第二十九話 敗北からの変化③ ー現実ー
私は迷わなかった。
敵将へ向かう騎馬の向きを変え、中央へ進路を取る。
勝利を掴むためではなく、誰かを守るための選択だった。
「頼む……間に合ってくれ」
馬の腹を蹴る。
一気に速度を上げると、蹄が乾いた大地を叩き、土煙が後方へ流れていく。
頭の中にあるのは、ただ一つ。
彼……、弟のことだけだった。
近づくにつれて、戦場の様子がはっきりと見えてきた。
剣と剣がぶつかる音。
兵士たちの怒号。
負傷者を運ぶ者たちの叫び。
地面に倒れた兵士たち。
土に混じった血の臭い。
何度も戦場に立ってきたはずなのに、見るたびに思い知らされる。
ここでは、一瞬の判断が人の生死を分ける。
迷えば、その一瞬で誰かが死ぬ。
私は腰の剣を抜いた。
「道を開けろ!」
行く手を塞ぐ敵兵を斬り払い、馬を走らせる。
今は一人でも多くの兵を助けることを考えるべきだった。
けれど、中央へ近づいたところで、私は違和感に気づいた。
敵兵の数が減っている。
正確には、敵軍が後退していた。
「……撤退?」
思わず馬を止めかける。
周囲を見渡す。
敵は乱れていない。
敗走する兵士なら、もっと動きにばらつきが出るはずだ。
負傷者を置き去りにし、隊列を崩しながら逃げる。
それが普通の敗走だ。
だが、目の前の敵軍は違った。
部隊ごとにまとまりを保ったまま、一定の間隔を空けて後方へ下がっている。
まるで、最初から撤退する場所まで決められていたように。
「……違う」
背筋に嫌な感覚が走った。
これは敗北ではない。
敵は、戦場から逃げているのではない。
こちらを動かした上で、必要な場所から兵を引いている。
そこで、軍議の光景が脳裏をよぎった。
右翼への攻撃。
中央への圧力。
そして、私が中央へ向かわざるを得ない状況。
すべてが一本の線で繋がる。
「まさか……」
敵は、私がここへ来ることを予測していた。
第二戦でもそうだった。
私たちの戦術は読まれた。
こちらがどう動くのかを予測され、先回りされた。
だからこそ、今回は違う動きをしようとした。
それなのに、敵が読んでいたのは、私たちの戦術だけではなかった。
私が何を選ぶのか、誰を守りたいのか。
私が勝利よりも守りたいものは。
「……私自身が、狙われたのか」
その事実に気づいた瞬間、手綱を握る指に力が入った。
まただ。
私は、敵の思惑の中にいる。
(……落ち着け、焦っでも何も始まらない。)
「クリス殿!」
近くで戦っていた若い騎士が叫んだ。
「こちらです!」
その声に振り向く。
騎士の表情は、明らかに動揺していた。
何かが、起こっている。
「何があった!」
「負傷者が……! こちらに!」
それ以上は聞かなかった。
私は馬から飛び降りると、騎士の指した方向へ走った。
倒れた兵士を避ける。
折れた槍を踏まないように飛び越える。
誰かが助けを求める声が聞こえたが、今は振り返れなかった。
嫌な予感がする。
認めたくない。
それでも、足を止めることはできなかった。
そして、数歩先に倒れている人影が見えた。
砕けた鎧。
血に染まった服。
その手から離れた剣。
見間違えるはずがない。
「……ルカ」
足が止まった。
そこに倒れていたのは、公爵家の嫡男。
私の弟だった。
「ルカ!」
駆け寄り、その身体を抱き起こす。
温かい血が手に触れた。
その量を見ただけで、傷が軽くないことが分かる。
鎧の隙間から見える傷は深く、出血もひどい。
「しっかりしろ!」
肩を支える。
返事はない。
「ルカ!」
もう一度呼ぶ。
その瞬間、閉じていた瞼がわずかに動いた。
「……あ」
かすかな声が漏れる。
ゆっくりと目が開いた。
焦点の定まらない瞳が、私を探すように動く。
そして、私の顔を捉えた。
「……兄さん」
その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥に何かが突き刺さった。
「喋るな!」
