レガルド・マルデリア公爵三男
前日に公爵の来訪はあったが、あれは非公式なもので学園や王都には一切記録されていない。それは公爵が『避妊具を求めて』『アルガルド家の』『まだ十二である』エノールにわざわざ会いに行ったという事実が風聞に晒されれば問題だからだ。
避妊具は子供を産まないためのものだ。その性能が高ければ高いほど醜悪なものと貴族の間では忌避される。だというのに、貴族の女性は妊娠することを望まないのだ。世継ぎを産んで『予備』を揃えればそれでお役御免となるのが普通である。
アルガルド夫妻のような仲睦まじく今だに夜を共にするようなケースは珍しかった。マルデリア公爵もまた政略結婚でありながらそこそこ妻を愛しているため、向こうの愛情にも応えようと話を聞き入れた。
会話の最後にこの話は内密にと釘を刺したユレグニスは、逆にエノールに諭されてしまった。
「確かに王国貴族の間では避妊は恥ずべきものとされていますが、同時に情事において女性に負担をかけたくないという男性の気遣いとも言えます。交合というのは男女における愛情表現の一つで、夫婦であれば肌を合わせることでしか語らえるものもあるでしょう。であれば、避妊具を買うことは何ら恥ずべきことではありません……と、なしをつけてきた相手に言い返せばよろしいのです。公爵は奥様思いなのですから」
「しかしな……」
「お話は承りました。私は『父の代役で』商会との仲介を頼まれ、『商会から送られた』製造方法を『領地経営のために』公爵にお譲りしたと、そう記憶しておきます。必要でない限りここでのことも他言しませんので、ご安心くださいませ」
「……」
完璧に言いくるめられてしまった公爵はエノールの評価をさらに上げ、養子を迎えようとしていたアルガルド伯爵の評価を凡愚だと相対的に下げてしまったわけだが、ともかくとして危機は去った。
しかし、エノールは自室に立てかけられた杖を睨んでいた。この杖はアルガルド家の歴代当主の持ち物や資料を保管する倉庫室で見つけたもので、先祖の品かと思いきや、そこを管理している執事長をして『そんなものは知らない』と言わしめたものだ。
その時に手放したら後日起きて自分の部屋で発見した。身が凍る思いだった。
それからも手放そうとしたら自動で戻ってくる。しかも、必ず周囲は『エノールが最初から持っていた』と証言するのだ。部屋で発見した時だって、バルターはエノールが部屋に持ち入ったという。
エノールはひとまずこの杖の機能を『回帰現象』と名付けた。怪奇と回帰をもじったのである。我ながらセンスあると思うが……笑えない。二つの意味で笑えない。
何せ『回帰現象』が起こる時は必ず周囲との記憶齟齬が発生しているのである。それらが自分の勘違いなのか、周囲の勘違いなのか……重要なことはそれが飛び上がって気絶しそうになる程怖いということだ。一度漏らしたこともある。
学園に来てからは一度も発動していない。というか、この杖には柄が伸び縮みする機能や、何とかなく力を入れた感じにするとぼんやり光る機能、それから爆発させようと思ったら爆発を起こす機能があるのだが……最初の二つは意味不明だし、最後は危険すぎて使ってない。
明らかにオーバーテクノロジーな産物に見える。そもそもが杖の先端にある球体が浮いているのだ。何だかふよふよ上下しているようにも見える。全くもって腹立たしいがちょっと可愛いと思わされるのが悔しい。なによりそうやって私の油断を誘っているんじゃないかと警戒する。全くもって言いがかりだが。
今まで犬のようについてきた杖は(全く嬉しくない)最近になって待てやお座りができるようになったようで、授業で外に出向いてもついてくることはなかった。本当に良かった。『回帰現象』が毎日起こっていたら間違いなく学園生活は崩壊していただろうし、何度か醜態も晒していると思う。学内での評判を下げないで済んで本当に良かった……
何を安堵しているんだ、私は? そもそもこの杖のせいじゃないか。この杖の爆発のせいで強盗団のアジトが爆発して(私のせい)遊牧民の代表が家に押し入ってきた(私のせい)んだぞ! こいつ、この疫病神!
