第十六話 新しい居場所
夜明け前。
昨日の騒ぎが嘘のように、酒場は静まり返っていた。
床には空になった酒瓶。
机の上には、食べかけの料理。
椅子を枕代わりにして眠っている者までいる。
クリスの歓迎会だと言って始まった宴は、いつの間にかただの大宴会になっていた。
「もっと食え!」
「小さい身体なんだから、遠慮するな!」
「こいつ、見た目より食うぞ!」
みんなには、たくさんの声をかけられた。
沢山食べなと食事を勧められ、笑いながら話しかけられ、くだらない話を楽しむ。
全部、ここでしか得られない経験だった。
これからは、毎日こんな風に食事を楽しむことができる。
ひとりの人間として接してもらえる。
そして、1人の子供として心配してもらえる。
なんだかそれが、こそばゆいような、楽しみのような、ちょっと複雑な気持ちだった。
まだ外は薄暗く、誰も起きていない。
大の男たちが、あちこちで豪快に眠っている。
「……ふふ。」
思わず笑みがこぼれる。
床には人や物が無造作に積み重なってるし、酒瓶はあちこちに転がっていて、食べかけのものは机にそのままになっている。
決して綺麗な光景ではないのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、ここにいる人たちが、昨日一日でどれだけ私を受け入れてくれたのか、その証のように思えた。
私は音を立てないように立ち上がる。
少しだけ外の空気を吸いたかった。
扉を開ける。
ひんやりとした空気が頬を撫でた。
空はまだ夜の色を残している。
けれど東の空は、ほんの少しだけ白み始めていた。
頭上には、夜明けが近づくにつれて薄れていく星々。
その中で、一際強く輝く星が目に入る。
「……綺麗。」
自然と言葉が漏れた。
前世でも、何度も夜明けを見た。
徹夜をした朝。
早朝に出かけた日。
学校へ向かう途中。
朝日そのものは、何度だって見ている。
けれど、こんな気持ちで夜明けを待ったことはなかった。
昨日までの私は、明日が来ることを、ただ恐れていた。
目を覚ませば訓練。
食事をすれば毒。
夜になれば暗殺者を警戒する。
明日を迎えることは、生き残るための戦いの続きだった。
それが今は、明日になれば、またここへ来られる。
レオンと木剣を振れる。
ナージャの焼き菓子を食べられる。
ガルドに訓練をしてもらえる。
ドレイスに難しい質問をされるかもしれない。
そんなことを考えている自分が、少しおかしかった。
「夜明けの空なんて、久しぶりに見たな。」
背後から声がした。
振り返るとそこには、ガルドが立っていた。
「団長。」
「起こしちまったか?」
「いえ。私が勝手に起きただけです。」
「そうか。」
ガルドは隣まで歩いてくる。
そして、何も言わずに空を見上げた。
私も同じように空を見る。
しばらく、二人とも黙っていた。
不思議と気まずくない。
「昨日は騒ぎすぎたな。」
ガルドが苦笑した。
「歓迎会って言っても、あそこまでやるつもりじゃなかったんだが。」
「……楽しかった。」
「そうか?」
「ああ。」
私が頷くと、ガルドは少しだけ目を細めた。
「なら、よかった。」
それだけだった。
でも、その言葉が妙に嬉しかった。
「みんな、お前が来たのが嬉しかったんだろうよ。」
「……私が?」
「そうだ。」
ガルドは当然のように答えた。
「仲間が増えるってのは、そういうもんだ。」
仲間。
昨日から何度も聞いている言葉。
それなのに、まだ少しだけ慣れない。
私は王女として生まれ、公爵家の嫡男として扱われた。
どちらの場所でも、私は誰かと同じ立場に立ったことがなかった。
王家では、存在そのものを隠された。
公爵家では、跡継ぎという役割だけを求められた。
だから、仲間という言葉は、私にとって初めてだった。
「そうだ。」
ガルドが立ち上がる。
「昨日はそのまま寝ちまったからな。」
「まだお前に見せてねぇ場所がある。」
「場所?」
「ああ。」
ガルドは建物の中へ戻っていく。
「来い。」
◇◇◇
二階へ上がる。
古い木の階段が、歩くたびに小さく軋んだ。
廊下を進み、突き当たりの扉の前でガルドが立ち止まる。
「ここだ。」
扉が開く。
中には、小さな部屋があった。
窓が一つ。
木製の机と椅子。
壁際には小さな棚。
そして、簡素な寝台が一つ。
それだけだった。
「……ここは?」
「お前の部屋だ。」
「私の?」
「ああ。」
私は部屋の中へ入る。
足音が小さく響いた。
「元々は物置だったんだがな。」
ガルドが頭を掻く。
「昨日のうちに片付けさせた。」
「急だったから、たいしたものはねぇけどな。」
私は首を横に振る。
「十分だ。」
本心だった。
公爵邸の私室は、ここよりずっと広かった。
高価な家具もあった。
立派な寝台もあった。
でも私はあの部屋で、一度も安心して眠ったことがない。
夜になれば、扉の向こうを警戒した。
窓の外を確認した。
枕元に武器を置いた。
食事をすれば毒を疑った。
