級友の放浪: エルフの子供
轟音とともに、剥き出しになった納屋の中へ月明かりが差し込んだ。
砕けた木片と藁が降り注ぐ。
「伏せて!」
有原は近くにいた椎名を抱え込み、地面へ倒れた。国分も両腕で頭を庇いながら、その場へ蹲る。
剥き出しになった梁が軋み、納屋全体が大きく揺れた。
幸い、屋根の大部分は内側から押し上げられていた。大きな破片は外へ飛び散り、中に残った者たちへ直撃することはなかった。
それでも、意識のある女性が小さな悲鳴を上げる。
「知聖!そっちを守って!」
「分かってる!」
新田が女性たちの前へ立ち、咄嗟に両腕を広げた。
その周囲を、疾風が駆け抜ける。降り注いでいた細かな木片が軌道を変え、格子の外へ吹き飛んでいった。
「あ……」
国分が顔を上げる。
先ほどまで子供を恐れ、近づこうともしなかった精霊たちだった。
今も怯えているが、国分の呼びかけに応じ、戻ってきてくれたようだ。
屋根を失った納屋へ、冷たい夜気が流れ込む。
その中央に、子供は立っていた。
首に嵌められた鉄輪から、千切れた鎖が垂れ下がっている。
痩せ細った体を黒い靄が覆い、長い銀灰色の髪が、吹き荒れる魔力に煽られて広がっていた。
子供が片手を持ち上げる。
黒い影が地面を這った。
「ひっ……来るな!」
拘束された男が、両足をばたつかせて逃げようとする。しかし、眠ったままの仲間とまとめて縛られているため、ほとんど身動きがとれない。
「俺は何もしてねえ!あいつらに言われただけだ!痛めつけたのだって、お前が言うことを聞かねえから——」
「黙って!」
有原が怒鳴る。
男の言葉に反応するように、子供の周囲から噴き出す魔力がさらに膨れ上がった。
地面を這っていた影が鋭く尖り、男の胸へ狙いを定める。
男の顔が恐怖に歪んだ。
「た、助けてくれぇ!」
有原は反射的に駆け出した。
賊を助けたいわけではない。
この男が何をされようと、自業自得だ。
だが、このままでは、子供が人を殺す。
正気を失い、自分が何をしているのかも分からないまま。
「だめ!」
有原は男の前へ滑り込んだ。
黒い影が放たれる。
避ける間もなかった。
咄嗟に突き出した腕へ影が茨のように巻きつき、鋭い棘が皮膚へ食い込む。
「ぐっ……!」
「凛!」
椎名の悲鳴が響いた。
影は生き物のように蠢き、有原の腕を伝って肩へ這い上がってくる。
振り払おうとしても離れない。それどころか、触れた場所から体温を奪われ、指先の感覚が急速に失われていく。
子供が有原を見る。
濁った赤黒い瞳が、初めて賊以外の者を捉えた。
「私たちは、あなたを傷つけない」
腕が動かなくなっていくのを感じ、恐怖で声が震える。
それでも、有原は目を逸らさなかった。
「もう誰の言うことも聞かなくていい。あいつらのところへ戻らなくていいから」
子供の表情は動かない。
「だから、もうやめよう」
巻きついていた影が、僅かに緩んだ。
有原は息を呑む。
言葉が届いたのだろうか。
そう思った直後、縛られてもがいていた男が叫んだ。
「今だ!そいつを殺せ!」
子供の瞳が大きく見開かれた。
黒い影が一斉に逆立つ。
「お前は黙ってろって言ってるでしょ!」
有原は再び男に怒鳴るが、もう遅かった。
子供の口から、声にならない絶叫が迸る。
膨れ上がった魔力が納屋の壁を打ち砕き、黒い影が四方へ放たれた。
(何が起きてるの!?)
離れたところから様子を見守っていた相馬の切迫した声が、全員の頭へ響く。
(分からない!捕まってた子が突然——)
国分の返答は、最後まで続かなかった。
倒れかけた梁が、意識のない女性たちへ向かって落ちてくる。
「危ない!」
女性たちを守ろうと一歩前へ出ていた新田が、咄嗟に腕を上げ――横から伸びてきた黒い影が木材を絡め取り、宙で粉々に握り潰した。
新田は驚いたように目を見開く。
子供は、こちらを見ていなかった。
その手も、動いてはいない。
助けようとしたのか。ただ無差別に放たれた力が偶然そうしただけなのか。
納屋の外から、複数の怒声が上がる。
「どうなってる!?」
「納屋だ!誰かいるぞ!」
二軒目の大きな家屋にいた賊たちが、武器を手に次々と飛び出してくる。
納屋は半壊しており、もう身を潜める意味はなくなった。
〈マップ〉で動向を注視していた東が念話で叫ぶ。
(残ってた奴らが動き出した!)