そりゃあ二度ほど助けられたけど……所有者にこんなにも恐怖を与えている時点でこれは呪物だ。そうだ、そうに違いない。本当は今回の遠征にも持っていきたくはないが……あんまり離れすぎてわんわんついてこられたら私はきっと死ぬ。恐怖で心臓発作を起こして確実に絶命するだろう。私はまだ生きていたいのだ。
……二十二歳に処刑されるらしいけど。
とりあえず、これは持っていくことにする。本当に、本当に持っていきたくはないが、何かあった時に護身にはなるし……まあ、これ疲れ知らずで数百回は爆発を起こせるし、小さな砦なら破壊できるから、明らかにこの時代なら戦略兵器なんだけどね……この存在がバレたら、軍に入れられて国に使い潰されちゃうけど……あ、持っていきたくなくなった。
「エノール様ー! そろそろ行きますよー!」
「はーい!」
バルターの声がして私は自分で荷造りしたトランクケースを持って、自室を出る。左手に杖を抱えて校外学習に乗り出すのだった。
……本当にやんちゃしないでね?
校庭に学園生の全員が集められた。皆、トランクケースを持ってきた人から順に馬車に積み込んでいる。手ぶらになった生徒は周囲の人たちと談笑しながら時間を潰していた。
私も積み込みを終えようと思って列に並ぶと、何だか見覚えのある生徒が現れる。
「あっ」
「……?」
「あ、あの……」
男子生徒だった。メガネをかけていて、オラオラ系というよりちょっぴり弱腰な男の子といった感じ。彼もトランクケースを抱えていて──使用人が手伝うのは今回なしなのだ──ワタワタとしている。どうしたのだろうか、列に並ばないんだろうか。
「……」
「あ、あの……」
「……列に並ばない?」
なるべく傷つけないように笑顔を浮かべて言う。こう……『一緒にならぼ?』的な感じで。
日本にいた頃なら『何この天使……』と思ったろうな。まあ、落ちやしなかったと思うけど。昔からドライだった節があるのは自覚している。誰彼構わず打算もなしに好意を振り撒くのはそれはそれでやばいやつだ。
しかし、彼はまだワタワタとしている。うーん、どうしたんだろうか。
「あ、あの!」
「どうしたの?」
「あ、えっと……俺、持つよ」
「え、いいの?」
「うん」
「重くない?」
「大丈夫、一応、剣術習ってるから」
一応というのは私が剣術の指南役の人に褒められているのを見ているからだろうか。そんなに謙遜しなくても力勝負なら多分負けるよ?
名前も知らない彼は何故だか親切に鞄を持ってくれた。きっと積み込みをしてくれるということだろう。杖は自分で預けないといけないので、一緒に並ぶことにはなるが鞄を持っていないと随分と楽だった。なんだか申し訳ない。
「ありがとね?」
「えっと、うん……」
その男の子は終始黙ってカバンを持ってくれたので、私は世間話をして自分なりに彼を楽しませつつ、順番が来て杖を預けた。
「ありがとね、それじゃ!」
「あっ」
基本的に学園では男女分かれて行動する。今回の校外学習的なサムシングは本当に男女混合で行うようだが、出発前の整列では男女に分かれていた。
男の子にお礼を言って私は女子列に向かう。あの子、何だか可愛い子だったな。男子に可愛いっていう女子の気持ちがようやく理解できた。うん、あの子は可愛い。
取り仕切りはアルベレット先生が務めているようだ。これなら安心だと整列して、積み込みが終わると周囲が粛然とする。アルベレット先生がいるので無駄話ができないらしい。流石先生。
「これから近くのレハイアと呼ばれる森に我々は向かいます。今回は特別に男女混合で行動しますが、貴族の子弟として一線は守る事」
アルベレット先生は周囲が静かになってから話し始めた。
「森では各自食材集めを行なって、その後にキャンプとなります。泊まるのは森の中にあるコテージですが、決してはしゃぎすぎないでください。川や森は危険です。身近なところに危険があると肝に銘じて危機意識を身につけるのが今回の目的です。堅いことを言いすぎないよう注意しますが、貴方達は決して死んではなりません。ここにいる誰一人、怪我することなく帰ることを誓いなさい」
周囲は沈黙を持って肯定する。整然とした生徒達にアルベレット先生は満足そうに頷く。
「それでは前列から馬車に乗りなさい。中で喧嘩なんてしないこと。楽しい時間を説教で潰すなんて無駄極まりないですからね」