広い部屋でも、立派な屋敷でも。
そこに安心できる場所がなければ、家とは呼べない。
目の前の部屋には、高価なものは何もない。
だけど、ここに私のために用意された寝台がある。
私のための机がある。
そして、誰かに追い出されることを心配しなくていい。
「今日からここがお前の部屋だ。」
ガルドが言った。
「好きに使え。」
「……ありがとうございます。」
自然と頭が下がった。
ガルドは少し照れたように笑う。
「そんなに畏まるな。」
「仲間の部屋を用意しただけだ。」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
◇◇◇
私の荷物を運ぶ。
とはいっても、大した量ではない。
替えの服が数着。
短剣。
そして、いくつかの小物。
十年間生きてきた人間の荷物とは思えないほど少なかった。
その事実に、少しだけ寂しさを覚える。
でもそれ以上に、これから増えていくもののことを考えた。
武器。
訓練着。
読みかけの本。
もしかしたら、誰かから貰ったもの。
そんなものが少しずつ、この部屋に増えていくのかもしれない。
そう思うと、なぜか嬉しかった。
「クリス!」
突然、扉が勢いよく開いた。
「レオン。」
黒髪の少年が顔を出す。
「ここ、クリスの部屋?」
「ああ。」
「俺の隣なんだぞ!」
「そうなのか。」
「うん!」
レオンは嬉しそうに頷く。
「何かあったら呼べよ。」
「まだ何も起きてない。」
「何か起きるかもしれないだろ!」
真剣な顔で言うものだから、思わず笑ってしまう。
「分かった。」
「約束だからな!」
「ああ。約束だ。」
満足したらしい。
レオンはにっと笑う。
「じゃあ、また後で!」
そう言って走り去っていった。
私はその背中を見送る。
昨日までなら、こんなふうに誰かが自分の部屋へ来ることなど、考えもしなかった。
自分の部屋は、自分だけの場所だった。
誰かが勝手に入れば、不快になる。
でも今は、誰かが訪ねてくることが、少し嬉しい。
そんなふうに思えたことが、新鮮だった。
◇◇◇
昼頃になると、酒場にも少しずつ活気が戻ってきた。
昨夜の宴の片付けをする者。
武器の手入れをする者。
装備を確認する者。
それぞれが自分の仕事へ戻っていく。
「クリス。」
ガルドに呼ばれて振り返る。
「今日から、ここで暮らすんだ。」
「ああ。」
「だから遠慮するな。」
ガルドは大きな手を私の頭へ置いた。
「腹が減ったら飯を食え。」
「眠けりゃ寝ろ。」
「困ったら誰かに言え。」
「一人で何とかしようとするな。」
私は黙ってガルドを見る。
「……仲間なんだからな。」
最後の言葉だけが、胸に深く残った。
私は今まで、何でも一人でやらなければならなかった。
毒に気付くのも、暗殺者から身を守るのも、剣を覚えるのも、生き残るのも。
頼れる人など居なかった。
だから今までは、頼るということを知らなかった。
でもここでは違うのかもしれない。
困った時に助けを求めてもいい。
失敗したら誰かに相談してもいい。
疲れたら休んでもいい。
そういう生き方があるのだと。
少しずつ教えられている気がした。
「……ああ。」
ようやく、それだけ答える。
「分かった。」
ガルドは満足そうに笑った。
「よし。」
それだけ言って、また仕事へ戻っていく。
私は一人、部屋に残った。
窓から差し込む昼の光。
机。
椅子。
寝台。
何もかもが簡素で、最低限の物しかない。
それでも。
私はゆっくりと部屋を見回した。
(ここが……私の部屋。)
そう思っても、不思議と違和感がなかった。
王女として与えられた部屋ではない。
公爵家の嫡男として与えられた部屋でもない。
誰かの都合で用意された場所でもない。
クリスのための部屋。
そして、自分が帰ってきてもいい場所。
私は寝台の端へ腰を下ろした。
柔らかな寝具へ手を触れる。
これから、ここで眠る。
朝になれば起きる。
食事をして。
訓練をして。
仲間と過ごす。
そんな当たり前の日々が始まる。
生まれてから今まで、生きることばかり考えていた。
どうすれば明日まで生き残れるのか。
どうすれば毒に耐えられるのか。
どうすれば暗殺者から逃げられるのか。
でも、これからは違う。
明日を恐れるのではなく。
明日を楽しみにしてもいい。
そのことを、私はまだ上手く理解できていなかった。
それでも、胸の奥には、確かなものがあった。
――また明日、みんなに会いたい。
それだけで十分だった。
窓の外から、団員たちの笑い声が聞こえてくる。
私は静かに目を閉じた。
そして、初めて自分から、この場所を「家」と呼んでみる。
(……ここが、私の家。)
その言葉は。
驚くほど自然に、胸へ馴染んだ。
王女でもない。
公爵家の嫡男でもない。
誰かに必要とされるために生きる存在でもない。
ただのクリスとして。
初めて、自分で選んだ居場所だった。
この日から、私の新しい人生が、静かに始まった。




