第四十八話 日常
王国軍へ所属してから、また季節が巡った。
長く続いた戦争の傷跡は、少しずつ消え始めていた。
かつて焼け落ちた村には新しい家が建ち、荒れていた街道には再び商人たちが行き交う。
王都の市場にも活気が戻った。
通りでは子供たちが走り回り、店先からは客を呼ぶ声が聞こえる。
戦争が終わっても、すべてが元通りになったわけではない。
それでも、人々は少しずつ以前の暮らしを取り戻していた。
朝になれば目を覚まし。
仕事へ向かい。
夜になれば家へ帰る。
明日も今日と同じ一日が来る。
そんな当たり前の日々が、確かに戻っていた。
私たちにとって、それは何よりもありがたいことだった。
剣を握らなくてもいい日。
仲間と食卓を囲める日。
朝を迎えることを、当たり前だと思える日。
戦場で何度も死を見てきたからこそ。
私は、そんな日常を大切に思っていた。
◇◇◇
「クリス!」
食堂へ入ると、聞き慣れた声が飛んできた。
振り返れば、ガルドが大きく手を上げている。
「遅いぞ」
「任務報告が長引いた」
「相変わらず真面目すぎるんだよ、お前は」
ガルドは豪快に笑った。
傭兵だった頃と、何も変わらない。
けれど、彼の立場は大きく変わった。
かつては酒場の隅で依頼を待っていた傭兵団の団長。
今では騎士爵を持ち、王国から正式に認められた《暁の牙》の団長だ。
それでも、仲間の前では昔のままだった。
「団長。また飲み過ぎるつもりですか?」
ドレイスが呆れたように言う。
「まだ一杯目だぞ」
「その言葉を聞くのは、もう何度目ですか」
「細かいことを気にするな」
「細かくありません」
ドレイスがため息を吐く。
すると。
「ほら、ドレイスも飲め」
ガルドが酒瓶を差し出した。
「私は結構です」
「付き合いが悪いなぁ」
「団長が飲み過ぎなだけでしょう」
「じゃあ、私が注いであげる」
ナージャが笑いながら酒瓶を手に取った。
「お、気が利くじゃねぇか」
「はい、どうぞ」
杯へ酒を注ぐ。
ガルドは何の疑いもなく、それを受け取った。
「ありがとな」
「どういたしまして」
ナージャは笑う。
そして、ガルドが杯を口へ運んだ瞬間。
その視線が、ほんの少しだけ彼の横顔へ向いた。
嬉しそうに、どこか愛おしそうに。
けれど、ガルドがこちらを向くと、何事もなかったように目を逸らす。
私はその様子を見ていた。
「……ナージャ」
「何?」
「酒を注ぐの、そんなに楽しいか?」
「え?」
ナージャが一瞬、固まった。
「別に?」
「そうか」
「そうよ」
少しだけ早口だった。
私は何も言わず、杯を口へ運ぶ。
すると。
「クリス」
「何だ?」
「……何か言いたそうね?」
「いや」
私は首を振った。
「何も」
「本当に?」
「ああ」
ナージャは私をじっと見つめた。
やがて。
「……ならいいけど」
小さく息を吐く。
その横では。
「ナージャ、もう一杯くれ」
ガルドが何も知らずに杯を差し出した。
「はいはい」
ナージャは嬉しそうに酒を注いだ。
その表情を見れば。
誰にでも分かる。
ただ一人を除いて。
「団長」
ドレイスが静かに口を開く。
「何だ?」
「少しは女性の気持ちを考えた方がよろしいかと」
「……は?」
本気で分からないという顔をする。
「何の話だ?」
「……いえ」
ドレイスは眼鏡を押し上げた。
「もう、ほんっと鈍感」
ナージャが小さく呟く。
「何だよ?」
「何でもないわよ」
「そうか?」
「そうよ」
ガルドは首を傾げた。
私は思わず笑ってしまう。
「何だよ、クリス」
「いや」
私は笑いを堪えながら答えた。
「仲がいいなと思って」
「だろ?」
「どこがよ」
ナージャが即座に否定する。
けれど、その耳が少しだけ赤くなっていた。
◇◇◇
食事を終えた後。
私とドレイスは、次の任務について確認していた。
「国境警備についてです」
ドレイスが数枚の書類を差し出す。
警備区域。
兵士の配置。
商隊の通行予定。
周辺の魔物の発生状況。
どれも、いつも通りの報告だった。
「ここ最近は大きな問題もありません」
「そうか」
「はい」
(酒場で聞いたパン屋の話は、気のせいだったのかな)
書類を確認していると、後ろから声が聞こえた。
「クリス!」
振り返る。
ガルドだった。
「もう仕事か?」
「確認しているだけだ」
「真面目だねぇ」
「団長も少しは見習ってください」
ドレイスが即座に返す。
「俺はちゃんとやってるだろ」
「酒を飲みながら言われても説得力がありません」
「酒くらいいいだろ」
ガルドが笑う。
その横で。
「ほら、これ飲んで」
ナージャが水の入った杯を差し出した。
「何だこれ?」
「水よ」
「酒じゃないのか?」
「さっき飲み過ぎたでしょう」
「まだ全然飲んでねぇぞ」
「だからよ」
ナージャは呆れたように笑う。
でもその手は、ガルドが杯を受け取るまで離れなかった。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
ガルドが水を飲む。
ナージャは満足そうに笑った。
私はその光景を眺める。
ナージャは、きっと、ずっとこうなのだろう。
ガルドが怪我をすれば、誰よりも早く気付く。
