魔国の夜
◆
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
昼間はあれほど人で溢れていた街も、夜になると少しばかり静かになるらしい。
もっとも、ここは市場からも離れた滞在先の一室だ。時折、遠くから何かの音が聞こえてくる程度で、部屋の中はひどく静かだった。
二人がいるのは、客室に備えられた書斎室だった。
リビングは広すぎて、どうにも落ち着かない。
立派な調度品に囲まれた空間よりも、少し狭いこの部屋の方が乃愛には居心地がよかった。
「今日、楽しかったねぇ」
ソファの背もたれに身体を預けた沙奈が、満足げに呟く。
「……うん。でも、思ったより、普通の街だったね」
乃愛はもう一つのソファに横になったまま答えた。
体力にはまだ余裕がある。足が疲れたわけでもない。
ただ、精神的な疲労が限界に達していた。
見たことのない街を歩き、大勢の人とすれ違い、店を覗いて、買い物をして、食べ歩いた。
どれも楽しかったはずなのに、短時間で目まぐるしいほどの刺激を受けたせいで、心のゆとりはもうほとんど残っていない。
今はこうして、静かな部屋で横になっているだけでほっとする。
ぼんやりと昼間のことを思い返しているうちに、ふと言葉が零れた。
「わたし、初めてだったかも……」
「何が?」
「あ、その……と、友達と、遊びに出かけたのが……」
何も考えず口走っていたことに気づいて、乃愛は慌てたように起き上がった。
自分で口にしてから急に恥ずかしくなり、沙奈と顔を合わせられなくなる。
「ふふっ、そうだったの? 遊びかぁ……」
沙奈は楽しそうに笑ってから、不意に首を傾げた。
「あれ。そういえば、私もそうかも?」
「……え?」
驚いて、思わず顔を上げる。
こんなに明るく、誰に対しても物怖じせず話す沙奈からは、とても想像がつかない。
聞き間違えたのかと思った。
乃愛の反応に沙奈はひとつ笑みを零して、なんでもないことのように話し始めた。
「えっとね。私、生まれつき心臓に病気があったの」
「……心臓?」
思いもしなかった言葉に、乃愛は目を瞬いた。
今の沙奈からは、まるで想像がつかない。
毎日のように歩き回り、戦うときには乃愛よりもずっと軽快に身体を動かしている。
「うん。小学生の頃からあんまり学校に通えなくてね。治療のために海外にも行ったり来たりしてたんだけど、高校へ上がる頃になって、ようやく完治したの」
沙奈はさらりと言った。
けれど、そのあとに続けようとした言葉だけは、少し間が空いた。
「……まあ、高校にほとんど通えてなかったのは、また別の問題があったからなんだけど」
そこには触れないつもりなのだろう。
乃愛も、無理に聞こうとは思わなかった。
「それも片付いてさ。やっとまともに学校へ通えるって思って登校した、その初日に——」
沙奈が天井を仰ぐ。
「ここへ飛ばされたってわけ」
沙奈は大きく伸びをして、今度はソファへごろりと横になる。
「皮肉だよねぇ……あんなに必死に治した身体だったのに、ここに来てから、それ以上に生まれ変わっちゃった」
「…………」
乃愛は言葉を継げなかった。
やっとまともに通える。
きっとそれは、これまで学校に行けなかった分、ずっと待ち望んでいたことだったのだろう。
友達を作ったり、一緒に遊んだり、そんな当たり前のことも楽しみにしていたのかもしれない。
それに比べて自分はどうだ。
なんとなく学校に行きづらくなって通わなくなり、心機一転、高校へ進学したものの、そこでも息苦しくて、いつまでも変わることができずに嫌々と通っていた。
あの日だってそうだ。
憂鬱で、何か事件でも起きれば学校に行かなくて済むのに――そんな罰当たりなことまで考えながら登校していた。
そして、本当に事件は起きた。
望んだ形とはまるで違うけれど、学校には行かずに済んでいる。
