幕間 もどかしさ(レオンside)
最初は、ただの疑問だった。
なぜ、クリスは王女にあれほど距離を置くのだろう。
王女が《暁の牙》の訓練場へ姿を見せるようになってから、俺は何度もその光景を目にしていた。
「仮面の騎士様」
王女は、クリスを見つけると嬉しそうに声を掛ける。
けれど、クリスは決まって一礼するだけだった。
「申し訳ありません。これから訓練がありますので」
「またの機会に」
そう言って、王女の前から離れていく。
冷たいわけではない。
王女だからといって、無礼に扱っているわけでもなかった。
困っていれば助ける。
話しかけられれば、きちんと答える。
礼儀も欠かさない。
それでも、決して自分から近づこうとはしなかった。
まるで、王女との間に見えない線を引いているようだった。
最初は、王族が苦手なのだろうと思っていた。
けれど、どうも違う。
クリスは王女を嫌っているわけではない。
むしろ、王女が近くにいる時ほど、普段以上に慎重になっているように見えた。
視線を合わせる時間を短くする。
必要以上に話さない。
王女が近づけば、自然な理由をつけてその場を離れる。
偶然ではない。
意図的に避けている。
俺には、それが分かるようになっていた。
◇◇◇
ある日の夕方。
訓練を終えた俺が王城の廊下を歩いていると、前方から小さな声が聞こえた。
「……また、断られてしまいましたね」
足を止める。
振り返ると、少し離れた場所に王女が立っていた。
侍女たちが後ろに控えている。
王族としての姿勢は崩していない。
それでも、その表情には落胆が浮かんでいた。
俺は少し迷った。
王女とまともに話したことは、まだほとんどない。
それでも、このまま見過ごすのも気が引けた。
「王女様」
声を掛けると、王女が振り返った。
「……レオン様?」
「はい」
自分から声を掛けたくせに、どう接すればいいのか分からない。
少し考えてから、俺は口を開いた。
「もしよければ、仮面の騎士じゃなくて、俺でよければ、話し相手になりますよ」
王女は驚いたように目を見開いた。
やがて、小さく笑う。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見た時、俺は少しだけ安心した。
クリスに断られたことを、ずっと気にしているのかもしれない。
だったら、せめて俺くらいは話し相手になってやればいい。
その程度の気持ちだった。
◇◇◇
それから、王女と話す機会が少しずつ増えていった。
訓練場で顔を合わせれば挨拶をする。
廊下ですれ違えば、少し言葉を交わす。
王族の護衛を任された時には、近くで付き添うこともあった。
「今日は訓練だったのですか?」
「ああ」
「お疲れではありませんか?」
「これくらい平気だって」
そんな他愛のない会話だった。
けれど、時間を重ねるうちに、俺は少しずつ王女のことを知っていった。
最初に思っていた印象とは違った。
王女だから、何不自由なく育てられている。
俺はどこかで、そんなふうに考えていた。
けれど、実際にはそうではなかった。
ある夜、王城の廊下を歩いていると、一つだけ明かりのついている部屋があった。
気になって中を覗くと、王女が机に向かっていた。
「……まだ勉強してるのか?」
「レオン様?」
王女が顔を上げる。
机の上には、王国の地図や経済に関する資料、貴族の名簿まで並んでいた。
「こんな時間まで?」
「はい」
王女は少し疲れたように笑った。
「まだまだ知らないことばかりですから」
「でも、もう遅いだろ」
「分かっています」
そう言いながらも、王女は書類から手を離さない。
「私は王女ですから」
「いつか、この国を背負う立場になるなら、何も知らないままではいけないと思うんです」
思わず黙った。
まだ十四歳。
本来なら、もっと自由に過ごしてもいい年頃だ。
友達と遊んだり、好きなものを食べたり、くだらない話をして笑ったり。
そんな時間があってもいいはずなのに、この人は誰にも見られていない場所で努力を続けている。
「……辛くないのか?」
思わず尋ねた。
王女は少し考えてから答えた。
「……辛いですよ」
意外だった。
もっと強がると思っていた。
けれど、王女は苦笑しながら続ける。
「それでも、私を必要としてくれる人がいるなら、頑張りたいと思います」
その瞳には、年齢には似合わない覚悟があった。
その時、俺は初めて思った。
この人を守りたい。
王女だからではない。
王族だからでもない。
一人の人間として、この人が背負っているものを少しでも支えてやりたい。