任務から帰れば、無事を確認する。
酒を飲み過ぎれば、水を用意する。
何気ない会話の中でも、ガルドのことをよく見ている。
けれど本人には、それを恋だと気付かせるような言葉を一度も口にしない。
ただ、好きな人の近くにいる。
それだけで満足しているようだった。
私は、その距離感が少しだけ羨ましく思えた。
何も言わなくても。
隣にいられる、それだけで、幸せだと思えるのだから。
「……何だ?」
ガルドが私を見る。
「さっきから俺を見てないか?」
「気のせいだ」
「そうか?」
「ああ」
ガルドは首を傾げる。
ナージャが小さく笑った。
「鈍感ね」
「何がだよ!」
食堂に笑い声が広がった。
私も笑った。
こういう時間が、私は好きだった。
◇◇◇
翌日。
任務の合間に王都へ出た私は、市場を歩いていた。
以前は戦争の影響で品薄だった食料品も、今では店先に並んでいる。
「お姉ちゃん、これ買って!」
「さっき買ったばかりでしょ」
母親と子供が笑いながら歩いていく。
少し先では、商人が客を呼び込んでいる。
平和な光景だった。
戦場を知った今では、こうして人々が笑っていることそのものが、ありがたく思える。
「クリス様」
後ろから声を掛けられた。
振り返る。
王女だった。
数名の騎士を連れて、市場を歩いている。
「王女様」
私は一礼する。
「今日は市場の視察ですか?」
「はい」
王女は周囲を見渡した。
「戦争が終わってから、少しずつ活気が戻ってきました」
「そうですね」
「本当に……よかったと思います」
王女の表情は穏やかだった。
昔よりも、ずっと大人びて見える。
「戦争のことを考えると、怖くなることもあります」
「……」
「でも、今こうして笑っている人たちを見ると」
王女は小さく笑った。
「この日々を守りたいと思うんです」
胸の奥が温かくなった。
「きっとできますよ」
自然と、そんな言葉が出た。
王女は驚いたように目を瞬かせる。
そして。
「……ありがとうございます」
嬉しそうに笑った。
私は、その笑顔を静かに見つめる。
私は姉だと、名乗ることはできない。
けれど、この子が笑っていられるなら、それでいい。
今は、それだけで十分だった。
◇◇◇
それから数日後。
王城へ任務報告に訪れた私は、廊下でレオンと再会した。
「……クリス?」
「レオン」
近衛騎士の制服を身につけた姿は、すっかり板についている。
「久しぶりだな」
「ああ」
「元気そうだな」
「お前も」
短い会話。
昔なら、もっと話していた。
訓練のこと。
任務のこと。
くだらない話。
でも今は、それぞれに役目がある。
「最近、訓練してるか?」
「している」
「なら、今度また手合わせしようぜ」
レオンが笑った。
「俺、結構強くなったんだぞ」
「知っている」
「……なんだよ、その言い方」
「実際、強くなっている」
「じゃあ、次は勝つ」
「楽しみにしておく」
そのやり取りに。
少しだけ昔の感覚が戻ってくる。
「じゃあ、俺は行く」
「ああ」
「またな、クリス」
「……ああ。またな」
レオンが歩いていく。
私はその背中を見送った。
昔の少年とは違う。
けれど、真っ直ぐなところは変わっていない。
私は小さく笑った。
◇◇◇
その日の夕方。
《暁の牙》の食堂には、久しぶりに全員が揃っていた。
「そういや、レオンは最近どうしてる?」
ガルドが何気なく尋ねる。
「王女様の護衛で忙しいんじゃない?」
ナージャが答えた。
「たまにはこっちにも顔を出せって言っとけ」
「自分から会いに行けばいいじゃない」
「王城は遠いだろ」
「……歩いて行ける距離ですよ」
ドレイスが冷静に指摘する。
「細かいことはいいんだよ」
ガルドが笑う。
「じゃあ、次に王城へ行った時に伝えておくわ」
ナージャが言う。
「おう。頼んだ」
それだけの会話。
なのに、ナージャは少し嬉しそうだった。
ガルドから頼られたことが。
たったそれだけのことが、嬉しいのだろう。
「……ナージャ」
「何?」
「嬉しそうだな」
「え?」
「いや」
私は笑う。
「何でもない」
「……変なの」
ナージャはそう言いながら。
どこか嬉しそうに笑っていた。
食堂に笑い声が広がる。
ガルドが酒を飲み。
ドレイスが呆れ。
ナージャがそれを止める。
私は、その光景を眺めながら杯を傾けた。
戦場にいた頃には、こんな時間が来るとは思わなかった。
仲間が生きていて。
皆が笑っていて。
明日の予定を話しながら、くだらないことで笑える。
そんな毎日が、今は確かにある。
「……悪くないな」
思わず呟く。
「何が?」
ナージャが聞き返す。
「こういう日々が」
私は食堂を見渡した。
「ずっと続けばいいと思っただけだ」
ガルドが笑う。
「だったら、続けりゃいいだろ」
「そう簡単に言うなよ」
「簡単だって」
ガルドは杯を掲げる。
「明日も皆で飯を食えばいい」
「……そうですね」
ドレイスが頷く。
ナージャも笑った。
「それが一番ね」
私も。
小さく笑う。
「……ああ」
窓の外では、王都の明かりが静かに灯っていた。
戦争のない夜。
仲間と笑える夜。
明日もまた。
同じ朝が来ると思える夜。
私はその時間を、静かに噛み締めていた。




