第十四話 決意
暁の牙を出て、公爵邸へ戻った瞬間から、いつもとは違う空気を感じていた。
屋敷全体が、妙な雰囲気に包まれている。
廊下ですれ違う使用人たちは、私の姿を見つけると、いつもの無感情な表情ではなく、気まずげに視線を逸らした。
いつもなら聞こえてくる小さな噂話さえ、今日は聞こえない。
(……何かあった。)
何があったのかは分からないが、わざわざ誰かに尋ねる気にはなれなかった。
この屋敷の誰に聞いたところで、きっと答えてはくれないだろう。
ひとまず自分の部屋に行き着替える。
そして、夕食の席に向かった。
◇◇◇
長い食卓を囲むのは、公爵夫妻と弟、そして私。
いつもと変わらない顔ぶれだ。
けれど、私の前に置かれたスープを見た瞬間、顔が強ばる。
(……おかしい。)
湯気と一緒に、明らかにいつもの比では無い刺激臭が漂っていた。
(この量は……私でもどうなるか分からないな。)
でも私は、これまで何度も同じ経験をしてきた。
今度もきっと、大丈夫だと信じて、匙を手に取り、ゆっくりとスープを掬う。
色には変化がなく、見た目も正常だ。
だが間違いなく、毒が入っている。
「どうした、クリス。」
公爵がこちらを見る。
「食べないのか。」
「……いただきます。」
私はスープを口へ運んだ。
舌に苦味が広がり、喉の奥が熱くなる。
胃へ落ちた瞬間、身体の内側が、じわりと焼けるように痛み始めた。
(……ちょっとまずいかもしれない。)
でも私は顔を上げなかった。
何事もなかったように、もう一口飲む。
これは、私のささやかな矜持だった。
絶対に、苦しい顔はしない。
効いていると思われたくはない。
(慣れているとはいえ、キツイな……。)
何度も繰り返されれば、人間は慣れてしまう。
毒を盛られることに慣れてしまった自分が、少しだけ怖かった。
向かいでは、公爵夫妻が何事もなかったように食事を続けている。
弟だけが、時折こちらを見ていた。
「食事に集中しなさい。」
だが母親に言われると、すぐに視線を落とした。
私は何も言わず、ただスープを飲み干す。
(……これ以上、ここにいるのは危ない。)
その考えが、はっきりと浮かんだ。
昨日までは、生き延びることだけを考えていた。
薬を手に入れ、毒に耐え、訓練をする。
そして、明日を迎える。
それだけだった。
でも今日、私は初めて知った。
別の場所にも、自分を受け入れてくれる人たちがいることを。
ガルド。
ドレイス。
ナージャ。
レオン。
そして、《暁の牙》の皆。
あの場所では、腹が減っていれば飯を出してくれた。
怪我をすれば心配してくれた。
剣を振れば、ちゃんと見ていてくれた。
帰る時には『また明日』と言ってくれた。
(……帰りたい。)
ふと、そんな言葉が胸に浮かんだ。
公爵邸ではなく、あの場所へ。
だけど今のままでは行けない。
この屋敷にいる限り、私はいつか殺される。
私は、死ななければならないのだ。
◇◇◇
食事を終え、自室へ戻り、扉を閉めた。
そして誰もついてきていないことを確認してから、机の引き出しを開ける。
そこには、小さな瓶が一本だけ残っていた。
薬師から買った解毒薬。
これが最後の一本だ。
「……これで最後か。」
瓶を見つめる。
栓を抜き、一気に飲み干す。
苦い。
思わず顔が歪む。
しばらくすると、身体の内側を焼いていた痛みが少しずつ和らいでいった。
完全には消えないが、動ける程度にはなる。
(……足りない。)
薬は必要だ。
だけど、薬だけではどうにもならない。
原因がなくならない限り、毒はこれからも続く。
今日のように、明日も、明後日も、その先も。
そしていつか、本当に身体が耐えられなくなる。
(だったら。)
私は窓の外を見る。
すでに日は落ちていた。
月明かりが、静かな庭を照らしている。
今までなら、夜になれば部屋の中で息を潜めていた。
