第二話 生き延びる理由
ミル公爵家へ引き取られてから。
私は、初めて自分の名前をもらった。
「クリスティーナ」
そう教えてくれたのは、公爵夫人だった。
柔らかな笑みを浮かべながら、私の小さな手を握っている。
「王家では名前を付けてもらえなかったのでしょう?」
私は赤ん坊だった。
当然、言葉を返すことなどできない。
それでも、公爵夫人は私に語りかけ続けた。
「本当は女の子なのですもの」
籠の中の私を見て、優しく微笑む。
「せめて、名前だけは女の子として残してあげたいの」
そして、悲しそうに笑う。
「普段はクリスと呼ぶことになるけれど……許しておくれ」
その言葉が、妙に心へ残った。
私はこの人のことを、まだ何も知らない。
王妃でもない。
王でもない。
私を産んだ両親でもない。
それでも。
初めて、自分自身へ向けられた優しさだった。
(……ありがとう、公爵夫人)
(私を思ってつけてくれた名前。大切にするね。)
こうして私は、クリスティーナという名前を胸に残したまま、男として育てられることになった。
公爵夫妻は、私が王家の血を引く子供であることを知っていた。
そして、女である私を、男として育てなければならないことも。
それでも、公爵は何も言わなかった。
自分の子供が生まれるまで。
私を公爵家の後継ぎとして扱う。
それが、王との約束だったからだ。
◇◇◇
それから三年。
私が三歳になった頃。
公爵家に、待望の実子が生まれた。
男の子だった。
――私の弟。
その知らせを聞いた時。
屋敷中が喜びに包まれた。
「若様がお生まれになった!」
「おめでとうございます!」
「これで公爵家も安泰ですな!」
使用人たちは口々に祝福する。
当然だった。
公爵家にとって。
この子こそ、本当の意味での後継者なのだから。
私も弟の顔を見せてもらった。
小さな手。
赤ん坊らしい丸い頬。
眠ったまま、小さく息をしている。
(……可愛い)
それが最初に思ったことだった。
弟に罪はない。
私がここにいることも。
弟が生まれたことも。
どちらも、この子自身が決めたことではない。
だから、私は弟を恨まなかった。
けれどその時、公爵夫人が冷たい目で私を見ていたことに気付かなかった。
その日を境に。
屋敷の空気は少しずつ変わっていった。
使用人たちは、弟を「若様」と呼ぶようになった。
私には、以前よりも距離を置くようになった。
廊下ですれ違えば、深く頭を下げる。
でもその目には、以前とは違うものが浮かんでいた。
遠慮。
警戒。
そして――恐れ。
公爵夫人も変わった。
以前のように私へ笑いかけることが減った。
当然だと思う。
自分の子供が生まれたのだ。
本当なら、その子を後継者にしたい。
だが私を殺すことはできない。
私は王家の血を引いている、王の娘だ。
だから公爵は、何も言わなかった。
見て見ぬふりをすることで、私と自分の息子。
その両方を守ろうとしていた。
――そして。
私は少しずつ、屋敷の中で孤立していった。
◇◇◇
最初に気付いたのは食事だった。
公爵夫妻と弟の食器は、銀製。
私だけは、陶器だった。
(……あれ?)
最初は気にしなかった。
でも毎回私だけ、陶器の食器だった。
銀食器ではない。
前世の知識を思い出す。
銀は毒の種類によって反応することがある。
完全ではない。
それでも、毒殺を警戒するなら、銀食器を使うのは珍しいことではない。
(……私だけ、毒を警戒されてる?)
いや。
違う。
むしろ。
(私だけ、毒を盛られる前提なのか。)
そう考えた方が自然だった。
その予想は、すぐに現実になった。
ある夜。
食事を終えて部屋へ戻った私は、急に身体が熱くなった。
「……苦しい」
喉が焼ける。
身体が重い。
視界が霞む。
床へ倒れ込んだ。
(また、死ぬのかな……。)
翌朝。
私は何事もなかったように目を覚ました。
枕元には、小さな瓶が置かれていた。
中身は、王宮から密かに届けられた解毒薬だった。
(……これ)
私は瓶を見つめる。
その時、初めて理解した。
王家は、私を見捨てたわけではない。
正確には。
私自身を大切にしているわけではない。
王家の血を残すための「保険」として。
必要だから生かしている。
ただ、それだけ。
それから、同じことが何度も起きた。
食事。
飲み物。
時には薬。
どこから毒が入っているのか分からない。
そのたびに私は倒れ。
そのたびに解毒薬が届けられた。
そして、少しずつ。
毒に身体が慣れていった。
(……最近、前ほど苦しくない?)
