第三十一話 覚醒
あの後、戦線は崩壊しかけたが、何とか立て直し、またすんでのところで戦線を維持することができた。
だが、私はあの日に、心を残したままだった。
朝になれば起きる。
顔を洗い、剣を握る。
決められた訓練をこなし、食事を取る。
任務があれば準備を整え、必要なら前線へ向かう。
周囲から見れば、それまでと何も変わっていない。
寝坊することもない。
訓練を怠ることもない。
任務の確認を忘れることもない。
仲間に話しかけられれば、いつも通り返事をする。
時には笑うことさえあった。
だから、最初は誰も気づかなかった。
私自身も、変わっていないつもりだった。
身体は以前と同じように動く。
剣を握れば、積み重ねてきた技術が自然と手足を動かしてくれる。
戦場へ出れば敵を斬り、仲間を守る。
それまでと何も変わらない。
ただ一つ違っていたのは、クリスの中にあった「これから」が消えていたことだった。
◇◇◇
朝の訓練場。
まだ日の低い時間帯だった。
冷たい風が頬を撫でる中、クリスは一人で剣を振っていた。
一振り。
二振り。
三振り。
足運びに乱れはない。
剣筋も正確だった。
長年の訓練で身体に染みついた動きは、感情とは関係なく続いていく。
けれど、そこに以前のような意志はなかった。
強くなりたい。
守りたい。
生き残りたい。
そんな思いから剣を握っていたはずなのに、今はただ身体を動かしているだけだった。
剣を振っていれば、余計なことを考えなくて済む。
それだけだった。
「……姉さんって呼べてよかった」
不意に、最後に聞いたルカの声が蘇る。
クリスの手が止まった。
脳裏に浮かぶのは、血に染まった弟の姿。
弱々しく伸ばされた手。
それでも最後まで笑おうとしていた顔。
そして、最後に聞いた言葉。
――家族で、よかった。
「……」
クリスは目を閉じた。
「私は……何をしていたんだ」
自分に問いかけても、答えは出ない。
守ると決めた。
力を手に入れれば、大切な人を守れると思っていた。
だから剣を握った。
戦場へ出た。
敵を倒し、仲間を救い、少しずつできることを増やしてきた。
それなのに、最も守りたかった弟を救えなかった。
「……私は、何も守れていない」
握った剣が震える。
本当なら、もっと早く伝えればよかった。
自分は兄ではなく姉なのだと。
本当の意味で家族になりたいのだと。
ルカが何度も求めていた言葉を、もっと早く返してやればよかった。
けれど、クリスは怖かった。
真実を明かせば、これまで築いてきた関係が変わってしまうかもしれない。
自分の正体を知られることが、《暁の牙》で得た居場所まで壊してしまうかもしれない。
そう考えて、ずっと距離を取っていた。
そして、ようやく本当のことを伝えたときには、もう遅かった。
「……姉さん、か」
小さく呟く。
もう一度、あの声で呼んでほしい。
そう思ってしまう。
けれど、どれだけ願っても、あの声が戻ってくることはない。
クリスは再び剣を構えた。
そして、何も考えないように振り下ろした。
◇◇◇
数日が過ぎても、状況は変わらなかった。
クリスは訓練を続けた。
むしろ、以前より長い時間を剣に費やすようになっていた。
食事の時間を削ることもある。
睡眠時間を削ることもある。
任務が終わっても休まず、訓練場へ向かう。
その様子を見て、最初に眉をひそめたのはガルドだった。
酒場の隅で、クリスの姿を遠くから眺める。
「……死に急いでやがる」
隣にいたドレイスが視線を向けた。
「やはり、そう見えるか」
「ああ」
ガルドは酒を一口飲む。
「前から無茶はしてた。だが、今は違う」
以前のクリスには、生き残ろうとする意志があった。
危険な場所へ飛び込むことはあっても、自分が生きて帰ることを前提にしていた。
今は、その前提がなくなっている。
自分が傷つくことを恐れない。
限界を越えても止まらない。
まるで、自分が苦しみ続けることそのものを当然だと思っている。
「……あの坊主を守れなかったことを、自分の責任にしてるんだろうな」
ドレイスは答えなかった。
否定できなかったからだ。
