街へ
◆
結局、見つけた黒い欠片は、乃愛の結界で一つずつ包んだまま〈収納〉へ入れることになった。
正体の分からないものを収納しても大丈夫なのか不安はあったが、収納内は外部と隔絶された亜空間で、時間も停止している。少なくとも、部屋に置いておくよりは安全だろうという判断だった。
首長側へ知らせることも考えたものの、昨夜侵入してきた者たちが仕掛けたものとは限らない。
それどころか、二人が元の世界から着てきた制服に付着していたことを考えると、いつからそこにあったのかすら分からなかった。
「鑑定できないっていうのが、なんか気味が悪いよね」
朝食を終えたあと、沙奈はそう言って眉を寄せた。
「う、うん……わたしも、加護の反応につられて、ちょっとゾワゾワしちゃって……」
「何か知ってるなら教えてくれたらいいのにね」
「会話できたらいいのにな……」
「……本当にね」
沙奈はしみじみと呟きながら、迎えを待つ間に自分の服装を確認している。
着替えとしてあらかじめ用意されていた衣服ではなく、元の世界から着てきた制服姿だった。
乃愛も同じ格好をしている。
黒い欠片が見つかったこともあり、用意されていた衣服にも何か仕掛けられていないとは限らない。ひとまず今日は、念入りに調べ直した制服で出歩くことにした。
生活魔法の〈洗浄〉と〈走査〉を何度もかけたが、ほかに異常らしいものは見つかっていない。
それでも不安で、乃愛は裾の辺りを何度も確認してしまう。
「まだ気になる?」
「……少し」
「今日は私もちゃんと見てるから大丈夫だよ」
「ありがとう……」
沙奈にそう言われ、乃愛は制服の裾から手を離した。
ほどなくして、控えめに扉が叩かれた。
昨日のこともあって体が強張ったが、結界に伝わってくる気配は一人だけだった。嫌な感じも特にしない。
「お迎えかな」
沙奈が扉を開ける。
廊下に立っていたのは、晩餐会で乃愛の斜め向かいに座っていた若い女性だった。
顔色を悪くしながら、貼り付けたような笑みを浮かべていた人物だ。
晩餐会の出席者は皆、黒い眼鏡をしていなかった。エレナも昨日と同じく素顔を見せており、前髪の隙間から淡い紫色の瞳が覗いている。
「おはようございます、ノア様、サナ様」
女性は緊張した様子で深く頭を下げた。
「本日のご案内を務めさせていただきます、エレナ=ナザロートと申します」
ナザロート。
どこかで聞いた名前だと思い、乃愛は記憶を探る。
晩餐会で隣に座っていた、神殿長の男性。
確か彼は、イサイ=ナザロートと名乗っていた。
「もしかして、神殿長さんの……?」
「はい。イサイは私の父です。どうぞエレナとお呼びください」
乃愛の呟きに答えながら、エレナは少しだけ表情を強張らせた。
「昨日はろくにご挨拶もできず、大変失礼いたしました」
「いえ、私たちも余裕がなかったので」
沙奈が軽く笑って返す。
乃愛も何か言わなければと思ったが、相手の緊張が伝わってきて、かえって口が動かなくなった。
自分と同じように人前が苦手なのだろうか。
乃愛は、緊張していた父親の姿も思い出し、親子二人に少しだけ親近感を覚えた。
「昨夜のことがございましたので、首長からは外への散策を延期する案も出ております」
エレナは言いにくそうに続けた。
「警備体制の再確認が済むまでは、館内でお過ごしいただいた方が安全ではないかと」
「もう確認は済んでいるんですか?」
沙奈が尋ねると、エレナは困ったように目を伏せた。
「昨夜の警備担当者の一部が、薬によって意識を失わされておりました。加えて、内部の者が警備配置を外部へ流していた可能性もございます。そのため、完全に安全だと言い切ることはできません」
「完全に安全な場所なんて、たぶんどこにもないですよ」
沙奈は肩をすくめながら、あっさりと言った。
「昨日も、館内なら安全だと思われていたんですよね」
「……仰る通りです」
「部屋に閉じこもっていても仕方ないですし、私たちは予定どおり、街を見たいです。もちろん、案内する人たちに無理がないならですけど」
エレナは少し驚いたように目を見開いた。
それから乃愛にも確認するような視線を向ける。
急に判断を求められ、乃愛は肩を縮めた。
昨夜のことを思い出せば、怖くないわけではない。
知らない人が多くいる場所へ出るだけでも、普段の乃愛なら避けたいと思う。
