第四十話 失われた名前
順番を直して再upです。
王女が訓練場へ姿を見せるようになってからも、私は意識して彼女を見ないようにしていた。
もちろん、気づいている。
訓練場の端に立つ王女の姿も。
騎士たちの訓練を眺めながら、時折こちらへ向けられる視線も。
すべて分かっていた。
それでも、私は振り返らなかった。
王女が私の妹だということを、私は最初から知っている。
だからこそ、近づいてはいけない。
私が第一王女として生まれたことを知られれば、今まで築いてきたものがすべて崩れてしまう。
それだけなら、まだいい。
私の正体が明らかになれば、妹まで王家の問題に巻き込むことになる。
だから私は、王女が訓練場に来ても気づいていないふりをした。
視線が合いそうになれば、別の場所を見る。
声を掛けられなければ、自分から話しかけない。
廊下ですれ違っても、騎士として必要な礼だけをして、そのまま通り過ぎる。
冷たい態度だと思われても仕方がない。
それでも、今の私にはそれしかできなかった。
◇◇◇
ある日の訓練が終わった後だった。
騎士たちが武器を片付ける中、私は木剣を戻していた。
「仮面の騎士様」
背後から声がした。
聞き慣れた声だった。
私は一瞬だけ手を止める。
そして、ゆっくりと振り返った。
そこには王女が立っていた。
「はい、王女殿下」
私は騎士として一礼する。
「先日は助けていただいて、ありがとうございました」
「お気になさらず。騎士として当然のことをしたまでです」
「それでも、私はとても怖かったのです」
王女は、あの日のことを思い出したのか、少しだけ表情を曇らせた。
「助けていただかなければ、階段から落ちていました」
「ご無事で何よりです」
「ありがとうございます」
王女は微笑んだ。
私は、その顔を見つめないようにした。
見れば、余計なことを考えてしまう。
この子は私の妹だ。
幼い頃に一度だけ見た、小さな赤ん坊。
その成長した姿を、私は今こうして目の前で見ている。
それだけで十分だった。
「仮面の騎士様は、いつも仮面をつけていらっしゃいますね」
「はい」
「苦しくはないのですか?」
「もう慣れています」
「お顔を隠している理由を、聞いてもよろしいですか?」
私は少しだけ間を置いた。
「申し訳ありません。それについては、お答えできません」
「そうですか」
王女は残念そうにしたものの、それ以上は尋ねなかった。
その反応に、私は少しだけ安堵した。
「いつか、お顔を見せていただくことはできますか?」
「……分かりません」
私はそれだけ答えた。
王女は小さく笑った。
「分かりました。無理にお願いはしません」
その言葉に、私は胸の中で息を吐いた。
この子は、私の正体を知らない。
知らないままでいい。
私はそう思っていた。
◇◇◇
それからも、王女との短い会話は続いた。
「今日も訓練ですか?」
「はい」
「毎日、大変ですね」
「慣れています」
「仮面の騎士様は、いつも同じことをおっしゃいますね」
「そうでしょうか」
「ふふ。少し面白い方なのですね」
王女が笑う。
私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
必要以上には近づかない。
けれど、王女から話しかけられた時まで無視することはできなかった。
それは私にとって、妹と交わせる唯一の会話だったからだ。
ただし、そのたびに自分へ言い聞かせる。
これは姉妹の会話ではない。
王女と騎士の会話だ。
私はクリス。
王国軍に所属する騎士で、《暁の牙》の一員。
王女の姉ではない。
そうしなければ、私は自分を保てなかった。
そんなある日、王女が少し緊張した様子で口を開いた。
「仮面の騎士様」
「はい」
「お願いがあります」
「何でしょうか」
「少しだけ、庭園を一緒に歩いていただけませんか?」
私は答えに迷った。
二人で歩けば、それだけ話す時間が増える。
本当なら、避けるべきだった。
けれど、王女は返事を急かさず、ただこちらを見ていた。
「……短い時間だけでしたら」
「ありがとうございます」
嬉しそうな笑顔。
私はその表情から視線を逸らした。
これ以上、妹を近くに感じてはいけない。
そう思いながら、王女の隣を歩いた。
◇◇◇
庭園には色とりどりの花が咲いていた。
王女はその中をゆっくり歩きながら、時々花の名前を教えてくれた。
「この花は、母上が好きなんです」
「そうなのですか」
「はい。だから庭師に頼んで、毎年植えてもらっています」
そんな話を聞いていると、王女が普通の少女として笑っていることが分かる。
王族としての立場はある。
けれど、この子にも好きなものがあり、家族との思い出がある。
私は知らなかった。
私が王家から切り離された後、この子がどんなふうに育ってきたのか。
どんな日々を過ごし。
誰と笑い。
誰に支えられてきたのか。
私は何も知らない。
そんなことを考えていると、王女が突然こちらを見る。
「仮面の騎士様には、ご家族はいらっしゃるのですか?」
私は歩みを止めなかった。