◇◇◇
その夜。
クリスは一人で訓練場にいた。
何度目か分からない剣を振り下ろしたところで、背後から声がかかった。
「ねえ、クリス」
振り返る。
そこにはナージャが立っていた。
「少し休んだら?」
「まだ大丈夫だ」
「そう言うと思った」
ナージャは苦笑する。
「でも、今日はもう終わり」
「私はまだ――」
「クリス」
名前を呼ばれ、言葉が止まる。
ナージャは真っ直ぐにクリスを見ていた。
「あなた、最近ずっと自分を追い込んでるでしょう」
「そんなことはない」
「あるわよ」
即答だった。
「前より訓練時間が増えてる。食事も適当になってるし、眠っている時間も短い」
「任務に支障は出ていない」
「そういう問題じゃないの」
ナージャの声が少しだけ強くなる。
「あなたは、自分が壊れるところまで頑張ろうとしてる」
クリスは黙った。
「……違う」
ようやく返した声には、自信がなかった。
ナージャはそれを聞いて、ため息をついた。
「本当に違うなら、そんな顔はしないわ」
クリスは何も言えない。
「彼を守れなかったことを、自分のせいだと思ってるんでしょう?」
「……」
否定できなかった。
「でも、あなたまで壊れたら意味がないわ」
「私は……」
言葉が出てこない。
ナージャは少しだけ表情を和らげた。
「私は、あなたと彼の関係性も知らないし、詳しく聞くつもりもないわ。」
優しく、私の心情を慮ってくれる。
「でもきっと、あなたが生きていることを、あの子だって望んでいたんでしょう?」
その言葉が胸に刺さった。
ルカの最後の声が蘇る。
――僕の分まで、生きてください。
クリスは剣を下ろした。
「……分かってる、分かってるんだ。」
「なら、今日は休みなさい」
「でも、」
「今のままじゃ、疲れるだけよ。」
「……ああ」
その返事は、ひどく弱かった。
◇◇◇
翌日、ガルドからも呼び出された。
「数日、前線から外れろ」
「……嫌だ」
「即答かよ」
ガルドは呆れたように笑った。
だが、その目は笑っていない。
「今のお前は戦ってるんじゃねぇ」
「……」
「自分を罰してるだけだ」
「違う」
「違わねぇよ」
ガルドは椅子に腰を下ろした。
「戦場で死んだ奴は、自分が死んだことで仲間まで死んでほしいなんて思ってねぇ」
クリスの指が動く。
「迷ったまま戦場に立つ奴は、自分だけじゃなく仲間まで危険に晒す」
「……分かっている」
「なら休め」
ガルドは真っ直ぐクリスを見つめた。
「俺たちは、お前が立ち直るまで待っててやるよ」
クリスは顔を上げた。
「……迷惑じゃないのか?」
「馬鹿言うな」
ガルドは鼻で笑った。
「仲間一人を休ませるくらいで迷惑がるほど、俺たちは薄情じゃねぇよ」
その言葉に、クリスは返事ができなかった。
なにか話そうとすると、その温かさに、涙が出てしまいそうだった。
だからただ、静かに頷いた。
◇◇◇
それから数日間、クリスは前線を離れた。
最初の日は、何をしていいのか分からなかった。
朝になると、いつものように剣へ手を伸ばす。
途中で思い出して、手を止める。
二日目には、無意識に戦場のある方角を見ている自分に気づいた。
三日目の朝。
食事の席についたところで、腹が鳴った。
「……」
クリスは自分の腹を見た。
弟は死んだ。
自分は今でも、そのことを受け入れられない。
それなのに、腹は減る。
喉も渇く。
夜になれば眠くなる。
朝になれば目が覚める。
身体は、心がどう思っているのかなど関係なく、生きようとしていた。
それが、最初は苦しかった。
けれど。
「……生きてるんだな」
自分の口から、そんな言葉が漏れた。
ルカはもういない。
それでも、私の身体は、生きようとしていた。
ルカは、私が生きることを望んでいた。
私の心だけが、あの日に囚われている。
でも身体は、前に進もうとしているのかもしれない。
ふと、そう思った。
◇◇◇
夕方、《暁の牙》が前線から戻ってきた。
レオンの腕には包帯が巻かれている。
ナージャの鎧には新しい傷が増えていた。
ガルドの頬にも浅い切り傷がある。
誰一人無傷ではないのに、彼らは、いつも通りだった。