それでも、窓の外に広がる街を見てみたいという気持ちは消えていなかった。
「わ、わたしも……行きたい、です」
俯いたまま、かろうじて聞き取れる声で答えた。
「承知いたしました」
エレナは改めて深く頭を下げた。
「私どもで、できる限り安全を確保いたします」
「警備の人はどれくらいつくんですか?」
「表立って同行する者は、私を含めて三名です。それとは別に、一定の距離を保って護衛が配置されます」
「結構多いね」
「昨夜の直後ですので……」
申し訳なさそうにするエレナへ、沙奈は気にしていないと手を振った。
準備を整え、三人で廊下を進む。
迎賓館の中は静かだった。
すれ違う使用人や警備兵は、そのたびに足を止め、乃愛たちへ深々と頭を下げる。
昨夜の事件がすでに広まっているのかもしれない。
向けられる視線には好奇心だけでなく、恐れや申し訳なさのようなものも混じっていた。
それが落ち着かず、乃愛はなるべく床へ視線を落として歩いた。
やがて、正面玄関の大きな扉が開かれる。
眩しい光が射し込み、乃愛は目を細めた。
夜中に嵐があったとは思えないほど、空は鮮やかに晴れ渡っている。
雨に濡れた石畳が朝日を反射し、目の前の景色全体が、きらきらと輝いて見えた。
館の前には広大な庭園があったが、昨日見たような気がするレッドカーペットは敷かれておらず、吹奏楽団もいない。
正門の先には、街へ向かって緩やかに延びる大通りが見えた。
「街までは少し距離がありますので、乗り物を用意しております」
エレナが庭園の端へ視線を向けた。
乃愛もその先を追いかけて――目を疑った。
「……すずめ?」
思わず漏れた呟きに、沙奈も同じ方向を見て目を丸くする。
庭園脇の広場には、巨大な鳥のような生き物が大小二匹、並んで立っていた。
丸みのある頭と短い嘴。茶色と白の羽毛に覆われた姿は、確かに雀によく似ている。
ただし、大きさがまるで違う。
胴体は、大きい方は象並みで、小さい方でも駱駝ほどの大きさがあった。
立ち上がった脚は驚くほど太くて長い。丸っこい見た目に反して、下半身だけは走ることに特化した生き物のようだった。
「すずめ……ですか?似た生き物をご存じなのでしょうか」
エレナが不思議そうに尋ねる。
「は、はい……もっと、ずっと小さいですけど」
「左様でしたか。これはピーチクと言いまして、こちらでは街中や近隣の移動に広く使われております。気性も穏やかですので、ご安心ください」
「ンん゛っ……」
隣から、笑いを噛み殺すようなくぐもった声が聞こえた。横目に見ると、沙奈が俯いて肩を小刻みに震わせている。
改めて確認すると、大きい方の背中には、象の鞍をさらに大きくしたような台座が据え付けられていた。
その上には屋根付きの籠が載せられており、向かい合わせに座れる長椅子まで用意されている。
乗り物というより、小さな客室をそのまま鳥の背に載せたように見えた。
「これに……乗るんですか?」
調子を取り戻した沙奈が、楽しそうに声を弾ませる。
「はい。揺れは少ないので、人族の国で一般的な馬車よりも乗り心地はよいかと」
エレナの言葉に、乃愛は目の前の大きな長い脚を見上げた。
この高さから落ちたら、ただでは済まなさそうだ。
もちろん結界を張れば問題はないのだろうが、乗る前から足元が落ち着かない。
「お待ちしておりました」
大きい方のピーチクから、聞き覚えのある声がした。
黒い眼鏡を掛けた女性が、操縦席らしき場所から軽やかに飛び降りてくる。
ここまで何かと案内をしてくれていたジンバウムだった。
パンツスーツを着こなしており、今日もすらりとした体型が際立っていた。
「私が、本日の操縦を務めさせていただきます」
「あ、そうなんですね。今日もよろしくお願いします」
沙奈が軽く会釈して答えたのに合わせて、乃愛も肩越しにぺこりと頭を下げた。
「ずっと気になってたんですけど、その眼鏡って皆さんしてますけど、制服の一環とかなんですか?」
なんとなくずっと気になっていたことをズバリと質問した沙奈は、エレナをちらと見てから、視線を戻した。
思い返せば、これまで黒い眼鏡を掛けていたのは、兵士や給仕など制服姿の者が多かった。
ジンバウムは眼鏡の位置を指先で直してから、困ったように眉尻を下げた。
「いえ、そういうわけでもないのですが……これには少し訳がありまして。また後日改めてご説明させていただきたく……今は何卒ご容赦下さい」
