第十七話 秘密
《暁の牙》での暮らしが始まって数日、私は少し困った問題に直面していた。
(……お風呂がない。)
もちろん想像はしていた。
平民の暮らしに湯船などないことくらい。
前世の知識もあるし、公爵家の外を見れば大体の文化レベルは分かる。
だから驚きはしなかった。
問題は別にある。
(行水……できない。)
団員たちは井戸の水を頭から浴び、笑いながら体を洗っている。
男ばかりだから、それで済む。
だが私は違う。
女だ。
男として生きると決めたとはいえ、人前で服を脱ぐわけにはいかない。
◇◇◇
その日の夜。
皆が眠り始めた頃を見計らい、私はこっそり井戸へ向かった。
桶に水を汲み、誰にも見つからないよう自室へ運ぶ。
音を立てないよう慎重に扉を閉める。
(これなら大丈夫。)
服を脱ぎ、布を濡らして体を拭いていく。
冷たい。
それでも、久しぶりに身体を綺麗にしていくのは、心地が良かった。
(やっぱり元日本人として、清潔感は欠かせない…。)
人心地付き息を吐いたその時だった。
コンコン。
不意に扉が叩かれる。
「クリス?」
ナージャの声だった。
(っ、まずい!)
慌てて服を掴み、頭から被る。
腕が上手く袖から出せずに、悪戦苦闘している最中。
「もう寝てる?」
返事がないことを不審に思ったのか、扉の向こうで足音が止まり、
「……クリス?」
ゆっくりと扉が開いた。
「――え。」
目が合う。
私と。
ナージャの。
数秒の沈黙。
私は慌てて毛布を引き寄せた。
「……見た?」
「え、えっと……。」
ナージャは固まったまま何度も瞬きを繰り返す。
「ご、ごめんなさい!」
勢いよく扉を閉める音が響いた。
◇◇◇
翌朝。
食堂へ降りると、ナージャがどこか落ち着かない様子でこちらを見ていた。
「クリス。」
「……何。」
「ちょっと来て。」
腕を引っ張られ、団員たちに聞こえない場所まで連れていかれる。
「昨日のことだけど……。」
視線をあちこちに泳がせながら、ナージャはなんと言葉を出すか迷っているようだった。
しばらくして、意を決したように息を吸う。
「あなた……、女の子、よね?」
(やっぱり見られてた……。)
私は少しだけ目を閉じた。
きっと否定すれば、ナージャはそれを受け入れるだろう。
勘違いだと言えば、誤魔化されてもくれると思う。
でも、この人たちには嘘をつきたくなかった。
「……そうだ。」
ナージャは驚いた顔のまま固まる。
「やっぱり……。」
「誰にも言わないでほしい。」
「もちろん!」
食い気味に答える。
「絶対言わない!」
その言葉に、少しだけ安心した。
「ありがとう。」
そう、笑って言えた。
◇◇◇
それから数日。
ナージャは約束を守った。
絶対に誰にも何も話していないことが伝わる。
伝わるくらいに、あまりに意識しすぎていた。
「クリス、重い物は私が持つわ!」
「……いや、これくらい。」
「夜は冷えるから、この毛布使って!」
「私は寒くないが。」
「え、えっと……そう!」
以前なら男の子相手にそんな気遣いはしなかった。
団員たちは首を傾げ始める。
◇◇◇
「ナージャ。」
ガルドが呼び止める。
「最近クリスに甘すぎねぇか?」
「そ、そんなことないわよ!」
「いや、ある。」
ドレイスが即答した。
「明らかに対応が変わっています。」
「えっ!?」
ナージャは慌てる。
「そ、そんなつもりじゃ……。」
ガルドは腕を組んだまま考え込む。
「……なぁ。」
「クリス。」
「もしかして、女か?」
その一言で、部屋の空気が止まった。
ナージャは思わず目を見開く。
「ど、どうして……。」
「図星か。」
ガルドは苦笑した。
「お前、嘘つくの下手なんだよ。」
ナージャは肩を落とす。
「……ごめんなさい。」
「約束したから言えなかったの。」
「クリスに、誰にも言わないでって。」
「だから何も話してません。」
ドレイスが静かに頷く。
「なるほど。」
「話したのではなく、態度で答えてしまったわけですね。」
「うぅ……。」
ナージャは顔を真っ赤にする。
ガルドは苦笑しながら立ち上がった。
「まぁ、本人に聞くか。」
◇◇◇
その夜。
ガルドに呼ばれた私は、部屋へ向かった。
中にはガルド、ドレイス、ナージャがいる。
ナージャは申し訳なさそうに俯いていた。
「……ごめんなさい。」
小さく頭を下げる。
「誰にも言ってないの。」
「でも……私、態度に出ちゃって。」
私は首を横に振る。
「責めるつもりはない。」
「ありがとう……。」
ガルドが椅子へ腰掛ける。
「さて。」
「答え合わせだ。」
「クリス、お前……女だろ?」
もう隠せない。
私は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……そうだ。」
部屋に沈黙が落ちる。
「生家に、私が生きていることが知られれば困ったことになる……」
私は既に死んだ身だが、この血筋はそうもいかない。
「だから私は、これからも男として生きる。」
ガルドは少しの間黙っていたが、やがて大きく頷いた。
「分かった。」
「理由は聞かねぇよ、お前が話したくなった時でいい。」
ドレイスも静かに口を開く。
「秘密は守ります。」
「あなたは、私たちの仲間ですから。」
ナージャも力強く頷いた。
「今度こそ、本当に誰にも言わない。」
その言葉に、私は自然と笑みを浮かべた。
「ありがとう。」
秘密を知る者は三人になった。
けれど、不思議と心は軽かった。誰かを信じるということが、こんなにも温かいものだと、私は初めて知った。
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