第五十話 公爵領
王国軍で、国境付近の行方不明事件について調査を続けていた頃、私は別の任務を命じられた。
向かう先は――公爵領。
領内で、いくつかの問題が重なっているらしい。
税収の減少。
農村部での不満。
商人の減少。
そして、領民同士の小さな争い。
一つ一つなら、珍しいことではない。
豊作の年もあれば、不作の年もある。
商売が上手くいかない時期もある。
領民同士の揉め事だって、どこの領地でも起こる。
でも問題は、それらが同じ時期に重なっていることだった。
「……公爵領、か」
馬車の中で、小さく呟く。
窓の外を流れていく景色には、見覚えがあった。
山。
街道。
遠くに見える森。
幼い頃、何度も通った道だ。
かつての私にとって。
ここが世界のすべてだった。
けれど、今の私にとっては、もう帰る場所ではない。
クリスとして生きると決めてから。
私は、この土地を故郷だと思わないようにしてきた。
それでも、記憶まで消えるわけではなかった。
◇◇◇
公爵領へ入ってすぐ、違和感を覚えた。
以前より、人の声が少ない。
街道を行き交う商人の数も明らかに減っている。
市場へ入ってみても、かつてなら響いていた威勢のいい呼び声が少なかった。
「今年は厳しいねぇ」
店先で、商人たちが話している。
「税が上がったわけじゃないだろ?」
「ああ。でも、売れるもの自体が減ってる」
「農村の方も苦しいらしいぞ」
「最近じゃ、村同士で揉めることも増えたって話だ」
「前は、こんなことなかったのにな」
私は足を止めた。
村同士の争い。
商人の減少。
農村の不満。
どれも、一つだけなら大きな問題ではない。
だが、積み重なれば、一つの領地を疲弊させるには十分だった。
昔の公爵ならすぐに動いていた。
領民の話を聞き、原因を探り、問題が大きくなる前に手を打つ。
少なくとも、幼い頃に見ていた公爵は、そういう人だった。
厳しい人ではあった。
けれど、領主として自分の領地を守ることには誰よりも真剣だった。
だからこそ、今の光景が妙に引っ掛かった。
◇◇◇
領主館へ入る。
久しぶりに見る建物は、記憶の中よりも古びて見えた。
幼い頃は、大きくて冷たく、近寄りがたい場所だった。
今見ると、建物そのものが変わったわけではない。
なのに今は、どことなく萎れて見えた。
顔を合わせるのが少し怖い。
公爵だけは、私が家を出たことを知っている。
私がクリスだと、知っていた。
「……久しいな」
応接室で待っていた公爵は、以前よりずっと老けて見えた。
威厳は残っている。
姿勢も崩れていない。
けれど、その目には隠しきれない疲労が浮かんでいた。
「王国軍より、領内の状況確認を命じられております」
私はあくまでも事務的に、軍人として告げる。
そこに感情を載せては行けない。
「しばらく領内を見て回らせていただきます」
「ああ」
公爵は短く答えた。
「好きに見るといい」
冷たい言葉。
けれど、拒絶というより、何もかも諦めているように聞こえた。
「……」
昔なら、ここで「父上」と呼んでいた。
その言葉が喉まで出かかった。
けれど、私は飲み込む。
もう、私はこの家の娘ではない。
「失礼いたします」
頭を下げて部屋を出る。
背中へ視線を感じた。
振り返ることはしなかった。
◇◇◇
それから数日。
私は領内を見て回った。
農村。
市場。
街道。
商業区。
そこで見たものは、怒りではなかった。
もっと厄介なものだった。
不満。
不安。
そして、諦め。
「昔の公爵様なら……」
ある老人が、ぽつりと呟いた。
「何とかしてくれたんだがな」
「今の公爵様は?」
尋ねると、老人はしばらく黙った。
「……分からん」
やがて、老人は小さく息を吐く。
「悪い方に変わったと言う者もいる」
「だがな」
「一番苦しんでいるのは、あの方なのかもしれん」
「……公爵が?」
「ああ」
老人は頷いた。
「戦争で、大切なものを失っただろう」
「それからだ」
「あの方が変わったのは」
その言葉が、妙に胸へ残った。
◇◇◇
その夜。
領主館の廊下を歩いていた時だった。
使用人たちの話し声が聞こえた。
「奥方様は……まだあの部屋に?」
「ええ」
「もう何年になるのかしら」
私は足を止めた。
聞きたくない。
そう思った。
けれど、次の言葉が耳に入ってしまう。
「ルカ様を失われてから……」
胸が締め付けられた。
ルカ。
公爵家の正式な嫡男。
そして、戦場で失った、大切な家族。
「奥方様は、今でも戻ってくると信じているそうです」
