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霧の八峰山  作者: ウチダ勝晃
第三章 神域の少女

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神域の少女②

 原稿を片付け、宿で夕食を済ませると、真樹は少年や井村を率い、足取り重く、懐中電灯片手に夜の八ヶ峰神宮へと向かった。しぶとく西の方へ残っていた茜色の空も消え、どこで寝ぼけたセミの声が時折交じる、午後八時ごろのことである。

 さすがにこの時間ともなれば、人また人の門前の様子も穏やかなもので、山のようにはためいていたのぼり旗はどこかへ消え、二、三人、湯治客らしい浴衣姿の男女とすれ違ったほかは、まるで別の場所へ躍り出てしまったかのように、ひどく、不気味な静けさを孕んでいる。

「――時間が違うだけで、こうも変わるものなんですね」

 真樹の左後ろで、少年と一緒になって懐中電灯を握っていた井村が、ぼそりと呟く。

「まあ、田舎に来ればどこもこんなもんさ。むしろ、傘岡の夜がうるさすぎるくらいなんだよ」

「でも、そのほうが僕や真樹さんにはありがたいと思うんだけど……そこンとこはどうなの?」

 少年の言葉に、真樹はしばらく考えてから、ま、便利なのは悪いと思わないかな、と、肩をすくめて返す。そんな話を繰り広げるうちに、一行は五十尺の大鳥居の前に躍り出、懐中電灯の光の輪を三つ、誰が言うともなしに額の方へと振り上げた。豪胆な揮毫の「八ヶ峰神宮」の金色をした五文字が、暗がりの中で鈍い輝きを放っている。

「――さて、ここからどうしたものだろう」

 速射ケースを首から提げた真樹は、慣れてきた夜目でじっと、境内の中の様子を伺った。奥に見える本殿は、四方を囲む板戸がぴっちりと閉じられ、アリの這い出る隙もない。手水場の奥にある社務所も一瞬目に留まったが、わざわざ宮司に顔を出すには事情が込み入っているから、会うわけにはいかない……。

「二人とも、どうする。我々は人目を忍んで、しかも合法的に動かねばならんらしい」

「真樹さん、あんた破防法の適用案件になるつもりだったのかい」

 少年の茶化しに真樹は肩透かしを喰ったような気分になったが、当たりを憚って怒るに怒れず、渋々、三方に散って、境内や裏手の雑木林の中を追いかけることにした。

 少年と井村を割合安全と思われる境内の左右へ回すと、真樹は用心のために巻いた足元のゲートルを締めなおし、いつでもシャッターを切れるよう、フラッシュをつけたカメラの角を、力を入れて握りながら、林へ続く細道を歩き出した。

 神宮の持ち物なのか、林へ入ろうとする道筋には「不用意に立ち入ることなかれ」という、半ば腐りかけた立て札が何本も立っていたが、かといって有刺鉄線などがあるわけでもなく、単に神域としての誇りを傷つけまいとする程度のものらしいとわかると、真樹は札などお構いなしに、その中へと潜り込んだ。手入れの行き届いた林には背丈を超えるような草はなく、どこかの営林署と見まがうようにきれいに間引きのされた樹々が、その合間合間から星空を覗かせてそびえたっている。

 ――昼間だったら、写真の撮りがいもあるんだろうがな……。

 夜目にもまぶしい、星のまたたきをちらりと見やると、真樹は上着のポケットからもう一台の小型カメラを取り出し、フラッシュなどをはめるホットシューという台座へ、四角い懐中電灯のようなものをはめた。四角い電灯の正体は、人の目には見えない夜間撮影用の赤外線ランプで、小型カメラにはそれをとらえられる、赤外線フィルムが装填してあるのだ。

 それらの支度が済みと、張りつめていた緊張がいくらか抜けると、真樹はズボンのポケットへ押しやった小ぶりの魔法瓶を出して、中に詰まった、宿の親父の淹れたコーヒーを、眠気覚ましに口へと含むのだった。