「……いません」
「そうなのですね」
「私は孤児です」
嘘ではない。
少なくとも、クリスという人間について言えば、それが私の過去だった。
王女は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「私には、お姉様がいたそうです」
その言葉に、私は一瞬だけ呼吸を忘れた。
知っている。
その姉が誰なのか。
自分自身だからだ。
「……お姉様、ですか?」
それでも私は、何も知らない騎士のふりをして尋ねた。
「はい」
王女は庭園の先を見ながら話す。
「生まれてすぐに亡くなったと聞いています」
私は何も言わなかった。
王女にとって、私は死んだ姉だ。
その事実を改めて聞かされても、驚きはしない。
ただ、自分の妹がその話をどんな気持ちで聞いているのか、それだけが気になった。
「お父様もお母様も、その話をすると悲しそうなお顔をされます」
「だから、あまり聞かないようにしているのです」
「……そうですか」
私はそれ以上、何も言えなかった。
すると王女が、小さく笑った。
「でも、一度だけお名前を聞いたことがあります」
その言葉に、私は思わず尋ねた。
「……何というお名前ですか?」
「アリアリーデです」
胸の奥が、わずかに揺れた。
アリアリーデ。
それは、私が今の人生で名乗っている名前ではない。
王家に残されていたなら。
第一王女として育てられていたなら。
私が持っていたはずの名前だ。
けれど。
私にとって、それはもう自分自身を指す名前ではなかった。
あの名前で生きた記憶はない。
王女として過ごした日々もない。
私が知っているのは、生まれた時にその名前を与えられたという事実だけ。
「アリアリーデお姉様」
王女が、その名を大切そうに口にする。
私は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……素敵なお名前ですね」
「私も好きです」
王女が笑う。
私はその笑顔を見ながら、何も言えなかった。
この子は知らない。
今、目の前にいる騎士が、その名前を与えられた本人だということを。
そして私は、この子に教えるつもりもなかった。
◇◇◇
庭園を離れた後。
私は一人で王城の外れへ向かった。
人のほとんど訪れない場所。
そこには、小さな墓がある。
刻まれた名前は――アリアリーデ。
生まれてすぐに亡くなったとされた第一王女のために作られた墓だった。
もちろん、ここに私の遺体はない。
私は生きている。
今はクリスとして。
それでも、墓の前に立つと、不思議な気持ちになった。
ここに眠っていることになっているのは、私だ。
王家にとって、アリアリーデという第一王女は、もう死んだ存在。
けれど。
その名前だけは残っている。
墓もある。
そして今日、妹がその名前を口にした。
「……忘れられてはいなかったんだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
嬉しいのか。
悲しいのか。
自分でも分からない。
ただ、完全に消されたわけではなかったのだと思えた。
私は墓へ手を伸ばすことなく、その場に立ち続けた。
王女の顔が浮かぶ。
自分の妹。
王家に残され、王女として育てられた子。
その手には、王族としての資格を示す聖なる紋章がある。
王族に近い血を持ち、高潔な魂を宿す者に現れる印。
そして、聖剣に選ばれる資格を持つ者の証。
私にはなかった。
その違いが、私たちの運命を分けた。
同じ父と母から生まれたのに、私は王家から切り離された。
妹は王女として残された。
その事実を思えば、苦い感情が生まれるのも当然だった。
だがそれは、王女を責める理由にはならない。
あの子は何も悪くない。
私から何かを奪ったわけでもない。
ただ、与えられた場所で生きているだけだ。
だから私は、その感情を抱えたまま受け入れることにした。
(この子は、この子の人生を生きればいい)
(私も、私の人生を生きる)
もし王家に残っていたなら、私はアリアリーデという名の王女として、この子の隣にいたのかもしれない。
けれど、それはもう存在しない未来だ。
私が生きているのは、クリスとして選び取った今だ。
ガルドが呼ぶ名前。
ドレイスが呼ぶ名前。
ナージャが呼ぶ名前。
レオンが呼ぶ名前。
それが、今の私だ。
だから私は、妹に姉だと名乗らない。
王女が私の正体を知ることも望まない。
それでも、あの子が危険にさらされたなら、その時だけは、迷わず剣を抜く。
姉だからではない。
家族だからでもない。
この国の王女を守る騎士として。
そして、誰にも知られることのない、本当の血の繋がった姉として。
それだけでいい。
私は墓に背を向けた。
アリアリーデという名を、胸の中でそっとしまう。
それは、今の私の名前ではない。
王家に残っていたなら、私が名乗っていたはずの名前。
そういう、もう一つの人生の名前だ。
そして私は、今の自分の名前を思い浮かべる。
クリス。
私はそのまま、仲間たちの待つ場所へ戻っていった。




