幕間 壊れた公爵家(公爵side)
夜の帳が、公爵領を静かに包んでいた。
領主館の執務室には、まだ明かりが灯っている。
机の上には、今日も書類が積み重なっていた。
税収報告。
農村からの嘆願。
商人組合からの陳情。
どれも、今の領地が抱えている問題ばかりだ。
公爵は一枚の書類を手に取った。
今年の税収は、予想を下回っている。
商人の数も減っている。
農村では小さな争いが増え、領民の不満も少しずつ膨らんでいる。
「……またか」
書類を机へ置く。
ため息が漏れた。
戦争が終わって、もう数年になる。
それでも、失われたものは、簡単には戻らなかった。
人。
金。
商い。
そして、息子。
公爵は机の端に置かれていた一枚の紙へ目を向ける。
戦死者名簿。
そこに記された名前は。
何年経っても消えてくれない。
「……ルカ」
十七歳。
公爵家嫡男。
自分の息子。
あの日から、時間だけが進んでいった。
領地は少しずつ復興している。
焼けた家も建て直されている。
街道にも、少しずつ商人が戻っている。
民は前へ進もうとしている。
なのに、自分だけが、あの日から取り残されている。
◇◇◇
気が付けば、公爵は息子の部屋の前に立っていた。
扉を開ける。
そこには、何も変わらない光景があった。
机の上の本。
壁に掛けられた剣。
丁寧に畳まれた訓練着。
まるで、明日にでも持ち主が戻ってくるようだった。
「あなた」
背後から声がする。
振り返る。
妻だった。
その腕には、ルカの服が抱えられている。
「そろそろ冬服を出しておかないと」
妻は穏やかに笑った。
「ルカが帰ってきた時、寒いでしょうから」
「……」
公爵は答えられなかった。
「あなたも、そう思うでしょう?」
妻の目を見る。
そこにあるのは。
狂気ではない。
ただ、現実を受け入れられないほど深い悲しみだった。
「……ああ」
公爵は小さく頷いた。
「そうだな」
「よかった」
妻は嬉しそうに笑った。
「帰ってきたら、あの子の好きだった料理を作りましょう」
そう言って、妻は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
公爵はしばらく、その扉を見つめていた。
そして、ゆっくりと拳を握る。
(……私は)
(何を守れなかった)
息子。
妻。
そして、この地を。
◇◇◇
翌朝。
公爵は領内から届いた報告書へ目を通していた。
「北部の村で、また争いが起きています」
「西側の街道では、商人がさらに減少」
「今年の税収も、予定を下回る見込みです」
一つ一つ。
原因は分かっている。
戦争による損失。
人手不足。
流通の停滞。
商人の減少。
農村の疲弊。
すべてが繋がっている。
「備蓄を開放しろ」
「しかし、公爵様」
側近が戸惑う。
「冬を越せなくなります」
「民が冬まで生きられなければ、備蓄を残す意味がない」
「ですが……」
「税の徴収も一部延期する」
「財政が持ちません」
「……分かっている」
公爵は目を伏せた。
「それでも、今は民を優先しろ」
「承知しました」
側近が頭を下げる。
部屋から人がいなくなる。
公爵は一人になった。
椅子へ深く腰掛ける。
そして、両手で顔を覆った。
(これでいいのか)
民を救う。
領地を立て直す。
妻を支える。
そのどれも、満足にできていない。
いくら努力しても、失ったものは戻らない。
どれだけ金を使っても、どれだけ人を動かしても。
ルカは、もう帰ってこない。
「……力が」
ぽつりと声が漏れた。
「力があれば……」
もっと強ければ。
もっと多くの兵を動かせていたら。
もっと大きな権限があったなら。
あの戦争で、ルカを守れたのではないか。
その考えは、危険だと分かっていた。
それでも、頭から離れない。
(私に、もっと力があれば)
誰も失わずに済んだのではないか。
◇◇◇
夕暮れ。
公爵は一人、礼拝堂へ向かった。
