第四十一話 読み解けない感情
あの会話から数日、王女は変わらず《暁の牙》の訓練場へ姿を見せている。
だが、以前とは、少しだけ様子が違っていた。
「レオン様、お疲れさまでした」
「ああ。王女様も今日は視察か?」
「はい。皆さんの訓練を見せていただいていました」
二人は自然に言葉を交わし、笑っている。
私は少し離れた場所で木剣を振りながら、その様子を横目で見ていた。
以前なら、王女が訓練場へ来ると、真っ先に私のほうへ来ていた。
その目には、仮面の騎士への憧れが滲んでいたが、私は必要以上に親しくならぬよう、意識して距離を取っていた。
私の正体を、知られる訳には行かない。
それは今でも変わらない。
だから、王女が私ではなくレオンと話すようになったことに、不満を持つ理由などない。
むしろ私がそう望んでいたのだから、これでいいはずだ。
「――それでですね」
「へえ。そんなことがあったのか」
(それで、いいはずなのに……。)
王女の楽しそうな声が聞こえる。
レオンも笑っている。
私は木剣を振りながら訓練に集中しようとするが、視界の端に二人の姿が映る。
(……いつの間に)
昔は、私の後ろをついて歩いていた少年だった。
私が歩けば、その後ろを追いかけてくる。
それから共に成長し、お互いの背を預け、共に戦場を駆けた。
私の背中を守るのは、レオンしかいないと思っていた。
そんな日々が、この関係が、ずっと続くような気がしていた。
だがレオンはもう、私は必要ないのかもしれない。
自分で考え。
自分で動き。
自分の言葉で、誰かを支えるようになった。
王女と話している姿を見ても、それがよく分かる。
私が知らないところで、レオンは新しい人間関係を築いている。
当たり前のことだ。
成長すれば、そうなる。
私だって、昔とは違う。
「クリス」
不意にガルドの声が飛んできた。
「少し休め。さっきから同じところで剣が止まってるぞ」
「ああ」
私は木剣を下ろした。
額の汗を拭い、水を一口飲む。
それから、何気なく庭へ目を向けた。
レオンと王女が並んで歩いている。
王女が庭に咲く花を指差し、レオンが何か答えている。
どこにでもあるような光景だった。
それなのに、なぜか目を離せなかった。
(……何だろう)
私は小さく息を吐いた。
王女が他の誰かと親しくなることは、喜ぶべきことだ。
あの子には、私のような思いをしてほしくない。
家族から切り離されることも。
自分の居場所を失うことも。
誰にも頼れず、一人で生きることも。
そんなものは知らずにいてほしい。
誰かを信じて。
誰かと笑って。
自分の望む未来を選んでほしい。
それが、私がずっと願ってきたことだった。
だから、王女がレオンと笑っている姿を見れば、安心するはずだった。
実際、嬉しいと思う。
レオンなら、王女を粗末に扱うことはない。
困っていることがあれば、手を差し伸べるだろう。
なのに、どうしてか、胸の奥に、ほんの少しだけ寂しさが残った。
(乙女ゲームの通りになっているからだろうか……。)
だが、傭兵上がりと王家の姫。
ふたりが交流するのを、周囲は止めるかもしれない。
(2人の仲が、周囲に邪魔されてしまうのが、忍びないからだろうか)
「クリス」
気が付くと、ナージャが隣に立っていた。
「ぼーっとしてるわよ」
「そうか?」
「ええ。珍しいわね」
ナージャは私の顔を見た後、その視線を庭へ移した。
私もつられて、そちらを見る。
レオンと王女がまだ話している。
「なるほどね」
「何がだ?」
「別に」
ナージャは意味ありげに笑った。
「ただ、少し寂しそうだなって思っただけ」
「……寂しい?」
「違う?」
そんなつもりはなかった。
ただ、心配していただけのつもりだった。
だから、ナージャがなぜそんなことを言うのか分からなかった。
「……二人とも、楽しそうだなと思っただけだ」
「そうね」
ナージャは、それ以上何も聞かない。
ただ、小さく笑って離れていく。
私はその背中を見送り、もう一度庭へ目を向けた。
◇◇◇
レオンが王女と話している姿を見ていると、もしもの考えが浮かんでくる。
もし、私が王家で育っていたら、妹と一緒に過ごす時間があったのだろうか。
一緒に食事をして、一緒に庭を歩いて、くだらないことで笑って。
姉妹として、普通に成長していくことができたのだろうか。
そんな未来を、私は知らない。
妹がどんな幼少期を過ごしたのかも知らない。
何が好きなのか、何が嫌いなのか、どんなことで笑うのか、どんな時に泣くのか。
何も知らなかった。
そして今も、王女と直接話すことは意識して避けている。
私が王家にいたなら与えられていたはずの身分や名前に、今さら戻るつもりもない。
あの子に、私の存在を知られたくない。
私が、王家の第1子が生きていることを知られても、何もいいことはない。
だから、私は距離を置く。