(ああ、もう見えてる!今行く!)
河内の返答とともに、家屋の方から激しい物音が響いた。
有原は感覚が麻痺している腕を押さえながら、子供を見つめる。
外には、武器を持った賊たち。
中には、動けない女性たち。
そして目の前には、敵と味方の区別さえついているか分からない、小さな子供がいる。
「……どうすればいいのよ、これ」
その呟きを掻き消すように、村中へ黒い影が広がっていった。
地面を這う無数の影が、獲物を探す蛇のようにうねる。
納屋の外へ飛び出した影の一つが、近くにあった家屋の壁へ突き刺さった。土壁が砕け、悲鳴を上げた村人が窓の奥へ引っ込む。
別の影は、武器を手に納屋へ向かおうとしていた賊の足へ絡みついた。
「うわっ!」
男の体が宙へ持ち上げられ、そのまま地面へ叩きつけられる。
「ぐあっ……!」
呻く男のもとへ、とどめを刺そうと先が鋭くなった影が数本伸びていく。
その前へ河内が飛び込んだ。
「鏑木!」
「分かってる!」
光り輝く聖剣が横薙ぎに振るわれる。
黒い影は刃に触れた途端、霧のように掻き消えた。だが、完全に消滅したわけではない。散らされた靄が地面へ沈み、少し離れた場所から再び伸び始める。
「斬ってもきりがねえぞ、これ!」
「納屋の方は有原たちに任せる!俺たちはこいつらを押さえるぞ!」
河内が指し示した先では、二軒目の家屋から出てきた賊たちが、突然現れた黒い影に混乱していた。
「何なんだ、これは!」
「知るか!こいつらも一体どこから……!」
「とにかく、先にガキどもを殺せ!」
怒号とともに、賊の一人が剣を振り上げる。
河内は僅かに身を沈め、男の懐へ飛び込んだ。剣を持つ手首を掴み、その勢いのまま背負うようにして投げ飛ばす。
男の体が地面へ叩きつけられた。
「ぐっ……」
手から離れた剣を蹴り飛ばし、河内は次の男へ向き直る。
一軒目の家屋にいた賊は、つい先ほど全員を拘束し終えたばかりだった。物音に気づいて起きてきた者もいたが、寝起きで状況を把握できていないうちに押さえ込めた。
だが、二軒目は違う。
納屋の屋根が吹き飛んだ音で完全に目を覚まし、武器を持って出てきている。
その上、敵味方の見境なく暴れ回る黒い影まで加わっていた。
「河内、右!」
海上の声に反応し、河内は咄嗟に身を屈めた。
頭上を鉈が通り過ぎる。
背後へ回り込んでいた男の腕へ、海上が手にしていた長柄武器を振り下ろした。
「いっ……!」
骨の軋む音がして、男が鉈を取り落とす。
海上は自分の一撃に驚いたように目を見開いたが、立ち止まってはいられなかった。
地面から伸びた影が、男だけでなく海上の足にも絡みつこうとしている。
「下がれ!」
武石が海上の腕を引いた。
直後、二人が立っていた場所を黒い棘が貫く。
「あっぶな……!」
「……賊だけ狙ってるわけじゃなさそうだな」
君島が顔を強張らせる。
鏑木が聖剣で影を切り払い、その間に河内が負傷した男を蹴り倒した。
(納屋はどうなってる!?)
河内が〈念話〉で問いかける。
二手に分かれたときに、念話の共有は分断されていた。双方の状況を監視しているのはスキルの持ち主である相馬しかいない。
返事はすぐにはなかった。
代わりに、相馬の荒い息遣いと、離れた場所から上がったらしい誰かの悲鳴が頭の中へ伝わってくる。
(相馬!何かあったのか!?)
(こっちは何とかする!そっちは賊を村の外へ出さないで!)
