幕間 黒き囁き(公爵side)
翌朝。
公爵は、いつもより早く執務室へ入った。
机の上には、昨日と変わらない書類が積まれている。
税収報告。
農村からの嘆願。
商人組合からの陳情。
復興計画。
どれも、すぐに解決できる問題ではない。
公爵は椅子へ腰を下ろし、一枚ずつ目を通していく。
「南部の街道か……」
商人の往来が減っている。
原因の一つは、街道周辺に出没する魔物だった。
護衛を雇えば費用がかかる。
商人が減れば、領地へ入ってくる物資も減る。
結果として、さらに商人が離れていく。
分かっている。
今までも、何度も対策を考えてきた。
けれど。
「……兵が足りない」
公爵は報告書を閉じた。
領内の兵力には限界がある。
戦争で多くの兵を失った。
残った兵たちも、各地の警備に回さなければならない。
街道へ兵を集中させれば、別の場所が手薄になる。
それは昨日までの公爵なら、どうにもできない問題だった。
公爵は、机の脇へ視線を向ける。
そこには、黒い魔剣が立てかけられていた。
「……」
昨夜。
この剣を手にした時から。
胸の奥に、不思議な感覚が残っている。
力が湧いてくる。
身体が軽い。
今までなら躊躇していたことさえ、迷わず決断できるような感覚。
もちろん、それが剣によるものだと断言できるわけではない。
けれど、公爵は立ち上がった。
「南部へ行く」
「公爵様?」
側近が目を丸くする。
「街道の状況を自分の目で確認する」
「しかし、危険です」
「だから行く」
公爵は魔剣を手に取った。
「兵を連れていく」
「ですが、護衛の人数が――」
「必要ない」
その言葉に、側近が固まる。
「私一人で十分だ」
以前なら、こんな言葉は口にしなかったと思う。
けれど今は、なぜか、それができる気がした。
◇◇◇
南部の街道。
公爵が到着した頃には、すでに数人の商人が足止めされていた。
「魔物が出たんです!」
「護衛の兵も、これ以上は……」
街道の先から。
低い唸り声が響く。
次の瞬間。
木々の間から、大型の魔物が姿を現した。
「下がれ!」
兵士たちが剣を構える。
魔物が地面を蹴った。
その巨体が、一気に距離を詰める。
だが。
「私がやる」
公爵が前へ出た。
「公爵様!」
制止する声を無視して。
黒い魔剣を抜く。
刀身が、僅かに揺れた。
次の瞬間。
公爵の身体が動いた。
一歩。
踏み込む。
そして。
一閃。
魔物の巨体が地面へ崩れ落ちた。
「……」
誰も声を出せなかった。
あまりにも、あっけなかった。
公爵自身も、しばらく倒れた魔物を見つめていた。
「……これが」
自分の手にある力。
剣を握る手へ視線を落とす。
自分の手に渡るには、あまりにも大きな力。
本来なら、畏れ、手放すべきなのかもしれない。
けれど胸の中に広がったのは、恐怖ではなく。
……安堵だった。
(これなら……)
守れる。
そう思って、しまった。
◇◇◇
それから。
公爵は領内の問題へ、自ら動くようになった。
魔物が出れば討伐へ向かう。
盗賊が出れば、自ら兵を率いて鎮圧する。
街道の警備状況を確認し、商人たちの話を聞く。
以前から領主としてやっていたことだ。
けれど、大きく違うことが一つあった。
公爵自身が、前線へ出るようになったことだ。
「公爵様が魔物を討ったらしいぞ」
「盗賊団も壊滅させたそうだ」
「最近の公爵様は、本当に頼もしくなった」
領民の間にも、少しずつ変化が生まれていった。
「これなら、領地も立て直せるかもしれない」
「公爵様が戻ってきたようだ」
そんな声まで聞こえるようになった。
公爵は、その言葉を聞くたびに、黒い魔剣へ手を添えた。
力があれば、自分は守れる。
そう思えるようになった。
そして、それは決して間違った考えではなかった。
実際に、魔剣は公爵に力を与えていた。
魔物を倒した。
盗賊を退けた。
街道を守った。
少しずつ、領地は落ち着きを取り戻していった。
