思って、焦がれて、手を伸ばし
エノールが学園を空けていた頃、レガルドとアリスはそれぞれ暇していた。
「エノールさん、今頃何しているかしら……」
「エノール、何してるんだろうなぁ……」
似たもの同士の二人だが、なぜだか馬が合わない。否、似ているからこそ同族嫌悪するのだろう。
二人はそれぞれの授業でエノールがいないことを悔やみながら、周囲の生徒もまたエノールロスに苦しんでいた。
「エノールさん……」
「エノールお姉様……」
男子は言わずもがな。女子も最近になってエノールと仲良くなりたいという人が増えていた。
厩舎にボスが必ず現れるように、上下関係にさとい貴族の子弟達は必ず誰かをリーダーに仕立て上げた。そしてそれが今まではアリスベリアやギャーヴェやレガルドだったが、その三人を抑えたのがエノールだった。
レガルドはエノールとの縁談で明らかにベッタリだし、アリスは今や友人で取り巻き達と離れている。ギャーヴェに至ってはエノールと争ったことで何もかも失ったのだ。周囲からは負け犬として蔑まれ、エノールが嫌うからこそいじめが起きていないものの、いなければ起こって当然の状況だった。
「……」
ギャーヴェは日に日にやつれていった。上手く眠れていないようで、隣人はたまにへんな声が聞こえるという。目のクマも酷くて、淑女としてはあるまじき姿だ。
アルベレットからもそれを指摘され、彼女は教師として当然の対応をしただけだが、周囲はそれを敗北者の姿というふうに捉えた。バカにしていた教師や生徒達に負け、何よりエノールと争ったのが愚かだったという風潮が流れていた。
そして、学園にリーダーらしいリーダーがいなくなった頃に流星のような威光を湛えたエノールがいた。彼女の雰囲気とカリスマ性はリーダーにふさわしい才覚を備えていたのだ。
本人が望むことなく周囲ではそういう風潮ができ始め、男子達の姫扱いはより強固なものになった。女子達もまたエノールを今度は崇拝するようになり、毅然とした態度が好まれるようになったのだ。入学当初はあれだけ気味悪がっていたのに。
そんなカリスマ的存在がいなくなって、学園はエノールロスに悩んでいた。教師もまた悩んでいた。あの生徒がいるから授業に面白みが出るのだ。
そんな退屈な日々を破ったのもまたエノールだというのだから、この令嬢はどこにいっても人騒がせである。
帰ってきたエノールを周囲は祝福した。どんちゃん騒ぎにエノールは困惑したが、みんな騒ぎたいのだと理解して納得した。
彼女は一人の男を連れ帰っていた。聞いてみれば『……従者?』という曖昧な返答が返ってきた。あれはなんなのか。
遠くから見てみれば甘いマスクと言えなくもない。レガルドはそんなふうには思えなかったが、好き勝手に噂する生徒達に腹を立てた。あれは俺の結婚相手なんだぞ、ともう結婚するのが前提のようだった。
エノールはその機微を感じ取ると、開かれたパーティから抜け出して縁談相手の令息を連れ出した。周囲もエノールともっと話したりしたかったが、流石にレガルド相手は遠慮していた。彼はエノールの縁談相手なのである。
連れてきた外でエノールは言った。
「ごめんなさい、レガルド」
「……エノール、あいつは?」
レガルドは単刀直入に聞いた。女々しい限りだが、嫉妬を隠すよりはマシだった。
そんなレガルドにエノールは仕方なさそうな顔をした。青白む空の下、薄暗い中で二人の影が揺れる。
「ごめんなさい。あれは経済学者よ。私の領地をどうにかするための」
「……そうだよね、ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや……ダメだよな、男らしくなくて。忘れてくれよ──」
エノールはレガルドの顔を両手で引き寄せた。そんなふうに納得して欲しくなかったから、言葉の途中で唇を塞いだのだ。
「…………っ、エノール」
「私はね、レガルド。貴方に勘違いして欲しくないし、そんな顔をさせたくもないの」
