第二十話 戦火の始まり
《暁の牙》へ所属してから、さらに数年の月日が流れた。
レオンと肩を並べて戦うことも、もはや当たり前になっている。
傭兵としての名も少しずつ広まり、王都では《赤毛のガルド率いる暁の牙》として知られる存在になっていた。
そんなある日。
王都の空気が、静かに変わり始める。
市場では保存食を求める人々が長い列を作っていた。
「もう干し肉はないのか!」
「一家につき一袋までです!」
店主の怒鳴り声が響く。
(嫌な空気だ…。)
私はその列の横を歩きながら、誰もが同じ不安を抱えていることを肌で感じていた。
普段は子供の笑い声で賑わう通りも、今は重苦しい空気に包まれていた。
鍛冶屋では朝から晩まで休むことなく、槌の音が鳴り響いていた。
城門の前では、故郷を離れて避難してきた家族が荷車を囲み、不安そうに身を寄せ合っていた。
「国境の村が焼かれたらしい。」
「敵軍が砦を一つ落としたって。」
そんな噂が、酒場でも市場でも飛び交う。
誰も大声では話さない。
けれど、人々の表情から笑顔は消えていた。
──戦争が始まる。
その予感だけが、王都全体を静かに包んでいた。
◇◇◇
「隣国との国境で軍が動いている。」
ガルドの一言で、団員たちの空気が変わった。
机の上には王国全土の地図が広げられている。
ドレイスが静かに口を開いた。
「偵察隊から報告です。」
細い指が地図の国境をなぞる。
「国境砦が二つ陥落。周辺の村もいくつか焼かれました。」
部屋の空気が重くなる。
「敵軍は略奪を繰り返しながら前進しています。」
さらに指先が王国側へ深く滑る。
「補給線も確保済み。退路も押さえています。」
その指が止まる。
「──本格的な侵攻です。」
誰も口を開かなかった。
ナージャも珍しく笑顔を見せない。
「王都じゃ武器が飛ぶように売れてるわ。食料も薬も品薄。」
低く呟く。
「避難民も増えてる。このままだと王都まで混乱するわね。」
もう誰の目にも明らかだった。
これは国境の小競り合いではない。
一つの国を巻き込む戦争だ。
◇◇◇
数日後。
《暁の牙》へ正式な依頼が届いた。
王国軍と共同で国境防衛へ参加してほしいと。
国王直々の依頼だった。
羊皮紙を読み終えたガルドは、小さく息を吐く。
「……来ちまったか。」
その一言に、団員たちも表情を引き締める。
「俺たちの仕事だ。」
静かな声だった。
「生きて帰るぞ。」
誰も軽口を叩かなかった。
歴戦の傭兵である彼らは知っている。
戦争とは、英雄譚ではない。
昨日まで笑っていた仲間が、今日には帰らないこともある世界だと。
私も荷物をまとめ、剣を腰へ差した。
そして、鞄の奥から一つの仮面を取り出す。
口元から目元までを覆う、飾り気のない黒い仮面。
レオンが不思議そうに首を傾げた。
「クリス、それ付けるのか?」
「ああ。」
「なんでだ?」
私は静かに仮面を見つめる。
「戦場には、多くの人間が集まる。」
王国軍。
各地の騎士団。
貴族。
王城に仕える者たち。
その中に、公爵家や王城で私の顔を見たことがある者が、一人もいないとは限らない。
今の私は、公爵家では死んだことになっている。
もし生きていると知られれば。
追われるのは私だけでは済まない。
《暁の牙》まで巻き込むことになる。
だから、いつか正体を隠さなければならない日が来ると思い、以前から用意していたものだった。
……本当の理由は、それだけではない。
(違う……。)
胸の奥に、別の不安があった。
私は、この世界の未来を知っている。
……そう思っていた。
前世で遊んだ乙女ゲーム。
その舞台となったルナエ王国。
ゲーム開始時、この国は確かに存在していた。
王都は栄え、貴族社会も続いていた。
