黒い欠片
◇◇
「……まさか、全員捕まるなんてね」
迎賓館から幾つもの建物を隔てた暗い路地で、黒装束の女が壁に背を預けていた。
荒い呼吸を整えながら顔を覆っていた布を外し、額に滲んだ汗を袖で拭う。
客室を囲んでいた結界が破られる直前、いなくなった二人を探していた女は、違和感を覚えてすぐさまその場を離れていた。
逃げられたのは偶然に近い。
もう少し判断が遅れていれば、仲間と同じように捕らえられていただろう。
「ただのヒューマンだって話じゃなかったの……」
あの部屋には二人の少女しかいなかった。
少なくとも、そう見えていた。
薬を飲ませ、眠らせ、縛り上げた。声も交わしたし、確かに触れることもできた。
それなのに、連れ出そうとした瞬間には、ただのクッションに変わっていた。
幻術。
それも、その場にいた十人以上を完全に欺き、手触りまで再現するほど高度なもの。
「聞いていないわよそんなの……」
女が知らされていたのは、二人があの稀人であることと、地下迷宮で潜入させていた兵—シュミェツの息子ヨルン—が一人、何らかの方法で遠隔から昏睡させることができる力を持つ者たちの仲間であることだけだった。
特殊な能力を持つのは、別行動をしている集団の方にいると聞いていた。
それでも油断はしていなかった。だからこそ、わずかな時間のなかでも仕込みを施し、人手も揃えて慎重に進めていた。
しかし、今回の二人は交渉に使える人質。
それ以上でも、それ以下でもないはずだった。
「あの方も可哀想ではあるけど……」
息子を案じる父親を焚きつければ、多少強引な手段にも出る。
その見込み自体は外れていなかった。
だが、薬も、警備配置も、転移術式も、シュミェツ一人が短時間で用意できるものではない。
彼は計画の中心にいたのではなく、最初から、都合よく利用されただけだった。
捕まった仲間は、シュミェツが首謀者だとしてうまく事を運ぶだろう。
女は胸元から薄い金属板を取り出した。
通信を試みるが、表面に刻まれた魔法陣は光らない。
「……切られた?」
もう一度魔力を流してみるが、反応はない。
嫌な汗が背中を伝う。
「待ってよ。私は言われた通りに——」
金属板に、突然ひびが走った。
女が手放すより早く、それは音もなく崩れ、黒い粉となって地面へ落ちていく。
証拠を残さないための術式。
通信相手は、最初から失敗した者を切り捨てるつもりだったのだ。
「そんな……」
遠くから、複数人の足音が聞こえてきた。
すでに追手が放たれているのかもしれない。
女は顔を覆い直し、路地の奥へ走り出した。
その背中を見送る者がいることには、最後まで気づかなかった。
「ふむ……やはり何かあるのか」
建物の屋上から、低い声が落ちる。
「予定とは違うが……これはこれで興味深い」
黒い外套が、夜風に小さく揺れた。
「もう少し、好きに歩かせてみよう」
次の瞬間、そこには誰の姿も残っていなかった。
◆
翌朝。
目を覚ました乃愛が最初に見たものは、見覚えのない天井だった。
「……どこ?」
寝ぼけたまま小さく呟き、掛け布団を鼻の辺りまで引き上げる。
視線だけを動かして周囲を確認すると、すぐ隣のベッドでは沙奈が布団に包まり、規則正しい寝息を立てていた。
その様子を見ながら思い出す。昨夜警備兵が駆けつけたあと、別の客室へ移されたのだった。
「…………」
朝起きた時の光景だけはいまだに慣れそうにない。
幼い頃からほとんど家を出ずに暮らしてきた乃愛にとって、世界とは小さな自宅の中だけだった。
ここに来てからは、もう一生分の出来事を体験したのではないかと思うほど、乃愛にとって激動の日々が続いている。
まだどこか夢の中にいるかのように意識がふわふわとしていて、今を生きている実感が薄いのかもしれない。
―― 家族の姿や、これまでの思い出が一瞬、頭をよぎる。
いずれ今の状況を飲み込んで、落ち着いてしまったらどうなってしまうのだろう。ホームシックどころでは済まなくなるかもしれない。
気持ちを切り替えて、目だけで部屋を見渡してみる。
昨日と違う部屋ではあるが、こちらも昨夜までの客室ほどではないにせよ、十分すぎるほど広い。
窓から差し込む陽光は明るく、昨夜の不穏な空気など最初から存在していなかったかのようだった。
ベッドの周囲には乃愛が張った結界が残っている。
眠る直前、何度も範囲と機能を確認したことを思い出した。