有無を言わせぬ迫力で生徒達を促した先生は一列ずつ馬車に生徒達を積み込んだが、次第に馬車内が騒然となることにアルベレット先生は何も言わないのだった。
そうして私たちを乗せた馬車は出発する。やっぱり、私はぼっちだった。
到着した森の中の川辺では生徒達がはしゃいでいる。あんなに気を抜くなと言われていたのに、アルベレット先生達も見逃しているようだ。彼らが靴を履いて濡れた場所ではしゃいでいないからだろう。
私は何ともやることがなくて、荷物から引っ張り出した書物をめくる。それは王国の治水・開墾・畑作に関する記録書だった。どういう土地でどんなことをしたのか、アルガルド領の地形は現地で視察したこともあって大体頭に入ってるから、似たような土地で開墾や畑作を成功させた例はないか探していた。
アルベレット先生には遠目で呆れられてしまった。だが怒りに来ないのは、きっとここでの過ごし方は自由だからなのだろう。中には私と同じように一人趣味に耽る人もいる。なるほど、ボッチは私だけではないのか。これは行幸行幸……
すると、見覚えのある男の子がやってくる。何とも頼りない感じで、自信なさげに、でも勇気を振り絞って話しかけてくれた。
「あ、あの、隣いい⁉︎」
「いいよ」
私は自分が腰がけていた岩の隣をぽんぽんと叩く。
何だかその子はロボットみたいな動きで隣にやってきて、ストンと擬音でもなりそうな感じで座るもんだから、思わず笑ってしまった。この子……すごく面白い。
「んふふ……」
「え? え?」
「ご、ごめんなさい、何だか面白くって」
「……」
「ああ、ごめんね。気を悪くしたわよね、ごめんなさい」
気を許しすぎてしまったことを謝る。すると、男の子はすごい勢いで手を振ってきた。
「いや、その、全然!」
「そう? ありがと」
「……何読んでるの?」
「『王国治水・開墾・畑作記録』。貴方も読んでみる?」
「……難しそうだね」
「よく言われるわ」
「……」
私が話していることや読んでいる本は難しいと同級生に言われてしまう。趣味は何かと聞かれたら読書にしようと思っていたのに、本の内容でさえ共通点は作れなかったのだ。
「……ど、どんな内容なのか、聞かせてもらっていい?」
「面白くないわよ? こんな土地で、こんなことして、こうなりましたーって、日記みたいに書いてあるの」
「へー」
「私の領地で同じことができないかなってね……うちは農業が主軸なんだけど、『ベティクート』のせいで農地を広げられないから、1タールあたりの収穫量を増やして、ついでに『ベティクート』をどうにかして畑を広げられないかなって思ってるんだけど……」
「『ベティクート』ってどうにかなるの⁉︎」
男の子は『ベティクート』のことは知っているようだった。
「遊牧民に聞いた話じゃ、群れの先頭が頭領なんだって。そいつを倒せば群れが崩壊して、他は散り散りになるから一体を確実に倒せるようになれば『ベティクート』の問題は解決したのも同然よ」
「そっか……」
「銃とかあればいいんだけどねぇ……大型の動物って倒すのが大変だし、かと言って近接戦闘で倒すのは難しいから……」
「……罠を仕掛ければいいんじゃない?」
「そう! それで、商人に色々考えてくれって頼んだのよ! それで、トラバサミとかオリとか色々試したんだけど、あいつら引っかからないのよ! 大きい獲物じゃないと罠の餌には興味ありませんって! しかも、周囲に人がいると大抵そっちにいっちゃうから誘導するのが大変で……」
「……畑の外周の、ちょっと距離があるところで罠をたくさん仕掛ければ?」
「それだと維持費がバカにならないのよ。それに、畑が広がれば広がるほど必要な罠は多くなるわ……同じ形なら、面積の平方根に比例して……って分からないか。ルート、でもなくて……面積をnの2乗にしたときにn倍の……でも無理か。う〜ん、とにかく数が必要で……」
「……くくっ」
「あれ、何か面白かった?」
「いや、何だかおかしくって……難しそうなこと言ってるのに、エノールさんのほうが悩んでるから」
「こっちの算術はよく分からないのよね……別のやり方が染み付いているから、どうしてもそっちでやっちゃって……」
「形が一緒なら、図形の相同が使えるから、面積が四倍になれば輪郭は二倍だね」