だからこそ、公爵はその力を信じるようになった。
◇◇◇
ある夜。
公爵は執務室で一人、地図を眺めていた。
領内の各地に印が付いている。
街道。
農村。
商業区。
国境へ続く道。
「……まだ足りない」
ぽつりと呟く。
本来なら、これだけ状況が改善すれば、これだけ安定していれば、何も問題ない。
いつもの業務へ戻ればいい。
けれど今は違った。
もっと兵が必要だ。
もっと財力が必要だ。
もっと自分の判断で動かせる力が必要だ。
そうすれば、もっと多くのものを守れる。
「……王都は」
公爵は地図の中央へ目を向けた。
戦争の間、王都から十分な支援が届かなかった。
もちろん王国にも事情があった。
それは分かっている。
だが分かっていることと、納得できることは違う。
「もし、あの時……」
公爵の指が、王都の位置で止まる。
そして、ゆっくりと離れた。
「……いや」
恨んでいるわけではない。
兄を憎んでいるわけでもない。
王国を疑っているわけでもない。
ただ自分の領地を守るためには、自分自身が、もっと強くならなければならない。
そう考えるようになっただけだった。
◇◇◇
その頃。
公爵の執務室を出た廊下を、魔女が静かに歩いていた。
公爵の変化は、彼女にとって予想通りだった。
「……力を得れば」
小さく呟く。
「人は、その力を使いたくなるものです」
最初は守るためだけでいい。
魔物を倒す。
盗賊を退ける。
領地を守る。
それでいい。
けれど、力があれば、できることが増える。
できることが増えれば。
今度は、できないことが許せなくなる。
「もう少しです」
魔女は、遠くに見える公爵の執務室へ視線を向けた。
「まだ、何も急ぐ必要はありません」
公爵は自分の意思で動いている。
それが重要だった。
誰かに命令されたわけではない。
誰かに操られているわけでもない。
自分で考え。
自分で選び。
自分で魔剣を握った。
「人は、自分で選んだものほど手放せませんから」
魔女は静かに笑った。
◇◇◇
数週間後。
公爵領では、再び商人の姿が増え始めていた。
街道の安全が戻り。
市場にも少しずつ活気が戻っている。
領民たちは公爵の変化を歓迎していた。
「公爵様のおかげだ」
「これなら、また以前のような領地に戻れる」
その声を聞きながら、公爵は静かに笑った。
ようやく、少しだけ前へ進めた気がした。
けれど、夜になると公爵は、一人で魔剣を眺める。
黒い刀身。
その奥に、ほんの一瞬だけ赤い光が灯る。
「……もっと力があれば」
無意識に、そんな言葉が漏れる。
そして公爵自身は、まだ気付いていなかった。
最初は「守るため」に求めた力だった。
それが少しずつ、「守るためには、もっと必要だ」という考えへ変わり始めていることを。
まだ王国への反感ではない。
反乱でもない。
まして、野心でもない。
ただ失いたくない。
その願いを叶えるために、公爵は少しずつ、
自分の手で握れるものを増やそうとしていた。
そしてその変化を、
魔女は誰よりも近くで見つめていた。
急ぐ必要はない。
焦る必要もない。
人の心は、少しずつ変わっていく。
その先で、公爵自身が「もっと力が必要だ」と思うようになればいい。
その時、次の言葉を与えればいい。
「あなたなら、もっとできる」
「あなたほどの力を持つ者が、なぜ王都の言葉に従う必要があるのでしょう」
まだその言葉を口にする時ではない。
今はただ、公爵が力を信じるようになるのを待てばいい。
黒い魔剣を握った男は、今日も領地を守っている。
その姿だけを見れば、以前よりも立派な領主にさえ見えた。
だからこそ誰も気付かなかった。
守るために手にした力が、少しずつ。
公爵の中にある「自分の手で全てを守りたい」という願いを、大きくしていることに。
そしてその願いが、
やがて王国そのものへ向けられることになる。
その時が来るまで、魔女は。
ただ静かに、公爵の隣に立ち続けていた。




