第五十一話 崩れ始める歯車
公爵領から王都へ戻っても、あの場所で感じた違和感が消えることはなかった。
疲れ切った公爵。
不安を抱える領民。
戦争の傷が残る領地。
そしてそのすべてを覆うような、重苦しい空気。
何かがおかしい。
けれど、何がおかしいのかまでは分からなかった。
◇◇◇
王国軍本部。
朝の会議室には、いつもより重い空気が流れていた。
机の上には、各地から届いた報告書が並べられている。
「東部国境付近で、商隊の消息不明が続いています」
「南部では、農村同士の争いが発生」
「西部では、街道を利用する商人が減少しています」
「公爵領からは、税収低下と領民不満の報告です」
次々と報告が読み上げられていく。
どれも、一つだけなら珍しい話ではない。
戦争が終わったばかりなのだ。
人が減る。
商売が滞る。
税収が落ちる。
村で争いが起きる。
それ自体は、不思議ではない。
けれど悪い知らせばかりが続いていた。
「……妙だな」
ガルドが腕を組む。
「俺もそう思います」
ドレイスが地図へ視線を落とした。
「ですが、今のところ明確な関連性はありません」
地図には、いくつもの印が付けられている。
「発生している場所は違います」
「原因も違って見える」
「それでも……」
ドレイスの指が、いくつかの地点をなぞった。
「王国の弱い部分に集中しています」
会議室が静まり返る。
「盗賊なら、討てばいい」
ガルドが低く呟く。
「魔物なら、討伐すればいい」
「敵国の仕業なら、それに備えればいい」
そこでガルドは言葉を止めた。
「だが、今起きてることには、それがねぇ」
誰も答えなかった。
敵の姿が見えない。
それなのに、少しずつ何かが壊れている。
人々の不安。
商人の減少。
領地の疲弊。
小さな争い。
それらが積み重なっている。
「今は、警戒を続けるしかありません」
ドレイスが報告書をまとめる。
「一つ一つは小さな問題です」
「ですが……」
顔を上げる。
「小さな問題が積み重なった時、何が起こるのか」
「それだけは、まだ分かりません」
私は黙って地図を見つめていた。
公爵領。
国境。
商隊が消えた街道。
争いが起きた村。
赤い印が、王国の各地に散らばっている。
(……何かがいる)
根拠はない。
証拠もない。
それでも、そう感じてならなかった。
◇◇◇
会議が終わった後、私は一人、廊下を歩いていた。
(敵が見えない)
それが一番の問題だった。
誰かが兵を率いて攻めてきたわけではない。
国境を越えて侵略してきたわけでもない。
ただ少しずつ、王国のあちこちで綻びが生まれている。
(……おかしい)
私は足を止めた。
そして、ふと、前世の記憶を思い出す。
『ナエラ王国物語~戦場に舞う乙女~』
私が何度も遊んだ乙女ゲーム。
主人公は王女。
攻略対象たちと出会い、様々な事件を乗り越えていく。
その物語の舞台となる王国は、ゲームが始まるより前に、一度滅びている。
私は、その歴史を知っているつもりだった。
王国の内乱。
公爵家の反乱。
魔剣を巡る戦い。
そして王国の滅亡。
けれど今になって、その「知っている」という感覚が、ひどく曖昧なものに思えてきた。
◇◇◇
自室へ戻る。
私は机の引き出しから、一冊の手帳を取り出した。
前世の記憶を書き残しているものだ。
忘れないように。
この世界で生き残るために。
そして未来を変えるために。
ページを開く。
『公爵家が反乱』
『王都で内乱』
『魔剣を巡る戦い』
『王国滅亡』
そこには、それだけが書かれていた。
「……これだけ」
思わず呟く。
私は、ゲームの内容を知っている。
そう思っていた。
けれどよく考えてみれば、私が知っているのは、ゲームとして描かれた物語だけだ。
公爵がなぜ反乱を起こしたのか。
なぜ魔剣を手にしたのか。
何をきっかけに王国を敵視するようになったのか。
そこまで詳しく描かれてはいなかった。
ゲームでは、すでに「敵」として登場していた。
それ以前のことは、ほとんど語られていない。
「……違う」
私は手帳を見つめる。
「現実は、そんなに簡単じゃない」
公爵領で見た、あの人は。
少なくとも私が会った時点では、王国を憎んでいなかった。
