第二十一話 仮面の騎士 前編
国境付近に築かれた仮設陣地は、いつもの《暁の牙》とは違う静けさに包まれていた。
普段なら、酒の匂いと笑い声が響いているはずの時間。
くだらない話で笑い合い、
依頼の報酬について話し合い、
次の依頼を気にしていく。
そんな何気ない日常が、今はひどく遠いものに感じた。
今は、『次』の保証などなかった。
私は陣地の隅で、剣を磨く。
何度も、何度も、必要以上に、刃を輝かせる。
べつに剣に傷があるわけでも、手入れが必要なわけでもない。
ただ無心になりたかった。
何かを考えるのが怖かった。
眠ろうと目を閉じれば、余計な考えが頭をよぎる。
まぶたの裏には、明日の光景が浮かぶ。
無数の兵士。
振り下ろされる刃。
飛び散る血。
倒れていく仲間。
そして自分自身も、その中の一人になる可能性。
傭兵になってから、何度も命のやり取りは経験してきたはずなのに。
盗賊とも、魔物とも戦った。
生死を分けるやり取りをなんどもした。
だが明日向かい合う相手は、それらとは違う。
国と国がぶつかる戦争。
一人の力など、大きな流れの前ではあまりにも小さい。
どれだけ剣を磨いても、どれだけ強くなっても、なんの意味も無いかもしれない。
私が守りたい人たちを、失ってしまうかもしれない。
その事実が、怖かった。
こんな恐怖は初めてだった。
産まれてすぐに公爵家へ渡され、王宮で母に抱かれた記憶もない。
家族と呼べる者と過ごした時間もない。
公爵家でも、三歳を過ぎた頃から役目を果たすためだけの存在に成り下がった。
だから、私はずっと探していたのかもしれない。
自分がいてもいい場所を。
自分を必要としてくれる人を。
《暁の牙》に入って、初めて知ったのだ。
名前を呼ばれることの幸福を。
心配されることの温かさを。
くだらない話で笑い合うこと大切さを。
誰かの隣に立てること、その安心感を。
それが、どれほど尊いものなのか。
だからこそ、失うことが怖かった。
「クリス。」
顔を上げると、そこには酒瓶を片手にしたガルドが立っていた。
「珍しいな。お前が眠れないなんて。」
「それはこっちの台詞だ。」
「俺は団長だからな。部下の様子を見て回ってるんだよ。」
「酒を持って?」
「……細かいことは気にするな。」
いつもの調子。
いつものガルド。
でもその笑顔の奥にあるものを、私は知っていた。
ガルドも怖いのだ。
明日、誰かが死ぬかもしれないことを。
自分が帰れないかもしれないことを。
それでも、団長として笑っている。
「なあ、クリス。」
ガルドは隣に座った。
「もし明日、俺たちの誰かが――」
「言うな。」
反射的に遮った。
自分でも驚くほど強い声だった。
ガルドは少しだけ目を細める。
「聞きたくないか。」
「ああ。」
迷わず答える。
「……失うのは、嫌なんだ。」
小さな声だった。
私は、私自身は、何も持っていなかった。
全て《暁の牙》に来て、与えてもらった。
だからこそ、失うことが怖くてたまらなかった。
「……そうか。」
ガルドはしばらく黙った。
そして。
「なら、守れ。」
静かな声だった。
「守るってのは、何も傷一つ負わないことじゃねぇ。」
「怖くても。」
「失うかもしれなくても。」
「それでも前に立つことだ。」
胸の奥に、その言葉が響いた。
私は王家でも公爵家でもない、自分で選んだ場所にいる。
自分で選んだ仲間のために剣を握っている。
「お前は、自分より他人を優先しすぎる。」
「……。」
「だから言っておく。」
ガルドは私を見る。
「死ぬなよ、クリス。」
「団長命令だ。」
私は少しだけ笑った。
「言われなくとも。」
そう答える。
でも本当は分かっていた。
戦場では、願い通りにならないことを。
◇◇◇
翌朝。
大地は震え、遠くからは響く無数の足音が響く。
地面を踏み鳴らす兵士たちの行進が、まるで巨大な獣の咆哮のように国境地帯へ広がっていた。
目の前には、地平線の向こうまで続く敵軍。
旗が揺れる。
鎧が擦れる。
無数の剣が朝日に照らされ、銀色の波のように輝いていた。
風に乗って届くのは、鉄の匂い。
馬の汗。
土埃。
そして。
戦場特有の、死の気配。
「……これが、戦争か。」
誰かが呟いた。
その声は震えていた。
無理もない。
目の前にいるのは、数千ではない。
数万。
これほどの人間が、自分たちを殺すためだけに集まっている。
私は仮面の奥で、ゆっくり息を吐いた。
認めよう。
私は今、怖くてたまらない。
油断したらきっと、震えてしまう。
でも、怖いからこそ、守るために戦える。
私は周囲を見る。
王国軍。
各地から集められた騎士団。
そして、私たち《暁の牙》。
普段なら交わることのない者たちが、今は同じ戦場に立っている。
その時、味方の旗が目に入る。
黒い地に刻まれた、見覚えのある紋章。
胸が僅かに強張る。
(あれは……。)
昔、王宮で見たことがある紋章。
感じるのは、懐かしさではなく恐怖だった。。
もしも私を知る者がいたら、この仮面の奥にいる人間が、クリスティーナだと気付かれたら。
第一王女という名前が、再び私を縛ったら。
そして、
《暁の牙》のみんなまで巻き込まれたら。
私は無意識に仮面へ触れた。
これは身分を隠すためだけのものじゃない。
過去から逃げるためだけのものでもない。
私はクリスとして生きるために、この場所を守るために、この仮面を被っている。
「クリス。」
声に振り返る。
レオンだった。
「その仮面、本当にずっと付けるのか?」
「ああ。」
「戦いづらくないか?」
「慣れる。」
短く答える。
レオンは少しだけ眉を下げた。
「……昔の顔を知ってる奴がいるかもしれないから?」
私は答えなかった。
でも、レオンには伝わった。
「大丈夫だ。」
彼は剣を握る。
「俺たちは、もう昔のままじゃない。」
そして。
「今のお前は、クリスだ。」
その言葉に。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
そうだ。
私はもう、誰かに決められた存在じゃない。
この仲間たちと共にいる。
一人の傭兵、クリスだ。
その瞬間、戦場に開戦を告げる鐘が鳴り響いた。
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