襲撃を警戒して、眠っている間に殺されないように、常に警戒していた。
……でも今夜は違う。
私は立ち上がった。
小さな荷物をまとめる。
必要最低限の衣服。
少しの金。
そして短剣。
それだけ。
五歳の子どもが持てるものなんて、最初から多くはない。
荷物をまとめ終えると、私は部屋の扉へ向かった。
廊下を進み、門扉へと足を進ませたが、途中で立ち止まる。
(……まだ一つだけ。)
やらなければならないことがあった。
静かな廊下を歩く。
向かう先は決まっていた。
公爵の書斎。
◇◇◇
扉の前に立ち、私は小さく息を吸った。
そして。
コンコン。
三度、扉を叩く。
「……誰だ。」
中から低い声が返ってきた。
「クリスです。」
「入れ。」
私は扉を開けた。
酒の匂いがする。
公爵はいつものように椅子へ座り、グラスを傾けていた。
私を見る。
その顔色に、驚いた様子はない。
「こんな時間に何の用だ。」
「家を出ます。」
短く告げる。
公爵はしばらく私を見た。
「そうか。」
それだけだった。
やっぱり、止めない。
引き留めることもない。
「……止めないのですか。」
「止める理由がない。」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
分かっていた。
最初から分かっていたはずなのに。
それでも、ほんの少しだけ期待していた。
「行くな」と。
たった一言。
それだけでよかった。
私は必要とされていたと、感じたかった。
でも実際は、なんの言葉もない。
(……私は、この家に必要なかった。)
私は視線を落とす。
そして、腰に差していた短剣を抜いた。
長く伸びた灰がかった銀髪へ刃を当てる。
「何をしている。」
公爵が初めて怪訝そうな声を出した。
「髪を切ります。」
「なぜだ。」
「もう必要ないからです。」
短剣を引く。
ざくっ。
長い髪が切れる。
けれど、一度では切り落とせない。
私はもう一度、刃を入れた。
ざくっ。
また一束。
床へ落ちる。
何度も刃を入れて。
少しずつ。
少しずつ。
王女として残されていた最後の証を切り落としていく。
やがて、床には、灰がかった銀色の髪が散らばった。
私はそれを拾い集める。
両手で抱える。
そして、公爵の机へ置いた。
「これは?」
「私が死んだ証です。」
公爵の眉が僅かに動く。
「明日になったら。」
私は静かに続ける。
「私が死んだことにしてください。」
「……。」
「遺体が見つからなくても構いません。」
「毒で死んだことにしても。」
「何でもいいです。」
公爵は黙って髪を見つめていた。
やがて。
「好きにしろ。」
それだけだった。
「……承知しました。」
私は頭を下げる。
そして扉へ向かう。
その時。
「クリス。」
背後から声がした。
私は足を止めたが、振り返らなかった。
「王位など。」
公爵の声が、静かに響く。
「……くだらんものだ。」
その言葉が、誰に向けられたものなのか、私には分からなかった。
兄である国王へ向けたものなのか、自分自身へ向けたものなのか。
それとも、ただ酒に酔って零れた言葉なのか。
何も聞かなかった。
「失礼します。」
扉を閉め、静かな廊下へ出る。
私は一度だけ公爵の書斎を振り返るが、すぐに前を向く。
これでいい。
公爵家嫡男クリスは、今夜死ぬ。
明日からの私はもう、この家の人間ではない。
王女でもないし、公爵家の子でもない。
誰かに生かされるために、息をしているだけの存在でもない。
自分で生きる、自分で食べ、自分で剣を握る。
そして、自分で居場所を選ぶ。
どこへ行くかは、もう決まっていた。
(……暁の牙へ帰ろう。)
そう思った瞬間、胸の奥に、ほんの少しだけ明かりが灯った。
今夜、私は公爵家を出る。
そして、初めて。
自分の意思で、生きる道を選ぶ。