そう思った。
◇◇◇
だからこそ、クリスの態度が気になった。
王女はクリスとただ話したがっているだけだ。
なのに、クリスはいつも一歩引いている。
王女が笑いかけても、必要以上に反応しない。
話しかけられても、短い言葉だけを返して離れていく。
ある日、とうとう俺はクリスに声を掛けた。
「……また断ったのか?」
「何の話だ」
クリスはいつものように淡々としていた。
「王女様だよ」
「お前に会うために、わざわざ訓練場まで来てるだろ」
クリスの動きが止まった。
けれど、すぐにこちらへ向き直る。
「それがどうした」
「どうして、そこまで距離を置くんだ?」
責めたいわけではなかった。
クリスには、俺の知らない事情がある。
自分のことをほとんど話さないことも、何かを隠していることも分かっている。
だから、無理に聞き出すつもりはなかった。
それでも、王女が寂しそうな顔をしているのを見ると、黙っていられなかった。
「王女様は、お前を困らせたいわけじゃないだろ」
「ただ、お前と話したいだけなんじゃないか」
クリスは答えなかった。
仮面の奥に隠された目が、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
「お前に事情があるのは分かってる」
「俺には言えないこともあるんだろ」
それでも、クリスは何も言わない。
「けど、王女様にまでその事情を背負わせなくていいだろ」
その言葉に、クリスがゆっくり顔を上げた。
「……どういう意味だ」
「王女様は、お前に何かをしてほしいわけじゃない」
「ただ、一緒に話したいだけだ」
俺はクリスを見る。
「それくらい、付き合ってやってもいいんじゃないか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、クリスが小さく息を吐く。
「……そう簡単な話じゃない」
「え?」
「いや」
クリスは首を振った。
「何でもない」
それだけ言うと、背を向ける。
「おい、クリス」
呼び止めようとした。
けれど、俺は言葉を飲み込んだ。
今の声には、いつものクリスとは違う何かがあった。
怒っているわけではない。
困っているようにも見えない。
ただ、俺が踏み込んではいけない場所に触れた。
そんな気がした。
◇◇◇
クリスが去った後、俺は一人で廊下に残った。
(やっぱり、何かある)
王女とクリスの間には、俺の知らない事情がある。
しかも、クリスは王女を嫌って避けているわけではない。
むしろ逆だ。
王女が近づくたびに、クリスは何かを堪えるように距離を取っている。
それが何なのかは分からない。
俺には話せない事情なのだろう。
なら、今は無理に聞く必要はない。
クリス自身が話したくなった時に、その話を聞けばいい。
ただ、一つだけ気になることがあった。
王女がクリスを見る時の表情だ。
あの人は、クリスに何か特別なものを感じているように見える。
まだ出会って間もないはずなのに、なぜあれほど気に掛けるのか。
そしてクリスもまた、王女に対して普通とは違う反応を見せる。
それなのに、二人ともその理由を口にしない。
俺には、その関係が不思議で仕方なかった。
◇◇◇
それからも、王女は訓練場へ足を運んだ。
クリスは相変わらず距離を置いている。
王女が話しかければ、礼儀正しく答える。
けれど、自分から会話を続けようとはしない。
俺が見る限り、それは偶然ではなかった。
クリス自身が、そうしている。
まるで、王女と近づけば何かが変わってしまうことを知っているかのように。
俺はまだ、その理由を知らない。
ただ、王女が寂しそうな顔をするたびに、少しくらい俺を頼ってくれてもいいと思うようになった。
王女だから。
未来の国を背負う立場だから。
そんな理由で、何もかも一人で抱える必要はない。
俺にできることなんて、たかが知れている。
それでも、話を聞くことくらいならできる。
隣に立つことくらいならできる。
そう思っていた。
そして、この頃の俺はまだ知らなかった。
クリスが王女を避ける理由も。
王女がクリスに感じている懐かしさの意味も。
二人の間にあるものが、俺の想像しているような単純な関係ではないことも。
ただ一つ確かなのは、クリスが王女を遠ざけるたびに、その目には苦しさが浮かんでいるということだった。
俺は、その理由を知らない。
だから今は、無理に知ろうとは思わなかった。
いつかクリス自身が話してくれる日が来るなら、その時に聞けばいい。
それまでは、王女の隣にいる。
それが今の俺にできることだった。