「分かるの⁉︎ 良かった〜、だから面倒なのよ。それで商業の方に注力しようとしてるんだけど……今度はこっちも大変で。都市には犯罪者が蔓延って、都市間の交易も賊や強盗団が襲ってくるのよ〜? しかも、領内にいる遊牧民まで商人を襲う始末で……代表の奴に『どうにかしろ〜!』って抗議したわ」
「ははっ、エノールさんって面白いんだね」
彼の反応を見て安堵してしまう。男子の人たちも無理して話を合わせたりしてくれるけど、私の話はやっぱりつまらないみたいで……多少自信をなくてしてたから、楽しんでもらえて良かった。
「他には話ないの?」
「他? えっと、七歳の時に領地を回った話なら」
「七歳に? なんで?」
「うちの領地って税の半分を騎士たちに取られているの」
「それは……ひどいね」
「でしょう⁉︎ しかも、あっちは問い詰めてもきっと知らんぷりするわよ! きっとこっちを舐めてるんだわ……私、星見の儀式で家督を継ぐことが決まって、もちろん予知は絶対じゃないけど、女伯爵になったら絶対苦労するでしょ? だから、子供のうちから面識を持っておこうと思ったの。お互いに顔を知っていて……相手の顔を知っていて、自分も顔を知られてたら表面上は生意気なことしようと思わないでしょ」
なんだかいつもより饒舌に話してしまっている気がする、この子の前だと話が弾んでしまうような。
「あはは、確かにね」
「だから、仲良くしましょうね〜って釘刺して置いたの。ついでに厄介ごとを頼んだりしていいように使ってね。うちでは診療所の建設が進んでるんだけど、全部騎士に資金を出させてるの」
「なんで?」
「腹立つからよ」
「あはは!」
私の言葉にその男の子は随分と笑って『エノールさんってやっぱり面白いんだね』なんて言われた。どう思われていたんだろうか。
そう聞いてみると、男の子は率直な感想を伝えてくれた。
「傍目から見たエノールさんって凄くて……馬術や剣術の先生は『天才だ』って言うし、政治や内政や軍事の先生も『只者じゃない……』っていうから、ちょっと近寄りづらかったんだけど」
「ぶっちゃけるわね」
「悪い意味じゃないよ。ほら、俺なんかが近づいていいんだろうかって。いつも周囲には人がいるし、俺は馬術も剣術も苦手だから……」
「私だって人付き合い苦手よ? 周囲に人がいるって言ったけど、それは男子のみんなが優しいからよ。私が女子だからチヤホヤしてくれて、私はその恩恵に預かっているだけだわ」
「そんなことないよ!」
急に男の子は立ち上がって熱弁する。
「エノールさんは綺麗だし、頭もいいし、素敵だと──!」
「……くすっ」
思わず笑ってしまうと、彼も顔を赤くしながらそれでも続けてくれる。
「あっ、えっと、そう……俺は思うから。だから、女子だから、だけじゃないと思うよ。他の人でも確かに人だかりはできたかもしれないけど、それこそ女子だからで……他の女の子ってなんだか近寄りづらいよ」
「あら、私もさっき近寄りづらいって言われたんだけど」
「あれは! 俺がそう勝手に感じるだけで……」
「私の気持ち、分かってくれた?」
「うっ……ごめんよ」
「んふふ、その顔が見れただけで満足よ」
そう言って笑ってみる。本心ではある。ただ、佐藤健ならこんなこと言われたら惚れちゃうだろうなってことを意識しながら、少しだけ言い方を変えた。
案の定、彼は俯いてしまって……少し悪いことをしたかなと思ったけど、すぐにその頬が赤いことに気づいてやっぱり可愛いなと思ってしまった。
心を弄んでいるようで、いや実際そうだから、悪女になった気分だ。これが悪役令嬢というやつか。そういえば、アルガルド家は王族殺しの末裔なんて言われているから、その娘である私は立派な悪役令嬢だ。
「……エノールさんは、何というか、他とは違って嫌な感じはしないっていうか」
「あら、私はあんまり他と違うのは嫌いよ?」
「そ、そうなの。ごめん……」
「……距離を取られるのは悲しいから」
私の言葉に男の子はすぐに──
「な、なら、俺が近づいてもいい⁉︎」
「……」
「……」
「……今の、先生に聞かれたら大目玉よ」
「そうだね、ごめん──」
「もう謝らないで」
「えっ?」
「ありがと」
少しだけ心が軽くなった。だから、お礼に──
「ちゅっ」
「えっ……」
「どうしたの? ほっぺたよ? 感謝の印じゃない」