幼い頃から。
何かに迷った時は、ここへ来ていた。
静かな礼拝堂。
誰もいない。
祭壇の前で膝をつく。
「神よ……」
祈ろうとして、言葉が止まった。
神に祈ったところで、ルカは戻らない。
妻の心も戻らない。
領地の傷も消えない。
「……私は」
拳を握る。
「どうすればいい」
答えはない。
ただ静寂だけが返ってくる。
その時だった。
――足音がした。
公爵が顔を上げる。
一歩。
また一歩。
礼拝堂の外から、誰かが近づいてくる。
「……誰だ」
返事はない。
やがて扉がゆっくりと開いた。
暗い廊下から、一人の人物が姿を現す。
深くフードを被っている。
顔は見えない。
男なのか。
女なのか。
それすら分からない。
その人物は公爵の前で立ち止まり。
静かに頭を下げた。
「……公爵様」
穏やかな声だった。
「何者だ」
「ただの旅人です」
「この時間に、なぜここへ来た」
「あなたがここにいると聞いたもので」
公爵は眉を寄せる。
「私に何の用だ」
フードの人物は答えなかった。
代わりに、公爵を静かに見つめた。
しばらくして。
「……随分と、お疲れのようですね」
その一言に、公爵の表情が僅かに揺れた。
誰も、そんなことを言わなかった。
皆が見るのは。
公爵という立場。
領主としての責任。
父としての役割。
誰も、一人の人間としての自分を見ようとはしなかった。
「……何が言いたい」
「何も」
フードの人物は穏やかに答える。
「ただ」
一歩。
公爵へ近づく。
「あなたは、ずっと一人で抱えている」
「領地のことも」
「亡くされた息子のことも」
「奥方様のことも」
公爵の目が見開かれる。
「……なぜ、それを」
「この領地を歩けば分かります」
その声には、責める響きがなかった。
「あなたが、どれほど努力しているのかも」
「それでも、どうにもならないことがあるのも」
公爵は黙った。
否定できない。
「……私は」
掠れた声が漏れる。
「何も守れなかった」
「いいえ」
フードの人物は首を横に振る。
「守ろうとしているからこそ、苦しんでいるのでしょう」
「……」
「あなたは、まだ諦めていない」
その言葉が、胸の奥へ深く入り込んだ。
「だから、苦しい」
公爵は顔を伏せる。
「……力が欲しい」
初めて自分の口から、その言葉が出た。
「もう二度と……失いたくない」
「誰も?」
「ああ」
「領地も」
「ああ」
「ご家族も?」
「……ああ」
フードの人物は、ほんの少しだけ笑った。
「でしたら」
静かな声。
「力を求めればいいのです」
公爵が顔を上げる。
「……何?」
「あなたには、まだできることがあります」
「この領地を変えることも」
「失ったものを守れるだけの力を得ることも」
「……そんな力があるというのか」
「ええ」
即答だった。
公爵は、その人物を見つめる。
怪しい、そう思うべきだった。
警戒しなければならない。
なのに、今の自分には、その言葉が何よりも欲しかった。
「……お前は、何者だ」
フードの人物は答えない。
ただ穏やかに笑った。
「それは、いずれ」
そして。
「今はただ」
「あなたの苦しみを理解する者がいる」
公爵は、何も言えなかった。
ただ、目の前の人物を見つめていた。
胸の奥に、長い間、消えることのなかった願いがある。
力が欲しい。
守りたい。
失いたくない。
その願いを、この人物は知っている。
それだけのことなのに、公爵はほんの少しだけ、救われたような気がしてしまった。
――それが、始まりだった。
この時、公爵はまだ知らない。
目の前にいる存在が、自分の弱さを救う者ではなく、その弱さを利用する者だということを。
そして、この小さな出会いが。
やがて公爵領だけではなく、この国そのものを巻き込むことになることを。
この夜。
公爵は初めて、自分から「力」を求めた。
そして、その願いに、誰かが手を差し出した。