エノールは孕む摂氏220度の熱を伝えるべく少年に唇を奪わせた。
あれだけお預けだと言ってきたが、自分からではなく少年に奪わせたのだ。
その口付けによってレガルドが貪る側、自分が貪られる側だということを教える。
エノールが頬に口付けしてから半年のことだった。
突然のことにレガルドはびっくりして、この少女はそういうところあるよなと思う。
つい笑ってしまって、でも、エノールの真剣な表情にレガルドも真剣さで返した。
「……貴方が傷つくことを肯定なんてしたくないし、謝るわ。貴方に……先に話しておくべきだった。周囲がおかしな噂をしているのも知ってる。ごめんなさい、もうすこし言い含めるべきだったわね」
特に女子達の間ではエノールの男遊びの相手とか、青い少女性を揺り動かす相手だとか言われている。
勿論、常識的に考えたらそんなことはない。しかし、いつの時代も女性はゴシップが好きなのだ。
たとえ偽りとしても過激な方を選んでしまう。
その気質が結果的にレガルドを傷つけていた。
「レガルド、もう一度キスして」
「で、でも……俺たち──」
「婚約して」
「……」
有無を言わせることなくエノールはそれを可能とする条件を提示した。
「それならいいでしょ。嫌なら、抵抗してね」
エノールはもう一度しっとりと唇を合わせた。
柔らかな唇の感触が少年の唇に再び襲う。それは魔女のようなキスだった。
レガルドは最初から抵抗しない。
「……」
「……」
水気を帯びた切り花のような感触がレガルドの唇に伝わる。とても敏感な場所の感触だった。
唇は本来、食べ物の温度を感じるのに最も適した場所だ。エノールの唇の感触が直に伝わってしまう。
ハリのある艶やかな肉感に、レガルドは男としての心を満たされた。
恋人の情熱が彼の欠けた心を埋めたのだ。
「……エノール──」
今度はレガルドの方から、彼女を呼んでエノールが見上げたところに唇を合わせる。
十二歳、日本なら小学生に分類される彼らだが、ここでの成人は十五歳。長生きして六十。
七十もすれば長寿とされる方だ。
大人に囲まれ貴族の世界に幼い頃から触れてきた彼らは大人であることを求められた結果、感性もまた周囲の期待に引っ張られるように大人びていた。
エノールは情婦のように情熱的にレガルドの首に手を回す。
彼女の手は情熱で高い温度を帯びていた。レガルドの首に直にままならない熱を伝える。
がっちりと彼のことを掴んだ。力強く、彼を逃さないように。その熱量がレガルドにも伝わってしまう。
今、恋人は自分に酷い感情を抱いているのだと。
お互いの呼気が口元や顔にかかり、その感触がくすぐったくて妙に生々しかった。
二人の情欲がさらに煽られる。
レガルドもまた彼女の腰に手を回した。
じっとりとしたレガルドの手つきに、エノールの中の火が灯った。
女を焚き付けられて、男を煽られて、お互いにじっとりと唇を合わせる。
まさぐって、舌を入れそうなところでエノールからやめた。
レガルドは梯子を外された気がした。
「これ以上ダメ」
レガルドは腰元に回した手に力を入れて拒否をした。嫌だと言っている。
その手もまた情熱にエノールの尻肉を掴んでいた。この女を離したくないと叫んでいる。
「分かって、レガルド」
「いやだ」
少年は明確に拒否をした。手元にあるこの花を手放したくなんかない。
それは少年の中に芽生えた独占欲だ。
それを彼女の尻を掴んで手を腰元に回すという形で表現した。まるで四十にもなるおじさんのようである。
はたまた、それは稚拙だったかもしれない。それでもエノールはレガルドの紳士さを感じ取った。
レガルドは男として勇気を出して自分に尻に触れてくれたのだ。
嫌われるかもしれないのに、きっとその不安があるだろうに、それでも勇気を振り絞ってくれた。
無論、自分のためである。思わず昂りそうになった。