「そ、そうだね……感謝の印」
「ちなみに、男の子にしたのはこれが初めてだから」
「えっ⁉︎」
ああ、ニヤニヤしてしまう。純情な男の子の心を弄ぶのは良くないって分かってるのに、男心をカンニングしてしまってるから、きっとこうされると好きになっちゃうんだろうなって咄嗟に思いついて行動してしまう。思いつきって怖い。
楽しい……私、悪女の才能があるわ。佐藤健が嫌いな女になってると思う。でも、仕方ない。私は記憶を引き継いで入るけど、明確にエノールと佐藤健は別人なのだから。
彼はドギマギして、俯いて、オロオロして、そんな様子を私はじっくり眺めた。いつまでも座らず突っ立てても仕方ないので、手を引いて隣に座らせる。意図せずさっきより近くなってしまった。このぐらいはいいだろうか。
「……」
「それで? 他の女の子がどうしたの?」
「ああ、いや……何でもない」
「何よ、気になるじゃない」
彼はまるで私に浮気を追求されているようだった。私と話しているから、『他の女子』のことを話すのは野暮だと思ったのかもしれない。私は男の視点も持っているからそんなこと気にしないし、そもそも手遅れだと思う。
「……あの、他の女子は──」
「うんうん」
「……他の女子は、何というか……女の子らしいから」
「ダメなの?」
「ダメじゃないけど、何というか、癖があるっていうか、まどろっこしいっていうか」
「あー」
「……?」
分かる。めっちゃわかる。エノールとしても共感できるし、佐藤健としても共感できる。
「だから、その、エノールさんは向日葵みたいで、カラッとしてて、可愛いな、と……」
「あら、もしかして私、口説かれてる?」
「……」
男の子は唇を真一文字に結んで黙ってしまった。
『揶揄われてる?』と聞こうとして咄嗟に言葉を変えた。単なる軽口だったんだけれど、男の子はまた頬を赤くして、真剣に黙ってしまう。
「うん……」
「えっ……」
「……」
その返答には私も予想外だった。まさか、この子がそんなことを言うタイプだとは思ってなかったからだ。
まるで突然ハシゴを外された気分だ。何というか、意外というか、悪い気はしない。単純に好意を向けられて嬉しく思う。
こういう時どうしたらいいんだろう。あれ? 何だか急に焦ってきたぞ? さっきまでお姉さんムーブしていたのが台無しだ。
そのまま沈黙が流れる。川のせせらぎと生徒の喧騒が私たちの静寂を彩った。
男の子はバツが悪くなって立ち去ろうとして、私はそれを手に手を重ねて引き止める。
(別に、嫌だったんじゃないし……逃げなくたって……)
「どこ行くの?」
「……」
「もう少し、ここに居てよ」
「……うん」
『一緒に居て』とは言わなかった。まだ自分の気持ちが定かではないし、そもそも私の結婚は私の感情が裁量していい問題ではないから、中途半端に気を持たせるようなことは言えなかった。
それでも引き留めたかったのだ。
あまり意識させるような直接的な言葉は使えなくて、咄嗟に『一緒に居て』ではなく『ここに居て』となったけれど、間接的で余計意識させてしまったかもしれない。
それからまたポツポツと話し始めた。家の領地のことや屋敷での生活、貴族の子息あるあるやら読書についてを語った。
確かその子は軍事で特にいい成績を修めていたと思う。軍事方面は私の門外だから、知識で言えば彼の方があるだろう。先生は私を褒めてくれるが、それは軍事が経営の部分とかぶっているからに他ならない。実際、兵法や戦術に関しては彼の方が造詣が深いと思う。
そう言えば……と、男の子の名前を思い出そうと先生になんて呼ばれていたか記憶の底から掘り起こして、その名前が出てきたところで、私は彼の方を見つめた。
「貴方……レガルド・マルデリア……?」
男の子は少し驚いたけど、すぐに仕方なさそうな笑みを浮かべて──
「やっと気づいた?」
「っ……」
私は手のひらで踊らされていた。
こんな子供に……なんて思うわけではなかったけど、それでもいいように操られた気がして、それは私の領分なので妙に悔しかった。
意趣返しに岩から降りて、振り返る。
「べーっ!」
「あっ」
私はそのまま走り去った。この胸の高鳴りは一体何なのか。
きっと久しぶりに走ったからだ。そうに違いない。
私はアルベレット先生の元に向かって走り出した。