息子を失い。
妻の心を失い。
領地の復興に追われ。
それでも、残された民を守ろうとしていた。
ただ、苦しんでいた。
(あの人が、最初から反乱を望んでいたとは思えない)
だからこそ、魔剣を手にしたことが怖かった。
あの人が求めていたのは、権力でも、復讐でもない。
ただ、もう二度と失いたくない。
そのための力だった。
(……でも)
私は手帳を閉じた。
人は、何かを失い続ければ変わる。
最初は守りたいだけだった願いが、いつしか。
「失わないためには、もっと力が必要だ」
力を求める呪いに変わることがある。
そして、その力を持つことに慣れてしまえば。
今度は。
「自分がすべてを決めればいい」
と思うようになるかもしれない。
それがやがて、反乱へ繋がるのだとしたら。
(……ゲームでは、その過程を知らなかった)
私は、静かに息を吐いた。
未来を知っている。
そう思っていた。
けれど私は、結末を知っていただけなのかもしれない。
◇◇◇
夕方。
私は王都の市場を歩いていた。
通りには、いつも通り人がいる。
子供たちが走り。
商人が声を上げ。
店先からは夕食の匂いが漂ってくる。
一見すれば、何も変わっていない。
「また商隊が消えたらしいぞ」
「公爵領も大変みたいだな」
「最近、嫌な話が多いよな」
「まあ、そのうち落ち着くだろ」
そんな会話が聞こえてくる。
まだ人々は気付いていない。
自分たちの暮らしのすぐ近くで、何かが変わり始めていることに。
少し前までの私も同じだった。
王都の平和は続く、そう思っていた。
空を見上げる。
青い空。
穏やかな風。
いつもと変わらない街。
なのに胸騒ぎだけが消えない。
(何かが始まっている)
けれど何が始まっているのかは分からない。
◇◇◇
その夜。
私は眠れず、窓辺に立っていた。
王女。
レオン。
公爵。
魔剣。
そしてゲームの未来。
いくら考えても答えは出ない。
「……どうして」
小さく呟く。
未来を知っている。
だから、変えられる。
ずっとそう思っていた。
公爵が反乱を起こすなら、その前に止めればいい。
魔剣を巡る戦いが起きるなら、その原因を取り除けばいい。
そう考えていた。
けれど今は違う。
未来は最初から決まった一本道ではない。
人が選ぶ。
人が傷つく。
誰かと出会う。
その積み重ねが、未来を作っていく。
なら私が知っている「未来」も、すでに変わり始めているのかもしれない。
(この世界は……)
(もう、私の知っている乙女ゲームじゃない)
その時、窓の外から、遠く鐘の音が聞こえた。
夜の王都に静かに響いていく。
まだ、街は平和だった。
明日になれば、人々は市場へ向かう。
商人は店を開く。
子供たちは笑う。
王女は王女としての務めを果たす。
レオンは、その隣にいる。
《暁の牙》の仲間たちも。
いつものように笑うだろう。
だからこそ私は願った。
(このままでいてほしい)
誰も失いたくない。
誰にも傷ついてほしくない。
この日常がいつまでも続いてほしい。
けれど私は知っている。
ゲームの中で、この国は滅びる。
王都は炎に包まれ、王女は命を落とす。
そしてその後に、ゲーム本編が始まる。
私は、その結末だけを知っている。
今の平和が、ひどく脆いものに思えた。
窓の外へ目を向ける。
暗闇の向こうは何も見えない。
敵の姿も、その目的も、まだ何も分からない。
ただ確かなことが一つだけある。
公爵領で感じた違和感。
各地で増えている行方不明。
小さな争い。
商人たちの不安。
人々の心に積もり始めた不満。
それらは別々の出来事に見える。
だがもし、誰かが意図的に、この国を揺さぶっているのだとしたら。
私はまだ、その相手を知らない。
その目的も知らない。
だから今は何もできない。
ただ何かが起きるのを待つしかない。
そう思った時だった。
遠くで小さな鐘の音が鳴った。
夜警の交代を知らせる鐘。
いつもと変わらない音だった。
それなのになぜか、胸の奥がざわついた。
まるで何かが、
すぐそこまで迫っているような――。
(……何が起きる?)
答えはまだ分からない。
ただ私の知らない未来が、静かに動き始めていた。