そのためにエノールは一度瞠目して、自分の責任だと腹を括った。
本心と虚実を混ぜ込んだエノールの声は、艶然と令息の耳をくすぐる。
それは、ともすれば願う結果と真逆を引き寄せてしまいかねない大博打だった。
「これ以上続けたら、貴方をベッドに誘ってしまいそうなの」
その言葉にレガルドはびっくりして手を離した。その仕草にエノールはクスリと笑って賭けに勝ったことを痛感する。
今のは良くなかった。レガルドの顔を見てそう思う。
エノールはレガルドの男を軽んじていたのだ。自分の尻を揉まれてもなお、この少年の男が少年のものであると誤解していた。
今のレガルドの表情にはいくばくかの驚きと後悔があった。手を離してしまったことへの後悔。
それは紛れもなく成熟した男が感じるものだ。つまり、このまま押し倒されて茂みの中で純潔を散らす可能性もあったのである。
もしレガルドがもう少し短慮で迫ってきていたら……きっと誰かが悲しむ結果になっていただろう。
レガルドが慎重で良かったと心の底から思った。
「貴方を悲しませるようなことはしないわ」
エノールは再び少年の手を包み込んで言う。
今度は彼を落ち着けるように、安心させるように。
それはエノールなりの誠意の表れだった。
レガルドはなんて浅ましいことをしたんだと自分を恥じていた。
「すまない、エノール……」
「……気にしないで、レガルド。今のは私が悪かったから」
「ごめん、俺は……」
「私が魅力的すぎて、手を出しそうになったんでしょ?」
エノールは先回りして『うん』と言わせる鎌掛けをした。
それを是とすれば自動的にレガルドは許される。それは女として誉高いことだからだ。
レガルドは粛々と頷く。すると、エノールは歓喜と嗜虐をないまぜにした笑みを浮かべた。
子供の容姿と矛盾した色香を放つエノールは、妖しげに軽口を投げかける。
その言葉にレガルドは笑うこともできなくて、うんと頷く前に作り笑顔を浮かべた。
本当に手を出しそうになったのだ。
「あはは、なにそれ」
「あー、笑った!」
レガルドはもう二度と自分の欲に飲み込まれないと誓った。それは生涯、彼女を好きにできるようになっても続いたという。
エノール達は三年生になった。あと二年だ。学園でエノールとレガルドが時間を共にできるのはあと二年である。
5年生になればどんどんと卒業する生徒が現れる。真っ先に卒業するのはエノールだ。十五歳になれば学園を卒業となる。そして領地の屋敷で寄子の家を招いてパーティを開くのだ。
成人した後も学園に通うのはいささか変である。学園は貴族の『子弟』が通うものだ。貴族の成人は十五歳と決められている。家督を継ぐのはそれからだ。
十八歳に息子に譲る家もあるし、十五歳になってすぐ譲らなければいけない場合もある。普通なら十八歳以上が好ましい。エノールの場合は父親のアイジスの判断による。すぐにでも当主になるべきだと考えればパーティで家督相続の宣言がなされるだろう。
だから、エノールはこの一年の間にレガルドとの思い出を作ろうと考えていた。三年生の間にピレライン家のお抱え達を使い、領地で一定の功績を得る。それを土台にエノールは寄子の家と良い関係を作る。三年生は下準備の期間であり、学園を離れることも少ないだろう。
この一年だけなのだ。それが終わればエノールは学園を離れがちになり、卒業となってしまう。
レガルドとの婚約の話はマルデリア公爵が随分と乗り気だったが、逆にアイジスはもう少し考えてもいいんじゃないかとエノールに言った。
本来なら公爵の意向を伯爵が無視できるわけないのだが、それでもアイジスは娘のためを思い、公爵もこの縁談をなかったことにされたくないため了承した。
エノールは今日もレガルドを連れて町に出かけている。それは学園の方も公認していた。
「レガルド、こっち!」
「あっ、エノール。待ってよ!」
お嬢様は、レガルドの前ではお転婆だった。