私は傷口を押さえる。
「今、軍医を呼ぶ。だから、それまで何も言うな!」
「……うん」
ルカの返事は弱い。
私は傷口を押さえる手に力を込めた。
「誰か!」
周囲へ向かって叫ぶ。
「軍医を呼べ!」
「はい!」
兵士が走っていく。
それでも血は止まらない。
布を重ねても、すぐに赤く染まっていく。
「大丈夫だ」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
「この程度なら助かる。だから……」
言葉が続かなかった。
この傷が「この程度」ではないことくらい、分かっている。
私はこれまで、何度も戦場で傷を見てきた。
致命傷がどんなものなのかも知っている。
だからこそ、怖かった。
「兄さん……」
またルカが呼んだ。
「喋るなと言っただろ」
「でも……」
苦しそうに息を吐く。
「やっと……呼べたから」
その言葉に、私は何も返せなかった。
今まで、私はルカとの距離を保とうとしていた。
公爵家の嫡男と、一介の傭兵。
周囲から見れば、それだけの関係だった。
けれど、本当は違う。
私は彼の姉だった人間だ。
それを隠すために、私はずっと距離を置いてきた。
ルカが私を慕ってくれていることも知っていた。
それでも、深く関わることを恐れていた。
大切な存在だと認めてしまえば、失ったときに耐えられなくなる。
そう思っていたからだ。
けれど、そんな考えは今、この瞬間には何の意味もなかった。
目の前にいるのは、公爵家の嫡男ではない。
戦場で傷ついた一人の少年でもない。
私の弟だ。
守りたいと思った。
ただ、それだけだった。
「だから、死ぬな」
気づけば、私はそう呟いていた。
「絶対に助ける。だから……」
声が震える。
「私の前からいなくなるな」
ルカの瞳がわずかに動いた。
何かを言おうとしたように唇が開く。
だが、その前に軍医が駆け込んできた。
「どいてください!」
「お願いします!」
私はすぐに場所を譲った。
軍医が傷を確認し、周囲の兵士へ次々と指示を飛ばす。
「布を!」
「止血薬を用意しろ!」
「ここを押さえてください!」
処置が始まる。
私はその場から動けなかった。
何かできることがあるわけではない。
剣を握ることならできる。
敵を倒すこともできる。
戦況を読むこともできる。
それなのに、目の前で弟の命が失われようとしているとき、私にできることは何もなかった。
ただ、ルカの手を握る。
「大丈夫だ」
何度も同じ言葉を繰り返す。
「大丈夫だから」
その言葉が、ルカに向けたものなのか、自分自身に向けたものなのか、もう分からなかった。
時間の感覚がなくなっていく。
軍医たちが懸命に処置を続ける。
血で汚れた布が何度も交換される。
周囲ではまだ戦いが続いているはずなのに、私にはルカの呼吸しか聞こえなかった。
頼む。
助かってくれ。
せっかく、兄さんと呼んでくれたのだから。
もっと早く、私もお前を弟だと認めていればよかった。
もっと普通に話せばよかった。
もっと一緒にいればよかった。
そんな後悔が次々と浮かんでは消えていく。
そして、しばらくして。
軍医の手が止まった。
「……」
私は顔を上げる。
軍医は何も言わなかった。
ただ、傷口を見つめたまま動かない。
その表情を見た瞬間、嫌な予感が確信へ変わった。
「……どうした?」
声が出ない。
それでも、無理やり言葉を絞り出す。
「何か……方法はあるのか?」
軍医は答えなかった。
私は握っていたルカの手に、さらに力を込める。
「まだ、助けられるんだろ?」
返事がない。
聞きたくなかった。
その先の言葉だけは、絶対に聞きたくなかった。
けれど、軍医はやがて顔を上げた。
その目に浮かんでいたものを見て、私は悟った。
敵に戦術を読まれたことも。
罠に嵌められたことも。
勝利を逃したことも。
今はどうでもよかった。
目の前にいる弟を失うかもしれない。
その現実だけが、私の前に立ちはだかっていた。