(何とかって——)
(納屋の方は、知聖が動いてる)
その一言で、河内は口を閉じた。
新田が何をするつもりなのかは分からない。
だが、地下遺跡で瘴気を浄化し、人知れず大きな何かに対処していたことは、他の皆も沙奈を通じて後から聞かされていた。
普段の大人しい姿からは想像もつかないほど、新田の能力は強力だった。
河内は納屋へ向けかけた視線を、目の前の賊へ戻す。
「こいつらを先に片づけるぞ!一人も逃がすな!」
◆◇
黒い影が、崩れかけた納屋の中を埋め尽くしていた。
国分は精霊の力を借りて折れた梁を宙へ押し留めながら、女性たちの前へ防壁を展開している。影が突き刺さるたび、それは激しく揺らいだ。
「長くは保たないよ!」
国分が叫ぶ。
有原は動かなかった。
いや、動けなかった。
目の前で何が起きているのか、理解が追いついていない。
傷つき、囚われていた子供を助けようとしたはずだった。
傷を治し、鎖から解放し、ここから連れ出そうとした。
それなのに今は、その子供が村全体を呑み込もうとしている。
腕に絡みついた影から、冷気が染み込んでくる。
指先は既に感覚を失い、肩から先が自分のものではないようだった。
「凛、じっとして」
すぐ傍から声がした。
有原が顔を向ける。
新田が立っていた。
いつもと変わらない、穏やかな顔をしている。
けれど、その目は有原ではなく、腕に巻きついた黒い影を見つめていた。
「知聖、これ……」
「大丈夫。取れるから」
新田は有原の腕へ手を伸ばした。
掌から淡い光が溢れ、透き通った水となって影の上を流れる。
黒い影が激しく蠢いた。
耳障りな音を立てながら有原の腕を締め上げ、逃げるように肩へ這い上がろうとする。
「痛っ……!」
「動かないで」
新田の声には、僅かな動揺もなかった。
流れる水が影を包み込む。
白い蒸気が立ち上り、黒い影が有原の腕から剥がれ落ちた。地面へ落ちたそれは、しばらく生き物のようにのたうち回っていたが、やがて水へ溶けるように消えていく。
「結已。凛を診て」
「う、うん」
椎名が慌てて駆け寄る。
新田はそれを確認すると、暴走する子供へ向き直った。
「知聖、待って」
有原が呼び止める。
「あの子、自分でやってるわけじゃない。たぶん、何も分からなくなってて——」
「分かってるよ」
新田は足を止めなかった。
「だから、止めるの」
その進路を塞ぐように、無数の影が持ち上がる。
先端が鋭く尖り、一斉に新田へ狙いを定めた。
「危ない!」
国分が精霊を向かわせようとする。
だが、新田は振り返りもしなかった。
「大丈夫だから」
誰へ向けたのか分からないほど、静かな声だった。
次の瞬間、影が放たれる。
新田の体を貫く直前、周囲に薄い水の膜が広がった。
黒い棘が膜へ突き刺さる。
そのまま押し破るかに見えた影は、触れた場所から動きを止めた。
波紋が一つ、広がる。
それだけで、全ての影が地面へ叩き落とされた。
場の空気が、変わった。
吹き荒れていた魔力が、見えない壁に封じ込められたように弱まっていく。
「なに、これ……」
国分が呆然と呟く。
新田を中心に、淡い光を帯びた水が円を描いている。
音もなく流れる細い水の境界。
その内側では、暴走する子供から噴き出していた魔力が急速に勢いを失っていた。
外へ広がろうとするたび、黒い靄が水に触れ、煙を上げて消えていく。
新田の〈神域〉だった。
虚ろな目をした子供が、初めて新田へ顔を向ける。
赤黒く濁った瞳に、僅かな感情が浮かんだ。
怯えだった。
子供が腕を振るう。
足元から黒い影が噴き出し、巨大な獣の顎となって新田へ襲いかかる。
新田は避けなかった。
片手を上げる。
透明だった水が一瞬で青白い光へ変わり、獣の顎を正面から呑み込んだ。
影が弾ける。
黒い飛沫が降り注いだが、新田の周囲へ届く前に消滅した。
その姿を見つめる有原の背筋に、冷たいものが走る。
新田は怒っていない。
焦ってもいない。
ただ、これ以上の抵抗には意味がないとでもいうように、子供を見ている。
「知聖……殺さないで」
有原は思わず言った。
新田は少しだけ目を丸くすると、口元に薄い笑みを浮かべて振り返った。
「そんなこと、しないよ」
静かな返答だった。
「この子は助けるんでしょ?」
「……うん」
「だったら、動けなくするだけ」
言葉だけを聞けば、安心できるはずだった。
それなのに、有原の胸に湧いた不安は消えなかった。
新田が再び一歩を踏み出す。
怯えた瞳を宿した子供が、後退さった。
