幕間 祭りの日に
春の終わり。
まだ少し肌寒さの残る王都で、年に一度の祭りが開かれていた。
街には色とりどりの旗が飾られ、大通りには屋台が並んでいる。
焼き菓子の甘い香り。
焼いた肉の香ばしい匂い。
遠くから聞こえてくる楽器の音。
子どもたちの笑い声。
大道芸人を囲む人々の歓声。
王都は、いつもの静けさを忘れたように賑わっていた。
そんな街を、私は兵舎の窓から眺めていた。
「……祭りか」
これまで、こうした行事に興味を持ったことはなかった。
任務があればそちらを優先し、休みの日も訓練に費やしてきた。
出かけるのは、情報を集める時だけだ。
男として生きるようになってからは、それが当たり前になっていた。
けれど、今年はなぜか窓の外へ目が向いてしまう。
楽しそうに笑う人々。
屋台の前に並ぶ子どもたち。
手を繋いで歩く男女。
その光景を見ているうちに、ふと胸の奥から小さな願いが湧いた。
一度くらい、私もあの中へ行ってみたい。
「……ガルド」
「ん?」
「今日、休暇をもらってもいいか?」
ガルドが目を丸くした。
「お前から休みたいなんて言うのは珍しいな」
「祭りを見てみようと思って」
「祭りを?」
「ああ」
ナージャが横から口を挟む。
「いいじゃない。たまには遊んできなさいよ」
「俺も賛成だ」
ガルドが笑った。
「最近は任務続きだったからな。好きにしてこい」
「ありがとう」
私は短く礼を言った。
◇◇◇
部屋へ戻ると、荷物の奥から一つの包みを取り出した。
数年前に、ナージャから渡されたものだった。
『いつか必要になるかもしれないから』
そう言われた時には、何に使うのか分からなかった。
でも包みを開いた瞬間、その意味を思い出す。
淡い青色のワンピース。
派手ではない。
街を歩いていても目立たない、ごく普通の服だった。
私はしばらく、それを見つめた。
以前、ナージャは言っていた。
『一度くらい、自分自身の姿で歩いてみてもいいでしょう?』
あの言葉が、ずっと心の片隅に残っていた。
「……今日は」
私はワンピースを手に取った。
「これで行ってみるか」
着替えを終え、長い髪を整える。
鏡の前に立つ。
そこにいるのは、いつものクリスではなかった。
仮面の騎士でもない。
公爵家の嫡男でもない。
王国軍の騎士でもない。
一人の少女。
それだけだった。
「……変な感じだ」
鏡の中の自分へ向かって、小さく笑う。
ぎこちない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
私は帽子を被り、部屋を出た。
◇◇◇
王都は、人で溢れていた。
屋台を眺めながら歩く。
焼き菓子を一つ買い、果実水を飲む。
大道芸人の前で足を止める。
どれも、戦場とは無縁の時間だった。
剣を握らなくていい。
誰かを守る必要もない。
次の任務について考える必要もない。
ただ歩いて。
ただ見て。
ただ楽しむ。
それだけでよかった。
「……楽しいな」
思わず声が漏れる。
誰かに聞かれたわけでもないのに、少しだけ恥ずかしくなり、小さく微笑む。
こんな時間を過ごしたのは、いつ以来だろう。
そう考えながら歩いていると。
「お嬢ちゃん」
背後から、酒臭い声がした。
振り返る。
顔を赤くした男が二人、こちらを見ていた。
「一人か?」
「俺たちと一緒に来いよ」
「結構です」
私はその場を離れようとした。
だが、腕を掴まれる。
「そんな冷たいこと言うなって」
「離してください」
力を込めれば、簡単に振りほどける。
けれど、今日は騒ぎを起こしたくない。
どうするか考えていた、その時だった。
「そこで何をしている」
低い声が響いた。
男たちが振り返る。
王国軍の制服。
腰には剣。
そして、黒髪の青年が立っていた。
「嫌がっているだろ」
青年が一歩近づく。
「手を離せ」
その声に、男たちは顔をしかめた。
「騎士様かよ……」
「面倒くせえな」
舌打ちを残して、人混みの中へ消えていく。
青年は男たちの姿が見えなくなるまで確認すると、こちらへ向き直った。
「大丈夫ですか?」
「……はい」
私は息を呑んだ。
レオンだった。
いつも隣にいる青年。
でも、こうして一人の騎士として見ると、少し違って見える。
背は高くなった。
肩幅も広くなった。
少年だった頃の面影を残しながらも、立派な騎士になっている。
「怪我はありませんか?」
「ありません」
「それならよかった」
レオンは安心したように笑った。
「祭りの日は人が多いですから。一人で歩く時は気を付けてください」
「はい。ありがとうございます」
「それでは」
レオンが踵を返す。
その背中を見送りながら。
私は少しだけ迷った。
声を掛けようか。
名前を呼んでみようか。
でも、今の私はただの少女だ。
だから。
「……さようなら」
小さく呟く。
その声が聞こえたのか。
レオンが足を止めた。
「……あれ?」
振り返る。
心臓が跳ねた。
「どこかで会ったことがあるような……」
私は息を止めた。
レオンがじっとこちらを見る。
しばらく考えた後。
「いや……気のせいか」
そう言って笑った。
「それじゃ、祭りを楽しんでください」
「……はい」
レオンは人混みの中へ消えていった。
私はその背中を見つめる。
そして、小さく息を吐いた。
「……気付かなかったな」
当然だ。
レオンはもう何年も仮面を取った私の素顔を見ていない。
今の私には仮面もない。
騎士の服も着ていない。
男として整えた姿でもない。
レオンが気付かなくても不思議ではなかった。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
気付いてほしいと思った。
その気持ちに気付いて、私は苦笑する。
「……何を考えているんだ、私は」
そして、再び祭りの中へ歩き出した。
◇◇◇
夜になると、王都の空へ花火が上がった。
大きな音とともに、色鮮やかな光が夜空へ広がる。
街から歓声が上がった。
私は人混みから少し離れた場所で、その光景を見上げていた。
「綺麗だな……」
思わず呟く。
もし、普通の少女として生きていたなら。
こうして誰かと祭りへ来て。
一緒に花火を見ていたのだろうか。
そんな想像が、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
けれど、私はすぐに笑った。
今の私には、私が選んだ生き方がある。
剣を握る。
仲間と戦う。
守りたいものを、自分の手で守る。
それを後悔したことはない。
だから、今夜はただ、この時間を楽しめばいい。
花火が終わるまで。
私は一人の少女として、夜空を見上げていた。
◇◇◇
兵舎へ戻る。
部屋に入ると、ワンピースを丁寧に脱いだ。
再び男の服へ着替える。
髪をまとめる。
最後に、机の上に置いていた仮面を手に取った。
鏡を見る。
そこにいるのは、いつものクリスだった。
仮面の騎士。
王国軍の騎士。
《暁の牙》の仲間。
私は仮面を顔へ当てる。
視界が狭くなる。
けれど、それが不思議と心地よかった。
「……明日から、また頑張るか」
そう呟く。
今日のことを知る者はいない。
私が祭りへ行ったことも。
ワンピースを着たことも。
レオンと出会ったことも。
全部、私だけが知っている。
私は窓の外へ目を向けた。
祭りの灯りが、まだ遠くに見える。
そして、小さく笑った。
「……悪くなかったな」
それだけ言って、私は灯りを消した。