王女がこちらを気にしていても、話しかけたそうにしていても、最低限の仕事としての接し方のみで、私から近づいてはならないのだ。
それが、私にできる唯一の線引きだった。
だから二人が並んで歩く姿を見ていると、自分だけが知らない時間を過ごしてきたことを、改めて思い知らされる。
(……そういうことか)
私はようやく気づいた。
寂しいのは、レオンが王女と親しくなったからではない。
王女が私以外の誰かと笑っているからでもない。
私はただ、二人が過ごしている時間の中に、最初から存在していなかった。
それが、少し寂しいのだ。
姉として、一緒に過ごすことができなかった。
妹の成長を見守ることもできなかった。
今さら、それを悔やんでも仕方がない。
私がクリスとして生きることを選んだのだから。
◇◇◇
私は木剣を握り直した。
今の人生を後悔しているわけではない。
ガルドがいる。
ナージャがいる。
ドレイスがいる。
そして。
レオンがいる。
《暁の牙》で過ごしてきた時間は、私自身が選んできたものだ。
誰かに与えられた人生ではない。
自分で剣を握り。
自分で仲間を選び。
自分で生き方を決めてきた。
だから、妹にも同じように、自分の人生を歩んでほしいと思う。
レオンがその隣にいるのなら。
それも悪くない。
むしろ安心できる。
あいつは優しい。
自分が傷ついてでも誰かを守ろうとするところは、少し心配になるけれど。
それでも、王女を大切にするだろう。
(……それでいい)
私は自分に言い聞かせる。
妹には妹の人生がある。
私には私の人生がある。
今さら、その二つを無理に重ねる必要はない。
この先、乙女ゲームというシナリオに不幸が訪れようとも、私が2人を守る。
ストーリーを、変えなければならない。
そう思った時だった。
「クリス!」
庭から声がした。
レオンがこちらへ手を上げている。
私は軽く手を上げ返した。
レオンはそれだけ確認すると、また王女の方へ向き直る。
その姿を見て、私は少しだけ笑った。
昔なら、レオンはすぐに私のところへ駆けてきただろう。
何かあれば私を呼び、私の隣にいることが当たり前だった。
けれど、今は違う。
レオンには、レオンの世界がある。
王女にも、王女の世界がある。
そして私にも、私が選んだ世界がある。
それは寂しいことなのかもしれない。
けれど悪いことではない。
人は成長すれば、少しずつ自分の世界を広げていく。
誰かと出会い、誰かを信頼し、自分の足で歩くようになる。
私もそうだった。
だから、レオンがそうなることを止める理由はない。
「……大きくなったな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
その声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
◇◇◇
部屋で1人、顔を覆う仮面に触れた。
この仮面は、私の正体を隠すためにある。
王家にいたなら与えられていたはずの名前。
アリアリーデ。
その名前を隠すためではない。
私はアリアリーデという名前を、自分自身の名前だとは思っていなかった。
それは、もし私が王家に残されていたなら、その人生を歩んでいたなら、与えられていたはずの名前。
私の知らない、もう一つの人生につけられた名前だ。
だから、墓に刻まれたその名を見ても。
「本当の自分が死んだ」とは思わない。
あそこにあるのは、私が生きることのなかった人生の名前だ。
私は今、ただのクリスとして生きている。
みんなが呼んでくれるこの名こそが、今の私にとって大切な名前だった。
だから、王女の前でも仮面を外さない。
私はそう決めている。
それでも、妹が笑っている姿を見れば嬉しい。
レオンが楽しそうなら安心する。
その二人を見て、少し寂しくなる自分もいる。
矛盾している。
けれどそれも仕方のないことなのだろう。
私はもう一度、庭へ目を向けた。
王女が笑っている。
レオンも笑っている。
その姿を見ながら、今度は素直に思った。
(……よかった)
妹が笑っている、それだけでいい。
私がその隣にいなくても。
私のことを知らなくても。
あの子が幸せに生きられるなら、それでいい。
そう思える自分がいる。
そして同時に、もし、いつか。
すべての事情を乗り越え、誰にも迷惑をかけずに済む日が来るのなら。
その時くらいは、姉としてではなくても、一人の人間として、妹の隣で笑ってみたい。
そんな小さな願いが、自分の中に生まれていることにも気づいていた。
けれど今はまだ、その時ではない。
私は木剣を構え直した。
「もう一本」
ガルドたちがこちらを見る。
私は再び訓練へ戻った。
庭の向こうでは、レオンと王女がまだ話している。
今度はもう視線を逸らさなかった。
妹が歩いていく道を。
レオンが選んでいく道を。
そして私が進む道を。
私はそれぞれ見つめながら。
木剣を振り下ろした。




