
女は淡々と答えた。
「ですが、私は人間が嫌いなわけではありません」
「むしろ、興味があるのです」
「人は追い詰められた時、何を捨て、何を守るのか」
「何を失えば怒りに変わるのか」
「何を与えれば、それまでとは違う選択をするのか」
私は黙って聞いていた。
その考え方は、私には理解できない。
けれど、女が何を求めているのかは少しずつ見えてきた。
この女にとって、公爵の反乱そのものが目的ではない。
公爵が何を選ぶのか。
魔剣を手にしたことで、どう変わるのか。
それを見たいのだ。
「なら、公爵が王国に忠誠を示し続けたら?」
「それも結果です」
「魔剣を捨てたら?」
「それも結果です」
「領地を守るために王国へ助けを求めたら?」
「それも」
女は微笑んだ。
「私は、結果そのものを見たいのです」
「……本当に、それだけか?」
「今は」
その言葉だけが、妙に引っ掛かった。
だが、問い詰めてもこれ以上は出てこないだろう。
「分かった」
私は扉へ向かった。
「もう一つだけ」
女が呼び止める。
「何だ?」
「あなたは、公爵を救うつもりですか?」
「公爵を?」
「ええ」
「私は領民を守るために動いている」
「そうですか」
女はそれ以上追及しなかった。
「では、あなた自身の選択も見せてもらいましょう」
「私は、お前の実験材料になるつもりはない」
「それは、あなたが決めることではありませんよ」
「何?」
「人間は、自分が観察されていることに気付かないまま選択するものですから」
私は返事をせず、部屋を出た。
◇◇◇
廊下へ戻ると、先ほどの兵士たちが話している声が聞こえた。
「北部の部隊は、まだ戻っていないのか?」
「ああ」
「公爵様の命令が出るまでは、そのまま待機だ」
「しかし、村人たちが怯えている」
「俺たちだって好きで脅しているわけじゃない」
私は足を止めた。
公爵は命令していないと言った。
ならば、現地の兵士たちは誰の指示で動いている?
私は兵士たちへ声を掛けた。
「少しいいか」
「クリス殿?」
「北部へ派遣された部隊について聞きたい」
二人の兵士が顔を見合わせる。
「俺たちは詳しくありません」
「では、誰から命令を受けた?」
「公爵様の印章が押された命令書です」
私は目を細めた。
「実物はあるか?」
「隊長が持っているはずです」
「見せてもらえるか?」
「はい」
兵士に案内され、私は詰所へ向かった。
隊長から渡された命令書には、確かに公爵家の印章が押されていた。
内容も、公爵が命じたとされるものだ。
だが。
私は一箇所に違和感を覚えた。
「この文面を書いたのは誰だ?」
「分かりません。届けられた時には、すでに完成していました」
私は紙を裏返した。
署名は公爵のものではない。
代わりに、命令を伝達した役人の名が記されている。
「この役人は?」
「公爵家の文官です」
「今どこにいる?」
「……昨日から姿を見ていません」
嫌な予感がした。
私は命令書を見つめる。
印章は本物。
内容は公爵の意向に沿っているように見える。
だが、公爵自身は命令していない。
誰かが公爵の名を利用している。
しかも、内部の人間まで関わっている可能性がある。
「この命令書を預かる」
「よろしいのですか?」
「ドレイスに見せる必要がある」
私は書類を受け取った。
これで、王都へ戻る理由ができた。
武装集団の件だけではない。
公爵の名を使って兵士を動かしている人間がいる。
その人物を見つけなければならない。
◇◇◇
私はすぐに領主館を出た。
馬へ跨がり、王都へ向かう。
振り返ると、公爵領の街並みが見えた。
兵士の数が増えている。
店を閉める商人もいる。
領民たちは不安そうに周囲を見回している。
それでも、まだ反乱ではない。
公爵も王国へ剣を向けてはいない。
ただ、領地の中で少しずつ歯車が狂い始めている。
公爵自身が望んだもの。
領民が抱えている不満。
何者かによる武装集団。
公爵の側にいる女。
そして、公爵の名を使った命令書。
すべてが一つに繋がっているのか。
それとも、別々の人間がそれぞれの思惑で動いているのか。
まだ判断できない。
だからこそ、決めつけるわけにはいかなかった。
私はゲームの結末を知っている。
公爵家が反乱を起こすことも。
その先に王国の内乱が待っていることも。
けれど、今目の前にいる公爵は、まだそこに至っていない。
ならば。
私が知っている結末だけを理由に、この人を敵にするわけにはいかない。
馬を走らせながら、私は命令書を取り出した。
公爵家の印章。
公爵本人ではない署名。
そして、行方が分からなくなった文官。
「……まずは、ここからだ」
王都へ戻ったら、ドレイスに命令書を見せる。
印章が本物なら、誰が使ったのかを調べる。
武装集団についても情報を集める。
あの女についても、身元を洗う必要がある。
今の段階では、誰も敵と決められない。
だからこそ、一つずつ確かめるしかない。
◇◇◇
その頃、公爵領の北部では。
一人の男が、兵士たちの前に立っていた。
「王国軍が来る前に、村の出入口を押さえろ」
兵士の一人が尋ねる。
「しかし、公爵様から直接の命令は――」
「命令書には公爵家の印章がある」
男は紙を掲げた。
「疑う必要はない」
兵士たちは互いに顔を見合わせる。
男はそれ以上何も言わなかった。
ただ、手元の命令書を確認する。
そこに押されている公爵家の印章は、本物だった。
だから誰も疑わない。
その命令が、公爵本人の意思によるものではないことを。
そして、その命令を書いた人間がすでに姿を消していることを。
公爵領では、誰かが公爵の名前を使い始めていた。
まだ誰も、それを反乱とは呼んでいない。
だが、領民と兵士の間には、確実に溝が生まれ始めていた。