そして、主人公が少女と呼ばれる年齢になる頃には、大きな戦争など起きていなかった。
少なくとも。
私の知る物語では。
(なら……。)
今回の戦争で国が滅びることはないはずだ。
そう思いたかった。
目の前で起きていることは、私の記憶には存在しない出来事。
国境砦の陥落。
焼かれる村。
避難してくる民。
こんな展開、ゲームにはなかった。
(どうして……。)
私は知らない。
この先に何が待っているのか。
何が原因で、物語が変わったのか。
私が知っていた未来は、もう意味を失い始めているのかもしれない。
それでも。
(王国は滅びない。)
そう信じるしかなかった。
だって――
あの子が生きる未来を、私は知っているから。
私は仮面を顔へ当てる。
視界は少し狭くなる。
だが、それ以上に心が静まっていく。
今の私は、公爵家の子でも、王女でもない。
一人の傭兵だ。
「念のためだ。」
短く答える。
レオンはしばらく眺めていたが、不意に笑った。
「……似合わねぇな。」
「そうか?」
「いや。」
レオンは肩をすくめる。
「なんていうか……傭兵らしく見える。」
「褒め言葉として受け取っておく。」
その一言に、張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
ガルドも静かに頷いた。
「それがお前の戦いやすいやり方なら、それでいい。」
「ありがとうございます。」
こうして、戦場では、私は素顔を捨てることになった。
◇◇◇
国境へ到着した瞬間、鼻を突く焦げ臭さが風に乗って流れてきた。
遠くには黒煙が空を覆い、時折、焼け落ちた家屋の柱が崩れる音が風に運ばれてくる。
風が吹くたび、灰が雪のように舞っていた。
戦場は、もうすぐそこだった。
王国軍の陣地では、多くの兵士たちが慌ただしく行き交っている。
武器を運ぶ者。
負傷兵の手当てをする者。
伝令として駆け回る者。
だが、その視線が私たちへ向いた途端、空気が変わった。
「傭兵だと?」
一人の騎士が眉をひそめる。
「金でしか動かん連中が。」
別の騎士も鼻で笑う。
「王国の戦にまでしゃしゃり出てきたか。」
「足だけは引っ張るなよ。」
露骨な敵意だった。
傭兵は信用できない。
その思い込みが言葉の端々から滲んでいる。
私は仮面の奥から、静かに彼らを見つめた。
鎧は眩いほどに磨き上げられ。
腰の剣にも曇り一つない。
だが、その目には、実戦を幾度も潜り抜けた者だけが宿す、あの静かな覚悟が見えなかった。
平和な時代が長すぎたのだ。
訓練は積んでいる。
腕も決して悪くはない。
それでも、本当の戦場は訓練場とは違う。
(……まだ知らない。)
(人が目の前で命を落とす光景も。)
(自分が死ぬかもしれない恐怖も。)
ガルドは何も言い返さない。
ただ騎士たちを一瞥し、静かに笑った。
「戦場で証明すりゃいい。」
その一言だけだった。
団員たちも誰一人反論しない。
口で誇る必要はない。
生き残った者だけが、本物だ。
その時だった。
──ゴォォォン。
重く低い鐘が何度も鳴り響く。
兵士たちの顔色が変わる。
「敵襲ッ!!」
城壁の上から叫び声が降ってきた。
次の瞬間。
地面が震えた。
遠くから、無数の足音が波のように迫ってくる。
黒煙の向こうで槍の穂先が一斉に陽光を反射した。
地平線を埋め尽くすほどの軍旗が、ゆっくりと姿を現す。
誰も、その数を数えようとはしなかった。
兵士のひとりが、小さく息を呑む。
私は剣の柄を握る。
手は震えていなかった。
それでも心臓だけは嫌になるほど早く鼓動を刻む。
(戦争だ。)
(訓練ではない。)
(本当に人が死ぬ。)
私は静かに剣を抜いた。
レオンも隣で剣を構える。
もう後戻りはできない。
──戦争が、始まった。