「腹減った!」
レオンが帰ってくるなり叫ぶ。
「飯だ、飯!」
「その前に傷の手当て!」
ナージャが呆れたように声を上げる。
「飯食ってからじゃ駄目か?」
「駄目に決まってるでしょう!」
「じゃあ飯食いながら手当てすればいいじゃん」
「そういう問題じゃないの!」
いつものやり取りだった。
クリスは少し離れた場所から、その光景を眺めていた。
傷ついても。
疲れていても。
明日になれば、また生きる。
それが当たり前のように続いている。
自分だけが、あの日のままだった。
「クリス」
レオンが近づいてきた。
「何ぼーっとしてんだ?」
「……いや」
クリスは少し迷ってから口を開いた。
「私は、何をしているんだろうな」
レオンは首を傾げる。
「何って?」
「彼を失ってから、私はずっと剣を振っていた」
「でも、何をしたいのか分からないんだ」
レオンはしばらく黙っていた。
そして、いつものように遠慮なく言った。
「お前さ、自分のこと、全然大事にしてないよな」
クリスが顔を上げる。
「……」
「前から何度も言ってるだろ」
「誰かを守るのはいいけどさ」
レオンは困ったように眉を寄せた。
「守れなかったからって、お前まで壊れたら意味ないって」
その言葉に、クリスは返事ができなかった。
「あいつだって、そんなこと望んでないと思うぞ」
レオンは私とルカの関係は知らない。
でも、誰よりも真っ直ぐな目で私を見ていた。
「……ああ」
「だったら、生きろよ」
何も知らないくせに、と当たりそうになった。
それくらい、あまりにも単純な言葉だった。
なのに、どんな言葉よりも、響いてしまう。
私は、なにか言おうとした言葉を飲み込んだ。
何を言おうとしていたのかすら、自分でも分からなかった。
きっと言葉にすらなっていなかったのかもしれない。
『生きろ』という、純粋で、単純な言葉。
けど今の私には、その単純さが必要だった。
「……そうだな」
小さく答える。
「私も、そう思う」
レオンは安心したように笑った。
「じゃあ、飯食おうぜ」
「……今?」
「今」
「傷の手当てが先でしょう!」
ナージャが遠くから怒鳴る。
「ほら、やっぱり怒られた!」
レオンが笑いながら逃げていく。
その姿を見て、クリスの口元がわずかに緩んだ。
本当に小さな変化だった。
けれど、それは確かに笑顔だった。
◇◇◇
その夜。
クリスは一人で訓練場へ向かった。
いつものように剣を握る。
けれど、今日はすぐには振らなかった。
ルカの言葉を思い出す。
――自分のためにも生きてください。
クリスはゆっくりと息を吐いた。
弟はもう帰ってこない。
どれだけ願っても、その事実は変わらない。
後悔も消えない。
もっと早く話せばよかった。
もっと一緒にいればよかった。
もっと家族として過ごせばよかった。
きっと、その後悔を抱えたまま生きていくことになる。
それでも。
「……生きるか」
呟いた。
今までのように、自分を傷つけるために剣を握るのではない。
ルカのためだけに生きるのでもない。
自分自身の人生を、もう一度歩くために。
クリスは剣を構えた。
そして、一度だけ振る。
風を切る音が夜の訓練場に響いた。
もう一度。
今度は、自分の意思で剣を振る。
弟を失った悲しみは消えない。
失った時間を取り戻すこともできない。
それでも、立ち止まったままでは、ルカが最後に託した願いまで無駄にしてしまう。
だから、今はまだ前を向けなくてもいい。
悲しみを忘れる必要もない。
ただ、今日を生きる。
明日も生きる。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
それでも。
ルカが最後に残した願いを胸に、クリスは剣を握り直した。
「……行こう」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
それでも今度は、足を止めなかった。
クリスはゆっくりと訓練場を後にした。
悲しみを抱えたまま。
後悔を抱えたまま。
それでも、止まっていた時間を少しずつ動かすために。