「そうですか。どうしても知りたかったわけじゃなくて、ただ不思議に思っただけなので、無理のない範囲で大丈夫ですよ」
何か事情があると察したのか、沙奈はすんなりと引き下がった。
センシティブなことかもしれず、あまり深く詮索するのは良くないだろう。
申し訳なさそうにしているジンバウムの後方では、色合いは白黒だが、数段小さな同種の生き物が地面を嘴でつついていた。
背には籠ではなく簡素な鞍が取り付けられ、一人の男性が跨っている。
こちらも見覚えのある顔だった。
「あれ……アクシキンさん?」
沙奈が先に名前を呼ぶ。
呼ばれてすぐ気づいた男は、颯爽と鞍から降りてきて、敬礼した。
「はい。本日は護衛として参上いたしました」
人族の国にある魔族の駐屯地で世話になった、ギュー=アクシキンだった。
彼がきっかけでこの国へ苦もなく来れたこともあって、今となっては感謝していたが、あちらに取り残されていたはずだったのに何事もなかったようにそこにいることに、首を捻った。
「もう戻ってきていたんですか?」
「はい、昨晩のうちに」
沙奈は少し眉を上げた。
「ずいぶん早かったんですね。あの後、同じようにすぐに飛んできたんですか?」
「あのときは些末な用事があって同乗叶いませんでしたが、すぐに片付けて追いかけて参りました。今後の護衛はこのアクシキンにお任せください」
アクシキンは少々前のめり気味にそう言うと、周囲を警戒するように見回した。
昨夜の事件を受けて急遽呼び戻されたのだろうか。
それとも、それ以前から戻る予定だったのか。
気にはなったが、乃愛には尋ねる勇気がなかった。
ジンバウムがニコニコと笑顔で被さるように前へ出てきた。
「《《今日は》》アクシキンが護衛します。明日以降は未定です」
「そ、そうですか……」
「ええ!では、こちらへどうぞ」
ジンバウムが、ピーチクの脇に取り付けられた小ぶりの階段を示す。
人が乗り込みやすいようにか、ピーチクは脚を折り畳むようにして座っていた。その姿は、まるで巨大な雀がお座りをしているようだった。
「か、かわいい……」
先にエレナが乗り込み、続いて沙奈が迷いなく階段を上がっていくが、乃愛は逸る気持ちを抑えながら、階段を上がるどさくさ紛れにその胸元の毛をもふった。
「……!!」
信じられないほど柔らかな毛並みに、元々閉塞気味の乃愛の喉から、声なき声が上がる。
しかもこんな失礼な触り方をしてもピーチクはとても大人しいままで、首を左右に傾げているだけだ。耳を澄ませば、時折『ピィ』という鳴き声も聞こえてくる。こんな大きな体に対してあまりにも小さなその鳴き声に、さらに愛しさが溢れて止まらなくなる。
「……ノア様?どうかされましたか?」
階段に足をかけながら小さく感動に打ちひしがれていた乃愛だったが、なかなか上がってこないことを不審に感じたようなジンバウムの声が聞こえて、我に返った。
「あ、す、すみ、すみませんっ、なんでも、ないです……」
周囲を見れば出発の準備は整っており、あとは乃愛待ちとなっていたようだ。初めはその高さに萎縮していたが、そんなことも忘れてそそくさと駆け上がる。
「ふふ、ほんと可愛いよね」
「う、うん……」
すでに籠へ乗り込んでいた沙奈が、笑いながら手を伸ばす。
乃愛は気恥ずかしさで俯きながら、その手を借りて一息に籠の中へ入った。
中は外から見るよりも広く、四人が乗っても十分に余裕があった。テントのように、魔道具で空間拡張が施されているのかもしれない。
乃愛と沙奈が進行方向を向く側へ座り、向かいにはエレナが腰を下ろす。
ジンバウムは前方にある操縦席へ移った。
「出発いたします。少し揺れますので、手摺におつかまりください」
籠の外から声が聞こえる。
乃愛が慌てて手摺を握った直後、ピーチクがゆっくりと歩き出した。
体が僅かに上下する。
けれど、長い脚から想像していたほどの揺れはなかった。あれほど丸い背に載っているのに、どうしてこれほど揺れないのだろう、と思わなくもないが、可愛すぎるその姿の前ではどうでもいいことだった。
足を一歩運ぶたびに景色が大きく流れ、あっという間に迎賓館の正門を抜ける。
小さい方のピーチクに乗ったアクシキンが、少し離れた位置から並走していた。
「結構速いね」