しかし、バルターの前に立てば次期領主の顔になり、ロンダーの前にたてば学者の顔になる。
佐藤健は一経営マンだった。決して学者ではなかったが、彼の経営知識はこの時代では学者レベルだったのだ。高校の経済・社会の授業で学んだ財政政策や金融政策の手法は、提唱する学者はいたもののエノールのはそれらをさらに発展させ、整理したものだった。
「需要を生み出せば経済が回る……なるほど、だから需要を作り出すわけですか」
「でも、私はこう考えているわ。人は賃金が出るから働こうとする。でも、本来賃金は物々交換を円滑にする道具でしかない。だから、国や領地の豊かさはどれだけ民が働いたかによる、とね」
「なるほど、それならどのようにして民のパフォーマンスを上げるかによりますね」
「有効需要政策は民の税金を民に還元する。治水や土木工事なんかの『これなら自分たちの金を使われてもしょうがない』と思わされる仕事を作って、民から集めた金で仕事をさせる。やっていることは単なる金銭の循環で、まやかしに過ぎないわ。民が働くよう誘導しているだけ。騙くらかしているともいうわね」
「民が働いて得たお金でまた働かせる……なるほどです」
それらは中学校で教えられているような内容だ。決して難しいものではない。これこそが佐藤健の生きてきた世界とエノールの生きている世界の積み上げてきた歴史の差だ。
「農学者達はそれなりに成果を上げているようね……ギルベルトはもう別の土地に移動させてもいいかしら。こちらからも報酬を渡した方がいいわね」
ギルベルトは流石にピレライン家の筆頭農学者を名乗るだけあって、任された農地ですでに改革を成功させていた。不毛だった土地がどんどんと蘇り、収穫量が増えたのだ。これにはそこを治める騎士も喜んだ。
「搾り取りすぎないように釘を刺しておいた方がいいかもね……上が無能だと本当に厄介なんだから」
ネルコは三ヶ月を費やし領内の各地を訪れて商会に顔を出していた。エノールのように自前の馬車を持っていなかったが、すぐに資金を作って行商を行い、金を増やして馬車を買ったという。
「敏腕事業家というのは本当なようね。ここは褒めずに泳がせておきましょう」
商会に頼んでネルコの動向を監視しつつ、農学者達を動かして不毛の土地の対処をさせていた。
農学者達の努力が実を結ぶのは一年たった後であろう。種まきの時期を逃しているので、結果が出るのはエノールが十五歳になってからか。そのため農学者達には結果を確認させず思い思いの方法で対処させ、経験則的に大丈夫だろうとなったら次に向かってもらっていた。
エノールも土壌研究の麦栽培に領内の経済政策の検討、診療所の運営についての確認と対処に、学園での勉強と自己研鑽、商会とのやりとりなど膨大な仕事をこなしていた。
昔とは違って適度に息抜きができるようになった。レガルドがいるのも大きい。彼がいるおかげで、一緒にいる時間は休める時となっているのだ。
「ねぇ、レガルド」
「何?」
「私、貴方が好きよ」
レガルドはどきりとした。突然の告白にドキドキしてしまうほど、この少女はレガルドにとって魅力的に見えている。
鼻腔をくすぐるいい香り。女の子の香りとでもいうのか。強すぎず、甘ったるすぎず、透き通るようなフレグランスの香り。合同授業の時に他の女子達とも関わるが、彼女らではこうはならない。
土色の髪は自分の方にしなだれかかっていて、エノールの手の柔らかさがぬくもりと共に伝わってくる。その指に執務のせいかペンだこがあるのを知っていた。この優美な令嬢が苦労している証拠である。
エノールは時折女郎蜘蛛のように忍び寄って、レガルドを食べてしまいそうになる。自分たちの立場と年齢が一線を引いているが、もしそれがなかったら……きっと今頃は全ての線を超えて手を出させられていただろう。危険な甘さがエノールという少女を彩っている。
「ねえ」
「ん?」
エノールは手でレガルドの頭を抱えて、自分の方に抱き寄せる。そのまま自分の方にもたれかからせた。