 しばらく、林の中を行ったり来たりし、木の幹や皮に奇妙な引っかき傷、溶けて腐ったような跡がないかを探っていた真樹だったが、こういう時に限って、いつかのモデルロケットのようには物的証拠は転がってこず、いたずらに時間だけが過ぎようとしていた。

「やつら、もうそろそろ手水場のほうに行ってるかな……?」

 あと数分もすれば、約束した集合時刻になってしまう。なにも得るもののないままに手ぶらで帰るのがシャクな真樹は、しばらくその場でいらいらと足元の雑草を踏みしだいていたが、耳の中へそっと飛び込んできたある音に、ハタと動きを止めた。

 人家の明りも一切見えない雑木林の中へ、どこからともなく、涼しげな鈴の音が聞こえてくるのである。

「軒の風鈴にしちゃあ、音が近すぎるな……」

 家の軒先に吊るされた南部風鈴にしては音が鈍い、と踏んだ真樹は、案の定近づいてくる音の出所を探ろうと、背の低い草の中へ腹ばいになり、赤外線フィルムのつまったカメラのレンズをそっと、今来た細道の方へ向けた。

 そのうちに、ぼんやりとしていた音の輪郭がはっきりとして来、そのディテールが露わになり、真樹はおや、と首を傾げた。山奥に不釣り合いな駒下駄のからころと砂利を踏む音がべちょん、べちょん、といういつかのあの気味の悪い音と、あのふんぷんたる臭気が、目の前の道路を過ぎてゆこうとしているのである。

 ――おいでなすったな!

 用意しておいた脱脂綿を鼻栓がわりに詰めると、真樹は下手なほふく前進で細道へ近寄り、ファインダー越しに相手をにらんだ。やがて、小さなガラス窓越しに鈴の音を率いた小さな人影と、あのびちびちという音と臭気を孕んだ、大型ダンプもかくや、というような、芋虫にも似た奇妙なシルエットが現れると、真樹はホットシューに着けた赤外線ランプのスイッチを入れ、しきりにシャッターを切った。

 ――頼むぞ、これで写っていなかったら、真樹啓介一生の不覚だ。

 夜目にも精一杯の暗がりなのと、元々ファインダーのレンズが薄暗いつくりをしているせいもあって、真樹の目にはただ、二つの影が過ぎてゆくさましかとらえられず、どうにか写っていてほしい、という念じるような思いのうちに三十六枚撮りのフィルムは空になり、あとには静かな、田舎の雑木林と細道が残されていた。

 辺りに件の二つの影がないのを確認すると、真樹はゲートルの足元で一目散に、少年と井村の待ち構えている、境内の手水場へと急いだ。

「わっ、な、なんですかあなたは……!」

「落ち着けよ井村くん。こりゃあ、見てくれこそ悪いが真樹啓介氏に違いないぜ。」

 暗がりの中から、草や枯れ葉を上着にまとった真樹が飛び出てきたのに二人はちょっと驚いたが、真樹の手に赤外線フィルム入りのカメラが収まっているのに少年が気付くと、その場の空気は途端に緊張を帯びたものへと変わった。

「真樹さん、あんた、なんか見つけたらしいね」

 少年がにやりと笑ってみせると、真樹は服にこびりついた枯れ葉や草の切れ端を払い、

「ああ、大いに収穫があったよ。ひとまず、話は宿に戻ってからだ。うっかりとぐろを巻いて、跡をつけられたりしたらかなわないからね……」

 真樹の言葉に、二人は辺りの様子をそっと伺った。幸いなことに、境内には常夜灯の他は何も見当たらず、この場にいる三人以外の気配は微塵も感じられなかったが、善は急げと、真樹を先頭にした一行は、真夜中の八ヶ峰神宮の境内を抜け、元来た道を転げるように走るのだった。

 淡い雲越しに、半月がぼんやりと光る、夏の夜のことである。


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