嬉しくも何ともない。
そんなものに適応したところで。
生きるために必要なだけだ。
◇◇◇
弟が生まれた頃。
私の生活はさらに忙しくなった。
武術の教師が屋敷へやってきた。
「立て」
最初に言われた言葉が、それだった。
「はい」
私は木剣を握る。
でも身体はまだ五歳。
大人のように動けるわけがない。
「構えろ」
大人用の大きな重い木刀。
当然子供には大きく、持つ手は震えてくる。
「遅い」
次の瞬間、木剣が肩へ当たった。
「痛っ!」
「痛いなら覚えろ」
「……はい」
倒れる。
立つ。
また倒れる。
それでも。
私は逃げなかった。
(強くならないと…。)
私は生きたかった。
強くなれば、少なくとも、自分の命くらいは守れるかもしれない。
そう思い、強さを求めた。
そして武術の授業が始まったとほぼ同時に、家庭教師も付いた。
歴史。
政治。
礼儀作法。
地理。
王族や貴族の関係。
そして、帝王学。
男として公爵家を継ぐため、王族の万が一のためのスペアとしての教育だった。
そんな授業の中で、私はようやく、この国の名前を知る。
「ここが、ルナエ王国です」
教師が地図を指差した。
「王都を中心に、東西南北へ領地が広がっています」
「……ルナエ王国」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥がざわついた。
(……待って)
(ルナエ?)
記憶を探る。
前世で何百時間も遊んだゲーム。
『ナエラ王国物語~戦場に舞う乙女~』
ゲームの舞台となる王国。
そこから始まる物語。
けれど。
私の知っているゲームでは。
この国は。
主人公が物語を始める頃には、すでに滅んでいる。
(……嘘)
私は地図を見つめた。
(この国……、最後には滅びるんだ)
もちろん、ゲームでは詳しい経緯までは描かれていなかった。
ただ。
「かつて存在した王国」
それだけだった。
だからこそ、私は思った。
(私が生まれた世界は、本当にゲームそのものなの?)
でも、目の前には確かに人がいる。
使用人がいる。
弟がいる。
街には人々が暮らしている。
ゲームの背景ではない。
ゲームと同じような世界なのに、ここには、生きている人間がいる。
そのことが。
少し怖かった。
◇◇◇
そして、5歳になる頃。
王家に新しい王女が生まれた。
国中が祝福に包まれた。
私は、公爵家嫡男として祝いの席へ連れて行かれた。
そこで、久しぶりに王を見た。
(……老けたな。)
私の父親。
でも国王は、私を見ても、何の反応も示さなかった。
視線すら、ほとんど向けない。
一方、新しく生まれた王女を見た時だけ。
「……可愛いな」
そう呟いた。
王妃も、嬉しそうに笑っている。
周囲の者たちも。
「おめでとうございます!」
「王女殿下のご誕生、誠に喜ばしいことでございます!」
口々に祝福する。
私は、その光景を黙って見ていた。
(……そうなんだ)
私が生まれた時とは、何もかも違う。
あの時。
王は私を見て。
「女か」と言っただけだった。
名前すら与えなかった。
でも、この子は違う。
正式な王女として、国中から祝福されている。
私は、その事実を見つめながら、胸の奥で、一つのことに気付いた。
(……私は、もう必要ない)
今まで届いていた解毒薬。
それも、いつまで届くか分からない。
正式な王女が生まれたのなら。
王家が私を「保険」として残しておく理由は、もうない。
次に毒を盛られたら、今度こそ死かもしれない。
その瞬間、胸の奥に初めて強い感情が生まれた。
(……嫌だ)
王女として生きたいわけじゃない。
公爵家を奪いたいわけでもない。
誰かに愛されたいわけでもない。
ただ、生きたい。
それだけだった。
私はまだ五歳。
何も知らない。
何もできない。
だからこそ。
今までのように。
誰かに命を握られたままではいられない。
(……解毒薬を、自分で手に入れよう)
初めて自分自身で決めた。
王家にも公爵家にも頼らない。
自分の命は、自分で守る。
それが、私が生まれて初めて、自分の意思で選んだことだった。