だからといって、ここに自分の居場所ができたわけでもない。
何も分からない世界で、流されるまま、沙奈にしがみついて回っているだけだ。
自分は何をしているのだろう。
そんな思考がまた頭をもたげてくる。
「ごめんね」
不意に明るい声がして、乃愛は顔を上げた。
沙奈がいつの間にか起き上がって、こちらを見ていた。
「暗い話にするつもりはなかったんだけど。要はね、私もあんまり友達って呼べる子がこれまでいなかったから、今日みたいなお出かけって私も初めてだなって思って」
沙奈はにっと笑う。
「だから、一緒だねって言いたかったの」
「……うん」
それだけの言葉なのに、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「わたしは学校とか、人が……苦手で。その、ずっと友達もいなくて」
途中で何度も言葉が詰まる。
それでも、乃愛は逃げずに続けた。
「今日は、本当に楽しかった」
笑みと共に、心からの言葉が自然と溢れた。
今度は俯かなかった。
沙奈は一瞬だけ目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
「そっか」
それだけ返して、再びソファへ沈み込む。
乃愛もまた身体を横たえた。
しばらくの間、静かな時間が流れた。
こうして何も話さずにいても気まずくならない相手がいることを、乃愛はまだ少し不思議に思う。
「そういえば、夕食は本当によかったの? 買ってきたものを夜食にする?」
「も、もう充分だよ」
夕食は外ではなく、用意されたものを部屋で食べることになっていたが、乃愛の分だけは断っていた。
市場で見かけた屋台の誘惑に逆らえず、昼食を兼ねるつもりが、つい食べすぎてしまったからだ。
昼間に散々一緒になってあれこれ摘んだはずなのだが、沙奈は夕食もしっかりと食べていた。
お互い身体は変わっても、食欲だけは別らしい。
乃愛はいまだに膨れた腹を撫でながら、テーブルの上へ視線を向ける。
そこには、今日買ったものの一部が並べられていた。
食料品の大半は最終日に受け取ることになっているので、今あるのは細々とした日用品や、その場で持ち帰った品ばかりだ。
明日以降も街を見て回る予定なので、買い物自体もまだ終わっていない。
「でもまあ、今日だけでも色々分かったね」
「うん。街並みが、すごく綺麗だった」
「ああ、確かに。近世の西洋風にも見えるし、観光地だったら現代とそんなに変わらないかも? 窓ガラスや照明も普通にあったし、石畳の通路とか、通りに見えたテラスなんか、いかにもって感じだったよね」
沙奈が今日歩いた街並みを思い返すように、宙へ視線を泳がせる。
「……変わってると言えば、魔道具が普通に売ってたりするのは驚いたかな」
「そうだね……次に行ったとき、他もちゃんと見ておく?」
「そうしよっか。あ、あと、あの黒い石」
「魔硝石?」
「そう、それ」
沙奈の視線に合わせて、乃愛もテーブルへ目を向けた。
市場で見つけた、瓶詰めの魔硝石。
結局、気になってあのあと一瓶だけ購入していた。
乃愛は身体を起こすと、テーブルへ手を伸ばして瓶を取った。
傾ければ、黒い小粒がさらさらと音を立てて滑っていく。
朝方、部屋で見つけた黒い欠片とは大きさも形も違う。
こちらは商品として加工されているせいか粒が揃っていて、一見すれば別物にも思える。
それでも、光を受けたときの鈍い艶や、黒一色ではない微かな濁り方が、妙によく似ていた。
「見た目が似てるだけかもしれないけど……」
「特に珍しいものでもないみたいだったし、色んなものに使われてるって言ってたから、あれもそのうちの一つかもしれないね」
「魔道具にも使われてるって……あ」
「ん?」
乃愛の頭に、一人の顔が浮かんだ。
「上総くん……錬金術師だったよね」