沙奈が籠の外へ身を乗り出す。
「この程度は歩行速度です。本来は、もっと速く走ることができます」
前方からジンバウムの返事が聞こえた。
「走ったらどうなるんですか?」
「舌を噛みます」
「乗り心地いいんじゃなかったの?」
「歩いている限りは」
沙奈が吹き出し、乃愛も小さく口元を緩めた。
正門から続く道は、緩やかな坂になっていた。
少し高い位置から見下ろすと、その先に街並みが広がっている。
建物の多くは淡い灰色や白を基調としており、屋根や窓枠だけが鮮やかな色に塗られていた。
石造りの建物ばかりかと思っていたが、曲線を多く使ったものや、壁面全体が硝子のように透き通った建物もある。
屋上には植物が植えられ、建物同士を繋ぐ細い通路が空中へ伸びている場所もあった。
想像していた魔族の街よりも、ずっと整然として見えた。
けれど、冷たい印象はなかった。
軒先には布製の飾りが揺れ、窓辺には花や小さな置物が並んでいる。
人通りは少ないように見えたが、生活している者の気配は、あちこちから感じられた。
「ちゃんと、人がいるね」
乃愛は思わず口について出ていた。
「……うん。パーチクしてた」
「え?」
沙奈がぼそっと何か零した気がしたが、遠くの方から人々の賑やかな声が聞こえてきてそれも霧散し、乃愛は胸の内でそっと安堵した。
案内される場所だけ綺麗に整えて、実際には誰もいないのではないか。
昨日こっそり耳にした使用人たちの会話から、一部の街が封鎖されている話を聞いて、そんな懸念を二人とも少なからず抱いていた。
けれど、通りには荷物を運ぶ者や、店先を掃除する者、立ち話をしている者たちがいる。
子供らしい小柄な魔人が、道端にできた水溜まりを飛び越えて遊んでいた。
ただ、首都の商業地区としては、想像していたほど、人通りは多くない。
大通りには十分な幅があり、行き交う者たちの間にもかなり余裕があった。
「今日は少ない方なんですか?」
沙奈がエレナに尋ねる。
「いいえ。天候が回復したばかりですので多少出足は遅いですが、普段もこの時間帯はこの程度です」
「ここは、首都で合っていました?結構ゆったりしているんですね」
「はい、その通りですが、魔族全体の人口そのものが、それほど多くありませんので」
エレナは何でもないことのように答えた。
乃愛にとって、実はこれでも十分多かった。
もっとも、乃愛にとって問題なのは、人数そのものではなかった。
すれ違う者のほとんどが、籠の方へ一度は目を向けてくる。
露骨に立ち止まる者。
隣の者へ何か囁く者。
遠巻きに頭を下げる者。
距離があって表情まで見えなくても、こちらを意識していることだけは分かる。
視線が一つ増えるたびに、胸の辺りが苦しくなっていく。
まだ街へ着いてすらいないのに、早くも人酔いしそうだった。
「え。ノア、大丈夫?」
次第に顔が青白くなっていく乃愛に、横にいる沙奈がすぐに気づく。
「だ、大丈夫……たぶん」
「乗り物酔いかな。一旦止まってもらう?」
「あ、えと、ううん……まだへいき」
まだ街に降りてもいないのに、人の視線だけで酔いかけているとは言い出せない乃愛は、誤魔化すように笑顔を作った。
乃愛はできるだけ外からの視線を意識しないように、建物や店の看板へ目を向けた。
大通りへ近づくにつれ、店らしき建物が増えていく。
軒先には色鮮やかな果物が並び、籠いっぱいに香辛料を積んだ店もあった。
窓越しに衣服を飾っている店。
金属製の道具を並べている店。
透明な瓶や魔石らしきものが所狭しと置かれた店。
何に使うのか想像もつかない物ばかりだ。
昨夜のことや黒い欠片への不安は、まだ消えていない。
それでも、見たことのない品々が視界へ入るたび、胸の奥から好奇心が湧き上がってくる。
「買いたいもの、いっぱいありそうだね」
沙奈が楽しそうに言った。
「うん……あの、果物も、探したい」
「タルトに入ってたやつ?」
「そう。名前、覚えてるから……」
「じゃあ最初は市場かな」
二人の会話を聞いていたエレナが、少しだけ表情を和らげた。
「それでしたら、中央市場からご案内いたします。食材や日用品の多くが揃いますので」
ピーチクは長い脚をゆったりと動かしながら、商業地区へ続く大通りを進んでいく。
乃愛は集まる視線を避けるようにしながらも、少しずつ近づいてくる店々から目を離せなかった。