「吸って」
「え?」
「息、吸って?」
「あ、ああ」
何のことかとレガルドは動揺して、エノールの制服に鼻をつけながら息を吸う。
──鼻腔いっぱいにエノールの香りが広がって、その強烈さにレガルドの愚息は思わず反応してしまった。
「私の匂い、ちゃんと覚えてね」
「……」
どうしてこんな殺し文句がガンガン出てくるのか。レガルドは不思議で仕方なかったが、鼻腔をくすぐる甘い香りに思考は塗りつぶされた。
危なさと綱渡りの好意に、レガルドはただただ身を沈める。日に日にこの少女を手放したくないと思ってしまう。今すぐにでもこの少女を結婚という鎖で縛り付けて、外に出したくなくなる。
レガルドはそんな自分の獣を飼い慣らしながら、それでもエノールの香りを感じていた。柔らかい。最近になってエノールの胸元の膨らみが少し大きくなったようにも思う。
エノールは春になって十三歳となった。三年生の二人は少年少女に許された範囲で混じり合う。青々とした健全な交接は段々と火を帯びていった。
縁談相手という免罪符がある二人は度々街に出掛けるようになって、時に人目を憚って相手の唇を奪った。
夏になると長期休業中に二人は小旅行に出かけ、使用人同行ではあったが、エノールはできる限りレガルドとの時間を確保し、避暑地のコテージで夜を語らいあった。
間違いなどあるはずもなかったが、秋になると妙に色合いが変わってくる。段々と二人の熱愛は学園の陰で語られるまでとなったが、エノールはそれを気にせず、レガルドの元に足繁く通った。あの天才少女をして、魅了される相手ができたのだ。
冬になって肌寒くなると、二人は手を繋ぐことが多くなった。そのおかげか距離もどこか近い。恋人同士のロマンスは凍てつくような北風を和らげるのだ。
「レガルド」
「どうしたの?」
「私、貴方をベッドに呼びたい」
エノールがまるで世間話をするかのように言ったのだ。それも道端で。周囲に人はいないが、いつもの彼女なら考えられないことだ。
「どうしたんだい、エノール。俺らはだってまだ……」
レガルドは最初いつもの発作かと思った。
失礼な話だが、エノールはたまにこういうことを言う。持病ではないが、いつものようにも感じていた。
しかし、彼女の言葉からだんだんとそれがいつもとは少し違う色を帯びているのではないかと悟っていく。レガルドはエノールの話を黙って聞いていた。
「ええ、分かっている。まだ婚約もしてない。成人もしてないわ。でもね、愛する人とするのがそんなにいけないことなの?」
エノールの顔は平然としていた。まるで自分に言い聞かせるような言葉に、しかし、レガルドは気づかずに困惑した。
レガルドは間違っていた。ドキドキしているのが自分だけかと思って安心していたのだ。火に身を投じて、一緒にいるエノールが火傷をしないわけがない。
エノールはレガルドを落とすために佐藤健の記憶で男心をカンニングして、そそるような言葉を吐く。でも、それはなぜか? 何もしなくても結婚にはこぎつけるし、そもそもマルデリア公爵はレガルドが嫌がろうとエノールと結婚させるだろう。
なら、エノールは何のために身だしなみを整え、何のために最近下着を変え、何のために香水を買ったのか。いくら淑女の嗜みとはいえ、限度がある。それらが男のためというのは同性から見れば明らかだった。
レガルドは見落としている。エノールの心の中にはもう押さえきれないほどの情動が巣食っていたのだ。
「お願い、もう抱いて……私もう、無理なの……!」
「どうしたんだ、エノール? 大丈夫かい、辛いことでもあった?」
「ううん、もう苦しいのっ。苦しくて苦しくて、貴方を思うたびに触れられなくて、私もう、うんざり!」
それは年齢と立場と常識と、色んなものに恋心を阻まれた乙女の叫びだった。
エノールの精神年齢は進んでいる。間違いなく、佐藤健の記憶によって水増しされている。