「そうだ! ここで調べてみようと思ってたけど、使い方について聞いてみるのもありかな」
「う、うん」
乃愛は瓶を元の場所へ戻した。
昨晩の襲撃について、調査はまだ続いているものの、首謀者はイーゴリ=シュミェツだったということで、一幕を終えることになりそうだった。
聞いた話では、二人を人質にして実行犯の仲間を脅迫し、原因不明の昏睡状態に陥っている息子をどうにかさせようとしていたらしい。
結局は行き違いになってしまったが、息子のヨルンはすでに目を覚ましており、現在は現地で回復に努めているという。
その知らせを受けたシュミェツも、憑き物が落ちたように大人しく従っているそうだ。
ひとまず事件は収束へ向かっている。
それでも、黒い欠片については何も分かっていない。
あれが襲撃と関係しているのかさえ、今のところは不明だった。
沙奈が頬杖をつく。
「エレナさんも、ちょっと気になるんだよね」
「エレナさん?」
「なんか時々、やけに緊張してるというか、顔色が悪いというか……」
「それは、神殿が大変なことになっていたから、とかじゃなく?」
「それもあると思うけど、昨日の晩餐のときはもっと真っ青だったよ」
「人見知りなのかなと思ってた……違ったのかな」
「ああ! そういうこともあるかもしれないね。盲点だった」
そう言いながらも、沙奈はまだ何か引っかかっているらしい。
魔国に来てからずっと、歓迎されている。
国境を越えたときからそうだった。
むしろ、歓迎されすぎていると言ってもいい。
召喚された者であるということに、何か意味があるのか。
それとも、まったく別の理由なのか。
沙奈はしばらく黙っていたが、やがて何かを思い出したように眉を上げた。
「……歓迎で思い出したんだけどさ」
「ん?」
「昨日の晩餐会。乾杯するとき、雷神って言ってなかった?」
「…………」
乃愛は目を瞬いた。
言われてみれば、聞いた覚えがある。
あのときは大勢の視線に晒されて、それどころではなかった。
何を言っていたのかまでは覚えていない。それでも、耳に引っかかった単語だけが、記憶の底から浮かび上がってくる。
「……言ってた、と思う」
「だよね」
沙奈が身体を起こした。
「地下の書庫で調べた神様の話、覚えてる?」
「……風神と、水神と……火神?」
「そう。獣族が風神、龍族が水神、オーガ族が火神。それ以外は精霊信仰。で、どこに当てはまるのか分からなかったのが――」
そこまで聞いたところで、乃愛も気づいた。
「……雷神」
「うん」
もう一つ、分からなかった運命神が残っている。
けれど、魔族に関する本だけが一冊も見つからなかったことを考えれば。
「魔族が……雷神を信仰してる?」
「たぶん」
確証はない。
けれど、歓迎の席でわざわざ雷神の名を出して乾杯するのなら、この国で重要な神として扱われている可能性は高い。
そして雷神と聞いて、乃愛には無視できないものが一つある。
「……わたしの加護」
「そう。それ」
沙奈が乃愛を指差した。
「ノア、雷神の寵愛持ちでしょ」
「……うん」
改めて言われると、寵愛という言葉がなんだか恥ずかしい。
けれど、今はそれ以上に気になることがあった。
「もし魔族が雷神を信仰してるなら、私たちが妙に歓迎されてる理由にも、ちょっと関係してるかも」
乃愛は眉を寄せる。
この国に入ってから受けてきた厚遇。
豪華すぎる部屋。
連日の歓迎。
何かと気を遣ってくれるエレナたち。
魔族というものをほとんど知らない自分たちへ向けられる、過剰とも思えるほどの待遇。
それが、雷神と関係しているのだとしたら。
「……でも」
乃愛はふと眉をひそめた。
「ん?」
「もし、それが理由なら……どうやって知ったのかな」
「何を?」
「わたしが、雷神の寵愛を持ってること」
沙奈の表情から、すっと笑みが消えた。
「……鑑定?」
