第十二話 仲間
それからの日々は、驚くほど早く過ぎていった。
朝、まだ空が白み始めた頃に起こされ、武芸の訓練が始まる。
木剣を握り、何度も打ち込まれ、転び、立ち上がる。
何度繰り返しても、ただただ打ち込まれ、転び続けた。
訓練が終われば、今度は机に向かう。
歴史。
帝王学。
礼儀作法。
政治。
五歳児に必要な教育なのかと思うほど、容赦はない。
でも以前なら苦痛でしかなかったそれらの時間にも、少しだけ耐えられるようになっていた。
午後になれば、私は屋敷を抜け出す。
向かう先は決まっていた。
――《暁の牙》。
最初の頃は、門番や使用人が何度か私を呼び止めた。
「クリス様、どちらへ?」
「街へ。」
「旦那様に許可は?」
「ない。」
「……。」
そんなやり取りも、数日もすればなくなった。
公爵夫妻が私の行動に関心を持つことはない。
私がどこへ行こうと、誰と会おうと、何をしていようと、特に問題が起きなければ、それでいい。
彼らにとって私は、彼らの目の届かないところで死んでさえいなければ、何も問題はなかった。
私にとって、その無関心は都合がいい。
こうして私は、誰にも邪魔されることなく、屋敷を抜け出せるようになった。
そして、街へ出るたび、足取りは自然と速くなっていった。
◇◇◇
「クリス!」
《暁の牙》の扉を開ける。
すると、決まって最初に飛び込んでくる声がある。
「今日も来た!」
レオンだ。
手には木剣を持ち、私の姿を見つけるなり、一直線に駆けてくる。
「勝負!」
「……今日もか。」
「今日も!」
即答だった。
いつの間にか、このやり取りも日課になっていた。
「ガルド!」
レオンが振り返る。
「今日もやっていい?」
「怪我させるなよ。」
「分かってる!」
「クリス、お前もな。」
「ああ。」
裏庭へ出る。
団員たちも訓練の手を止め、こちらを眺めていた。
「また始まるぞ。」
「レオン、今日は一本くらい取れよ。」
「頑張れ!」
「絶対勝つ!」
レオンが木剣を構える。
以前よりも姿勢が良くなっていた。
足の位置。
握り方。
視線。
ほんの数日でも、確実に変わっている。
「始め!」
ガルドの声が響く。
レオンが踏み込んだ。
昨日より速い。
木剣が斜めに振り下ろされる。
私は一歩だけ横へずれる。
木剣が肩の横を通り過ぎた。
そのままレオンの腕へ木剣を当てる。
「っ!」
レオンが体勢を崩す。
だが、倒れない。
すぐに足を踏み直し、二撃目。
今度は横薙ぎ。
私は木剣を立てて受け流す。
――カンッ!
乾いた音が響く。
レオンは止まらない。
下から切り上げる。
私は後ろへ跳んだ。
木剣の先端が鼻先を掠める。
「おっ!」
団員から声が上がった。
レオン自身も驚いたようだった。
その瞬間、私は懐へ入った。
木剣をレオンの手首へ当てる。
握りが緩む。
そこへもう一度。
――カンッ。
木剣が地面へ落ちた。
「一本。」
「うぅ……!」
レオンは悔しそうに唸る。
「もう一回!」
「いいぞ。」
木剣を拾う。
何度やっても、結果は変わらない。
けれど、レオンは決して途中で投げ出さなかった。
負ける。
悔しがる。
それでも立ち上がる。
そして、また向かってくる。
その姿を見ていると、自然と口元が緩んだ。
(……ちゃんと強くなってる。)
私も負けるつもりはない。
だからこそ、この時間が楽しかった。
◇◇◇
訓練が終わった後。
「クリス。」
珍しく、ドレイスが私を呼び止めた。
「少し時間をいただけますか。」
「何をする?」
「簡単な確認です。」
連れて行かれたのは、建物の二階にある小さな部屋だった。
机の上には王都の地図が広げられている。
「この道を見てください。」
ドレイスが地図の上を指差す。
「あなたが護衛を連れて移動するとします。どの道を選びますか。」
私は地図を見る。
大通り。
裏路地。
市場。
城壁。
いくつかの選択肢がある。
「こちら。」
一本の道を指す。
「理由は?」
「大通りでは人目が多すぎる。」
「裏路地なら人目を避けられるが、道幅が狭い。」
「だから、選ぶべきは、こちらの道です。」