レガルドとの行為を思って自分を慰めど、回数を重ねるうちに虚しさしか込み上げない。彼女のそれは性欲を発散するためじゃないのだ。有り余る愛欲をどうにかしたくて起こした代償行為。それでも、とうとう我慢ができなくなった。
エノールは初めてレガルドの前で膝から崩れる。レガルドはそれを咄嗟に抱き抱えた。
「エノール!」
「……もうお願い。私をめちゃくちゃにして。貴方の思うがままにして。貴方に孕まされても……もう私は構わない!」
「落ち着くんだ! 一度寮に戻ろう。いや、ゆっくりできる場所に行こう? ちゃんと話を聞くから、時間をとって──」
「そしたら、私を抱いてくれる?」
「っ……」
エノールは焦っていた。レガルドに愛想を尽かされるんじゃないかと、根拠もない不安に煽られて、自暴自棄になっていた。
体をあげれば心を繋ぎ止められるんじゃないか。よくない考えがエノールを支配していた。それは冬で体が冷たくなりがちで、自律神経が乱れ思春期に差し掛かったことで生理が比較的重くなったせいもあるのかもしれない。
レガルドが見たエノールの顔はそれはひどいものだった。あの可憐なエノールの顔が、ぐしゃぐしゃにひしゃげられている。
レガルドに女性経験なんてない。そもそも彼はまだ十三歳だ。経験なんてあるはずもない。
それでも、レガルドはこの事態をよくないこととして認識していた。何をいうべきかは分かっていた。
「無理だ」
「どうして!」
「君を大切にしたい」
「っ……」
レガルドはそれ以上何も言わなかった。次第に泣き始めるエノールを抱えて、とりあえず近くのベンチに座らせる。
自分の上着をかけて、寒いだろう彼女のスカートからでた足にかける。少し触るととても冷たかった。
レガルドがエノールの足を温めるために手を当てると、その手をエノールは持って、そのまま自分の股座に誘おうとする。
「っ、だ、だめだ!」
「どうして、したいでしょう? おねがい、もうだめなの、貴方がいないと、レガルドが……」
「君にはバルターさんも領地のみんなもいるんだろう⁉︎ 君の両親も、きっとこんなことは望まない!」
「そんなっ……どうして……」
「君に幸せになってほしいからだ! 君のために、君が俺を欲しがって何かを諦めるなんて絶対に許さない!」
令息は声を張り上げていった。その言葉にエノールはまたぐしゃぐしゃに泣き出す。
恐る恐る伸ばされたエノールの手を、レガルドは掴んで思いっきし引っ張った。
エノールがレガルドの胸に寄りかかる形となり、その温もりにエノールは泣いてしまった。なく少女の頭を優しくレガルドはさする。
「大丈夫だ。俺は君のところに必ず婿に行く。というか、そうしないと俺、大変なことになるから」
「すっ、すっすっ」
「君だって知ってるだろう? 俺の父が君に大層目をかけてるって。君を妊娠させたなんて知ったら、俺きっと叩っ斬られちゃうよ」
「…………その時は私が守ってあげる」
「あはは、頼もしいなぁ」
レガルドは惜しいことをしたとは思わなかった。これでいい。そんなふうに心の底から思った。
「…………ごめんなさい」
「いいんだ。だって俺らは縁談相手だろう?」
「……貴方以外に夫なんて考えられない」
「あはは、言うね」
雪が降る街の中でエノール達は肩を寄せ合う。
「ねぇ、キスしましょう?」
「……」
「だめ?」
「……その後に、ベッドに行こうとか言わないよね?」
「言わないわ。そもそも、近くにベッドがないじゃない」
「……」
「何? 自室に連れ込まれるとか考えた?」
「う、うん──」
エノールはキスをする。それは己を戒めるための自戒だ。
「その時は頑張って逃げてちょうだいね」
「……無理だよ」
レガルドは諸手を挙げて降参した。
これで第二章は終了です。次回から第三章に移ります!
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