「されてたのかな」
考えた途端、少し背筋が寒くなる。
もしそうなら、知られているのは乃愛の加護だけではないかもしれない。
沙奈の能力も、二人が隠している手札も、すでに相手側には見えている可能性がある。
「それは、ちょっと困るなぁ」
沙奈は口元こそ笑っていたが、声から先ほどまでの軽さが消えていた。
「ただ、普通の鑑定じゃないと思う。私でもノアは鑑定できないから」
「……うん」
クラスメイト同士でも、基本的には鑑定できなかった。
知力の差が条件だったはずだ。
ならば、乃愛たち以上の能力を持つ者がいるのか。
それとも――。
乃愛の視線が、テーブルの上の魔硝石へ落ちた。
昼間見た店々。
当たり前のように売られていた、用途も分からない数々の魔道具。
「……魔道具、とか」
「ああ」
沙奈も乃愛の視線を追う。
「そういう可能性もあるか」
沙奈が唸る。
「もし鑑定に特化したものがあるなら、こればっかりは分からないな」
昼間に見た店を思い返す。
魔道具は、珍しい秘宝などではなかった。
少なくともこの国では、一般の店先に並べられるほど生活へ浸透している。
ならば、自分たちの知らない用途の魔道具が存在していても、何もおかしくない。
沙奈は困ったように笑ったものの、すぐに表情を戻した。
「まあ、まだどれも予想だけどね。明日、調べてみよっか」
「明日?」
「図書館か本屋に寄らせてもらおう。情報を集めるのには一番手っ取り早いところでしょ?」
その言葉に、乃愛も頷いた。
東の体質について調べる。
魔人固有のものなのかも含めて、それが魔国へ来た一番の目的だった。
地下遺跡の書庫では大量の本を相馬がスキルで読み取ったが、書かれていたのは古代の知識ばかりだ。
そもそも魔族について詳しく記された本が、まるで意図的に抜き取られていたかのように、一冊も見つからなかった。
今の魔族について、乃愛たちは驚くほど何も知らない。
「……あと、セラも調べたい」
「ああ、休憩室で使用人たちが話してたやつ。食べ物のことみたいだったよね」
「あの眼鏡も」
「うん。それはすごく気になってる」
昼間、街を歩いて改めて気づいた。
あの黒い眼鏡を身につけているのは、館の警備や使用人たちだけではない。
店員も、通行人も、当たり前のように使っていた。
単なる装飾品とは思えない。
魔族が何を食べ、どう暮らしているのか。
あの黒い眼鏡にはどんな意味があるのか。
使用人たちが話していたセラとは何なのか。
そして――魔人とは、そもそも何なのか。
東の身体に起きていることを知るには、まずそこから知らなければならないのかもしれない。
「……調べること、いっぱいありそうだね」
「一日で終わるかな?」
「無理だと思う」
「即答だ」
沙奈が笑う。
「じゃ、何日か通えばいいか。滞在期間は決まってないし」
「……うん」
急ぐ必要はない。
街の散策もまだ途中だ。
明日はまず本を探して、その後の予定は調べた内容を見て決めればいい。
今日一日で、この国に対する印象はずいぶん変わった。
魔族という言葉から勝手に想像していた、得体の知れない異種族の国。
実際に歩いてみれば、そこには店があり、人々が行き交い、食べ物を売り、物を買い、日々の生活を送っていた。
けれど、普通に見えるからこそ、分からないことも増えた気がする。
ばらばらだったものが少しずつ目につき始めているのに、それらが一つに繋がる気配はまだない。
そうして明日の予定まで大まかに決めたところで。
――ブブッ。
「ん?」
静かな部屋に、短い振動音が響いた。
テーブルの端に置いていたスマホが震えている。
乃愛と沙奈の視線が、同時にそちらへ向いた。
画面が明るくなり、通知が一件表示される。
「あ、相馬さん」
沙奈が身体を起こし、スマホを手に取った。
こちらから送っていたメッセージへの返信だった。