黒い影が何度も放たれる。
そのたびに、水の膜が攻撃を受け止め、何事もなかったかのように掻き消していく。
子供の顔が苦痛に歪んだ。
力を使うたび、痩せ細った体から僅かに残っていた生気まで失われている。
新田の目が淡い青へ変わった。
長い黒髪が、風もないのにふわりと浮かび上がる。
その背後に、巨大な何かの輪郭が揺らめいた。
人の形に似ていた。
だが、それを果たして人と呼んでよいのか。
無数の水が絡み合ったような半透明の姿。
顔のあるべき場所には何もなく、ただ青白い光だけが浮かんでいる。
それが、新田の体へ重なった。
床に広がっていた水が一斉に逆巻く。
子供の足へ絡みつき、細い体を拘束した。
「いや……」
子供の口から、初めて明瞭な声が漏れた。
水から逃れようと、黒い影が激しく暴れる。
納屋の残った壁が軋んだ。
「いや……来ないで……」
その声を聞き、新田の動きが僅かに止まる。
子供の瞳は、新田を見ていなかった。
ここにはいない誰かを見ている。
「ごめんなさい……言うこと、聞くから……だから……」
水に拘束された腕で、必死に頭を庇おうとする。
「もう、いたいの……いや……」
有原が唇を噛んだ。
「知聖。もう一度、話を——」
「今は無理だよ」
新田はきっぱりと言った。
「このまま力を使わせたら、この子は死ぬ」
淡い青に染まった目が、子供の全身を見据える。
皮膚の下を巡る魔力。
黒い影の流れ。
傷ついた肉体と、限界を超えてなお力を吐き出し続ける魂。
新田の目は、その全てを捉えていた。
「それに」
新田は、必死に立ち回る仲間たちへ一瞬だけ目を向けた。
「これ以上、みんなを危ない目に遭わせるなら、放ってはおけない」
声から温度が消える。
再び子供へ向けられた目には、憐れみも怒りも浮かんでいなかった。
「【眠って】」
ただ一言だった。
その声が、水に満たされた空間へ響く。
子供の体が大きく跳ねた。
赤黒い瞳が見開かれる。
新田の言霊に抗うように、黒い靄が一気に膨れ上がった。
水の拘束が軋み、周囲へ細かな亀裂が走る。
「知聖!」
有原が叫ぶ。
新田は目を逸らさなかった。
「【眠りなさい】」
先ほどよりも強い声が、子供の意識へ直接打ち込まれる。
新田の背後に重なった何かが、青白い光を放った。
水が子供の全身を包む。
暴れていた影が一本ずつ力を失い、地面へ落ちていく。
子供はなおも立っていた。
唇を震わせ、何かを呟こうとする。
「いや……」
掠れた声が零れる。
「眠ったら、また……」
新田は、怯える子供の前まで歩み寄る。
細い体を拘束していた水へ手を差し入れ、その頭を胸元へ抱き寄せた。
子供の肩が強張る。
「大丈夫」
先ほどまでとは違う、いつもの穏やかな声だった。
「次に起きたとき、あいつらはいないから」
新田の手が、汚れて絡まった銀灰色の髪を撫でる。
「だから今は、眠っていいよ」
子供の瞳から、赤黒い光が薄れていく。
抵抗するように動いていた指先からも、少しずつ力が抜けた。
「……ほんと?」
「うん」
新田は迷わず答えた。
それを聞いて安心したのか、子供の瞼がゆっくりと閉じていく。
最後まで残っていた黒い影が水へ溶け、納屋を覆っていた息苦しい魔力が消えていった。
力を失った体が、新田の腕の中へ崩れ落ちる。
新田はその軽すぎる体を抱き留めた。
静寂が訪れる。
少し遅れて、外から賊の怒声と誰かが地面へ叩きつけられる音が響いた。
有原は痺れの残る腕を押さえ、慎重に新田へ近づく。新田の姿は、もう普段通りだった。
「その子は……?」
「眠ってるだけ。かなり弱ってるけど、すぐに死ぬような状態じゃないよ」
「元に戻せる?」
新田は答えなかった。
腕の中の子供へ視線を落とし、青黒く変色した肌へ指先で触れる。全身に広がっていた模様は薄れていたが、髪色は戻っていない。
黒い魔力は収まっているが、その奥には今も、別の何かが深く根を張っていた。
「今は分からない」
しばらくして、新田はそう答えた。
「でも、たぶんこの村には置いていけないと思う」
崩れた壁の向こうでは、家々の窓から村人たちが遠巻きにこちらを見ていた。
助け出された子供へ向けられているのは、安堵でも同情でもない。
怯えきった目だった。
賊の話から察するに、この子供は村の住人ではないのだろう。
新田は村人たちを一瞥すると、溜め息をついて脱力した。
「……はぁ。どうしようかな」
途方に暮れたような呟きが零れる。
新田は腕の中の子供へ目を落とし、相馬へ念話を送った。