指を少し動かす。
「大通りから一本外れていて、途中に広場がある。」
「襲われても逃げる場所があるから。」
「なるほど。」
ドレイスは頷く。
「では、敵がこちらの道を知っていたら?」
「なら別の道へ変更する。」
「変更先に敵がいる可能性は?」
「当然ある。」
「ではその場合は?」
「それなら、敵がどこへ誘導したいのか考える。」
ドレイスの手が止まった。
「……続けてください。」
「敵が私を殺したいなら、逃げ道を塞ぐ。」
「なら、逃げ道を一つ残しておく。」
「そこへ向かわせたい可能性がある。」
地図を見る。
「だから、逃げ道が一つだけ残されているなら、そこへは行かない。」
しばらく沈黙が続いた。
ドレイスは地図から顔を上げる。
「面白いですね。」
「そうか?」
「はい。」
感情の薄かった瞳に、ほんの少しだけ興味が浮かんでいる。
「あなたは敵を倒すことより、敵が何を考えているかを見る。」
「……それが普通じゃないのか?」
「戦場では、そう考えられる人間は多くありません。」
ドレイスは地図を片付ける。
「ガルドがあなたを気に入る理由が、少し分かりました。」
「ガルドが?」
「ええ。」
そして。
「ただし、剣の腕についてはまだ評価していません。」
「……。」
「五歳児としては十分ですが。」
「五歳児としては、か。」
「事実です。」
そう言って、ドレイスは何事もなかったように部屋を出ていった。
(……やっぱり、この人は苦手だ。)
でも、嫌な感じはしなかった。
認めてもらえたような、気がした。
◇◇◇
一階へ戻ると。
「クリス、おいで。」
ナージャが手招きしていた。
机の上には焼き菓子が並んでいる。
「今日はたくさん焼いたの。」
「食べていいのか?」
「もちろん。」
一つ手に取る。
口に入れた瞬間、甘さが広がった。
「……美味しい。」
「本当?」
「ああ。」
ナージャは嬉しそうに笑う。
「よかった。」
そして、私の皿へもう一つ乗せる。
「ほらもっと食べて。まだ食べられるでしょ。」
せっつかれるように言われる。
「もう、遠慮しないの。」
そう言われて、もう一つ手に取る。
公爵家でも食事は出る。
けれど、誰かに「もっと食べて」と言われた記憶は、ほとんどなかった。
「クリスは細いもの。」
ナージャが私の腕を見る。
「ちゃんと食べて、大きくならないとね。」
「……努力する。」
「ふふ。素直ね。」
その笑顔に、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
でも、心配して貰えたことが、妙に嬉しかった。
◇◇◇
夕方になると、もう帰らなくてはならない。
玄関まで行くと、レオンがついてきた。
「もう帰るの?」
「ああ。」
「明日も来る?」
「……来られたら来る。」
「約束しよう!」
レオンが小指を差し出した。
私はその指を見る。
「何だ?」
「約束するときは、こうするんだよ。」
レオンは当然のように言う。
小さな小指。
私は少しだけ笑った。
「知っている。」
前世でも、子どもの頃に何度もやった。
私は自分の小指を差し出す。
レオンの指に絡める。
「約束。」
「うん!」
レオンは満足そうに笑った。
「絶対だよ!」
「ああ。」
扉の外へ出る。
振り返る。
レオンがまだ手を振っている。
その隣にはナージャ。
少し離れたところにはドレイス。
そして。
「また明日な!」
ガルドが笑っている。
「……また明日。」
私は小さく手を振り返した。
屋敷へ戻る道を歩く。
同じ王都。
同じ道。
同じ空。
それなのに、行きと帰りでは見える景色が少し違う。
公爵邸へ戻れば、また訓練があり、授業がある。
でも、それは職務の一環だからであり、誰も私個人を待ってはいない。
でも、《暁の牙》は、私自身を見て、心配してくれている。
(明日も、行きたいな。)
そう思うだけで、足取りは少し軽かった。
いつからだろう。
私は毎日を耐えるためではなく。
明日を楽しみにして過ごすようになっていた。
そして、五歳のクリスにとって。
それは、生まれて初めてのことだった。




