結衣
結衣には、恋愛感情というものがよくわからなかった。
中学のとき、クラスの女の子たちが好きな男子の話で盛り上がっているのを、結衣はいつも少し離れたところから聞いていた。嫌いじゃなかった。でも参加できなかった。自分の中に、その話題に対応する引き出しが、最初からないみたいだった。
最初はそれが怖かった。
でも高校で、同じような子と出会って、名前があるとわかった。
アセクシャル、という言葉。
怖くなくなった。むしろ——すっきりした。
自分は欠けているんじゃない。ただ、違う形をしているだけだ。
その代わりと言うわけじゃないけれど——結衣には、人の気持ちがよく見えた。
恋愛感情がわからないから、余計なノイズがないのかもしれない。自分がドキドキしないぶん、他人のドキドキが、静かにはっきり見えた。
だから、全員のことは——ずっと前から、知っていた。
さくらのことは、六月の終わりに気づいた。
カフェで二人で話していたとき、さくらが涼太の名前を出した。その瞬間の、さくらの目。痛そうな、でも痛みの理由をわかっていない目。
結衣はそれを見て、ああ、と思った。
涼太のことが好きなのかもしれない、とさくらは思っている。でも本当は違う。涼太を失いたくない気持ちと、別の誰かへの気持ちが、さくらの中でまだ混ざっている。
別の誰か——結衣自身のことだと、そのときすでに、うっすら思っていた。
でも言わなかった。
さくらが自分で気づかないうちは、言う必要がない。
蓮のことは、花火の夜に確認した。
朔を見る目を、さくらと二人で見た。ああやっぱり、と思った。
蓮は明るくてよく笑うから、わかりにくい。でも笑い声のトーンが、涼太の前だけ少し違う。少しだけ、本気の音がする。
蓮は気づいていない。
たぶんしばらく気づかない。
朔のことは、最初から見えていた。
花火の夜より前から。
蓮の話をするときの朔の声が、他の話題のときと違う。無口な朔が、蓮の話だけは、ちゃんと言葉を持っている。
朔は人の気持ちに敏感なくせに、自分の気持ちだけ後回しにする。そういう人は結衣の周りに何人かいた。いつも他人を先に考えて、自分を最後にする。
朔は蓮が幸せならいい、と思っている。
でもそれは、朔が幸せじゃなくていい、ということじゃない。
結衣はそれが少し、心配だった。
涼太のことは——これが一番早かった。
初めて会ったとき、涼太が蓮を紹介した瞬間に、もうわかった。
声の温度が違った。
涼太はさくらを紹介するとき、「幼なじみ」と言った。朔を紹介するとき、「蓮の友達」と言った。
でも蓮を紹介するとき——涼太は何も言わなかった。
ただ「蓮」と言って、少し笑った。
説明がいらないくらい、大事な人には、説明をしないものだ。
結衣にはそれがわかった。
七月の終わり、結衣は一人でお茶を飲んでいた。
窓の外は夕暮れで、空が橙と紫に染まっていた。
スマホに、さくらからLINEが来た。
「ねえ結衣、今夜電話していい?」
結衣は少し考えた。
さくらが電話したいというときは、何か言いたいことが溜まっているときだ。
*「いいよ」*と打って、お茶を一口飲んだ。
さくらは気づいてきた。自分の気持ちの輪郭に。
結衣はそれがわかった。
嬉しいような、少しこそばゆいような——これは何の感情だろう、と結衣は思った。
恋愛じゃない。でも確かに、温かい。
さくらのことが、大切だ。
それはずっと知っていた。
でも今夜は、その大切さがいつもより、少しだけ鮮やかだった。
結衣は窓の外を見た。
空の橙が、少しずつ紺に変わっていく。
五人全員が、それぞれの答えに向かって、少しずつ動いている。
結衣にはそれが見えた。
自分だけが止まっているわけじゃない。
自分は自分の形で、ちゃんと動いている。
満ちているから。
それだけで、十分だった。