部屋全体ではなく、眠っている間も確実に異変を察知できるよう、ベッドの周囲へ範囲を絞って張っていた。
昨夜は結界の防御効果を初めて目の当たりにしたこともあり、あんなことがあった直後だったが少しだけ安心して眠ることができた。
その結界には、何の異常もない。
警備の者たちも、言われた通り少し離れた位置にいるらしく、扉の向こうから複数人の気配が感じられた。
安全だと確認できて、乃愛はようやく息を吐く。
「……おはよ」
横から掠れた声が聞こえた。
顔を向けると、沙奈が布団から半分だけ顔を出してこちらを見ていた。
「お、おはよう……起こした?」
「ううん。ちょうど起きたところ」
そう言いながらも、沙奈の目はほとんど開いていない。
しばらく二人とも布団から出ないまま、ぼんやりと天井を眺めた。
「今日、どうするんだろうね」
乃愛が尋ねると、沙奈は布団の中でもぞもぞと動いた。
「街の散策?」
「昨日あんなことが、あったし……中止に、なるのかなって」
「ああ」
沙奈はようやく顔を出し、少し考えるように瞬きをした。
「警備の見直しとかあると思うから、それ次第な気もするけど——」
「けど?」
「それ以前にさ。夜中、かなり天気荒れてたから、道とか悪くなってないかなって。それで中止はあり得そう」
予想外の返事に、乃愛は目を丸くした。
「え?」
「あれ、気づかなかった?途中で目が覚めちゃったくらい大荒れだったよ。今は気持ちいいほど晴れてるけど」
「そう……だったんだ……」
「よく眠れてたんだねぇ。羨ましい……ふわぁ」
沙奈は大きな欠伸をすると、両腕を伸ばしながらだるそうに上体を起こした。
自分がそこまで肝の据わった人間だとは思っていなかった乃愛は、全く気づかずに寝こけていたことに、気恥ずかしくなって掛け布団で顔半分を隠した。なんなら目覚めもちょっとスッキリしていたような気がするくらいだ。
「とりあえずさ。朝ごはん食べて、予定を聞いてみよ。行けるなら街にも行きたいし」
昨夜は不安ばかりが大きくなっていたが、街を見たいという気持ちそのものが消えたわけではない。
見たことのない店。
魔族が普段食べているもの。
晩餐会のタルトに使われていた果物。
どんな人たちが暮らし、何を着て、何を話しているのか。
怖さと同じくらい、知りたいという思いも残っている。
頷いて、乃愛も起き上がろうとしたが、直後、乱れた髪を押さえながら顔をしかめる。
「……その前に、お風呂入りたい、かも」
昨夜は着替えた直後に騒動が起きたため、別室へ移動して生活魔法の衛生だけ軽く掛けたあとそのまま眠ってしまった。
「ふふ、ノアってほんとお風呂好きだよね。いいよ。私は先に外にいる警備員さんに今日の予定聞いてくるね」
「あ、ありがとう……」
初めに何日も入っていなかった反動もあるかもしれないが、お風呂に入ることはここでの唯一、人間らしい生活を味わえるもので、今の乃愛にとっては一日をリセットできる心の安らぎになっていた。
自分だけ呑気なことにどこか後ろめたく思いながらも、気持ちは変わらずバスルームに向かおうとベッドの脇に足を下ろしたところで、ふと動きを止めた。
「どうしたの?」
「……何か、いる? ううん、ある……?」
部屋の外ではない。
窓の向こうでも、天井裏でもない。
もっと近い。
自分の背後にいつも感じている“彼”とは別に、微かな魔力の揺らぎが室内に残っている。
乃愛は警戒しながら結界の機能を絞り、〈走査〉を広げた。
反応があったのは、着ていた学生服を置いた椅子の辺りだった。
「何か仕掛けられてる?」
沙奈もすぐに表情を引き締める。
二人で慎重に近づいて制服を調べてみると、それぞれの裾から小さな黒い欠片が落ちた。
石のようにも、金属のようにも見える。
乃愛が〈鑑定〉を使おうとした瞬間、背後にいる“彼”の気配が強く揺れた。
今までに感じたものとは違う。
明確な嫌悪だった。
「……これ、触らない方がいいかも」
「もしかして、加護が反応した?」
「うん……すごく、嫌がってる」
沙奈は落ちている欠片をまじまじと覗き見て、ひとりごちた。
「ふーん……鑑定も効かないのか」
乃愛は欠片を結界で覆い、そのまま宙へ持ち上げた。
昨夜の侵入者が仕掛けたものなのか。
それとも、それ以前から制服に付着していたものなのか。
まだ何も分からない。
ただ、今日これから歩く街のどこかにも、同じ気配が待っているような気がした。