「毎日、ルカ様のお部屋を整えて……」
「食事まで用意させているって」
「もう亡くなられているのに……」
私は何も言えなかった。
母は、あの日から時間が止まっている。
息子が帰ってくることを信じて。
部屋を整え。
何も変わらない一日を繰り返している。
そして父もまた、失ったものを抱えたまま領主として立っている。
(……私と同じなのかもしれない)
私は王家に捨てられた。
存在すら否定された。
父や母とは違う。
ずっと、そう思っていた。
けれど大切なものを失い、その喪失を抱えたまま生きているという意味では。
私も、この人たちも、同じなのかもしれなかった。
◇◇◇
その夜。
私は公爵と二人で話す時間を得た。
机の上には、領内の報告書が並んでいる。
「領民の不満が増えています」
慎重に言葉を選ぶ。
「税の問題だけではありません」
「商人の減少」
「農村の不安定化」
「村同士の争い」
「すべてが偶然とは思えません」
公爵はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「……分かっている」
その声は、驚くほど弱かった。
「全部……分かっている」
公爵は窓の外を見る。
暗い領都が広がっている。
「商人が減っていることも」
「農村が苦しんでいることも」
「領民が不安を抱えていることも」
拳を握る。
「分かっているからこそ……何もできない自分が腹立たしい」
初めてその声に、はっきりと感情が滲んだ。
「戦争で多くを失った」
「ようやく終わったと思えば、今度は領地の立て直しだ」
「民を守らなければならない」
「税を集めなければならない」
「商人を呼び戻さなければならない」
一つ一つ、自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「だが……」
そこで公爵の声が止まった。
「失ったものは戻らない」
その言葉の中に。
ルカへの想いが滲んでいた。
「私は……何かを間違えたのかもしれんな」
私は何も言えなかった。
ゲームの中では、公爵は反乱を起こす人物だった。
王国を憎み。
魔剣を手にし。
やがて王都へ牙を向ける。
私は、その未来を知っている。
だから、公爵を恐ろしい人物だと思っていた。
けれど今、目の前にいるのは、そんな人物ではなかった。
ただ、息子を失い、領地を背負い、自分自身まで壊れかけている。
ただの、一人の父親だった。
「……休んでください」
気付けば、そんな言葉が口から出ていた。
公爵が顔を上げる。
「休む?」
「全てを一人で背負う必要はありません」
自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からなかった。
もしかするとかつての彼を知っているからかもしれない。
幼い頃、遠くから見ていた背中を知っているから。
「……そうできれば、いいのだがな」
公爵は小さく笑った。
その笑顔は、どこか壊れかけていた。
◇◇◇
帰りの馬車。
私は窓の外を眺めていた。
公爵領。
私が捨てた場所。
そして、未来では王国を壊すことになる場所。
けれど今日、私が見たものは。
ゲームの中で語られていた「反乱者の領地」とは違っていた。
公爵は、最初から狂っていたわけではない。
追い詰められている。
失ったものが大きすぎて。
自分一人では抱えきれなくなっている。
もし、そんな人間の前に、救いを差し出す者が現れたら。
もし、「あなたの苦しみを理解しています」と。
優しく手を差し伸べる者がいたら。
公爵は、その手を取ってしまうのではないだろうか。
(……まさか)
私は小さく首を振った。
まだ、何の証拠もない。
ただの想像だ。
それでも、胸の奥に嫌な予感が残った。
国境で起きている行方不明。
各地で増えている小さな争い。
そして、公爵領で広がる不満。
今はまだ、それぞれ別々の出来事に見える。
だからこそ、私は無理に一つへ結びつけようとはしなかった。
けれどもし、それらが同じ誰かの意思によって引き起こされているのだとしたら。
この国は、私が思っていた以上に深く傷ついている。
そして、傷ついた場所には。
必ず、そこへ手を伸ばす者が現れる。
私は窓の外を見つめた。
遠ざかっていく公爵領。
胸の奥に、言葉にできない不安だけが残っていた。
(……何かが、おかしい)
ゲームの中で知っていた未来と。
今、私が生きている世界は。
少しずつ、確実に違い始めている。
何かが、這い寄っているような、そんな気がした。




