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秘め恋  作者: 蒼崎 恵生
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諦めを覚えた胸


 玲奈が力一杯放り投げたガラス製の器はマサが盾にした木製トレンチに勢いよく当たり落下する。中身の砂糖は派手にこぼれ、瓶はあっけなく割れた。飛び散ったガラス片に玲奈の怒りがにじんでいるようだった。


 怪我はないものの、マサは反射的に顔をしかめる。アオイはすぐさまマサに駆け寄った。


「大丈夫!? 怪我してない?」


「全然大丈夫です。店長は?」


「ありがとう。マサのおかげで何とか」


 気丈に答えてみるものの、アオイの表情は怯えに染まっていた。それでも彼女は自分の立場を忘れず、玲奈に真摯な視線を向けた。


「玲奈。話なら外でしよう。お客様の前だから、お願い」


「あえてここに来たに決まってんじゃん! 馬鹿かよ。誰がお前の指図なんて受けるか!」


 アオイの言葉を無視し、玲奈はヒステリックに喚き立てる。その口ぶりは、これまで清楚な雰囲気を保っていた玲奈の印象からは遠くかけ離れた乱暴なものだった。アオイに向けてはもちろん、店内の客や従業員に向けて大声で言葉を放つ。


「みなさーん。聞いてくださーい。この女は一見真面目で美人で有能な店長で通ってますが、とんでもありません! 自分の美貌を利用して私から大事な婚約相手を奪ったとんでもない女なんですよー! なのに今は、旦那に構われない寂しさから従業員の年下君に色目を使って誘惑してるっていうねー。尻軽なんですよー。どう思いますー?」


 やめて。


 強くそう思っても、アオイは玲奈の言動を止められず、ただその場に立ち尽くしていた。全て玲奈の言う通り。こうなったのも自業自得なのだ。玲奈に許してもらえたと勘違いしていた自分を心底恥じた。客や従業員の前で過去を暴かれ、奈落の底に突き落とされるようだった。目の前が真っ暗になる。足元から波打つ様に全身が震え、じょじょに立つことすら難しくなってきた。それでも、かすかに残る気力のみで玲奈の前に居てみせた。ただ、そうしていることしかできない。それが今の自分にできるせめてもの罪滅ぼしだと感じた。


 恐る恐る視線を店内に巡らせると、客達が心配そうに、あるいは軽蔑の眼差しでこちらを見ていた。面白半分に動画を撮影する若者も居る。アオイは絶望感に打ちのめされた。この店はもうお終いだ、と。それでも、玲奈の傷ついた心の落とし所になるのなら、店が潰れることなど小さいことなのかもしれない。そう思うしかない。


 玲奈。ごめんなさい。私はあなたを深く傷つけ、のうのうと生きてきました。


 言葉にして謝らなければ。頭では分かっているのに口が動かなかった。石膏せっこうで固められてしまったかのように、口はおろか全身が動いてくれない。自分の体なのに自分の意思で身動きが取れなくなっている。ただただ心のみが反応し、涙が溢れそうになった。決して簡単な心意気で始めたカフェ経営ではなかった。強い目標を掲げてきたのに。自分の愚行でそれを失ってしまうかもしれないことがひどくつらい。悔しい。


 何で私はひとしじゃなければいけなかったんだろ。大切な親友の彼氏だったのに。二人の幸せそうな姿を見てなぜ諦められなかったのだろう。なぜ。どうして。


「いい加減にして下さい。他のお客様のご迷惑になります」


 アオイの思考を遮断したのはマサの声だった。それは玲奈に向けられたもので、深い憤りの色に満ちている。玲奈は不服そうに怒鳴った。


「皆さんこの人ですよー! 店長に籠絡ろうらくされた年下君は! この店の店長は男に甘えるしか脳のない馬鹿な経営者なんでーす!」


 玲奈の狂気に溢れた言葉は、店内を穏やかに流れていた午後のひとときを簡単に壊していく。


「店長はそんな人ではありません!」


 マサは手にしていた木製トレンチを傍のカウンターに放り置き、玲奈の腕を強く引き出入口まで引っ張っていこうとした。


「放せー! アオイの下僕がー!」


「いくらお客様でも聞き捨てなりません。従業員は皆店長のことを信頼し尊敬しています。あなたにそんな風に言われていい人ではありません!」


 玲奈の暴走につられるように、マサも感情をむき出しに抗議した。パート勤務の女性と初老の女性客が、二人のやり取りを止めるべきか否かを話し合っている。こんな時マサに加勢してくれそうな真琴まことも今日は休みだ。当事者のアオイは玲奈とマサの攻防を傍観者のように眺め、情けなく、そして喜びで胸を砕かれそうになっていた。


 マサ……。


 自分を守るために必死に玲奈を店から追い出そうとしているマサを見て、アオイの体はするすると本来の動きを取り戻していく。先程まで一ミリも動けなかったのが嘘のように。


「玲奈、ごめん。本当に、これ以上は……」


 マサと共に、玲奈を出入口の外まで連れていった。マサの力添えもあり、何とか彼女を外に連れ出すことができた。数人の客達は事の行く末が気になるようで店外の様子を伺っていたが、マサもアオイもすでにそこまで気が回らない状態だった。玲奈を落ち着かせなければならない。店外に追い出されてもなお、玲奈は声を大に主張をし続けた。


「慰謝料払えよ! 当然だろ? 私の幸せ粉々にしたんだから!」


「玲奈の望む額を払うよ」


 アオイはすんなり応じた。マサがそこへ止めに入った。


「いや、待って下さい。慰謝料なんておかしいでしょ! 店長は何も悪くないですよ! それを言うなら、むしろあなたの方に慰謝料の支払い義務があるはずですけど」


 以前どこかで見聞きした情報を元に、マサは言った。不倫発覚の際に生じる慰謝料問題。この場合、アオイから玲奈に請求できても、玲奈からアオイに請求する権利など無いはずだ。そのことを玲奈はもちろん理解していた。散々わめいて気が済んだのか、あるいは気力が消耗したのか、玲奈はそれまでの勢いをぱたりと弱め、つぶやく。


「ははっ。これが結婚の《効力》かー」


「玲奈……」


 アオイの顔は真っ青だった。


「ねえ、アオイ。どうして私が悪者扱いされてるの? 普通逆だよね? 理不尽だよ、こんなの……」


「……謝っても足りないけど。謝るしかできなくて本当にごめんなさい」


 限界のところで保っていた気力も底をつき、アオイはその場で足を崩しへたり込んだ。前かがみで地面を両手につくことで何とかそこに居られるといった感じだ。玲奈は店へ尋ねてきた時の荒々しさをまるで失い、おぼつかない足取りで西の方向へ去っていった。警戒しつつ玲奈の背中を見送り再び襲ってくる心配がないことを確認すると、マサはアオイの肩を両手で守るように触れた。


「店長、今日は家に帰って休んで下さい。後は俺達で何とかするので」


 店内でガラス片の片付けをしている女性パート従業員に視線をやり、マサはゆっくりアオイを立たせる。


「ごめんね、マサにまで迷惑をかけて……」


「気にしないで下さい。仕事ですから」


 弱った彼女を見てマサは強い既視感を覚えていた。高校時代、リオと寝たことで自分の悪評が広まり同級生から冷たくされていた頃の光景が脳裏によぎる。


 あの頃の俺と今のアオイは、同じだ。


 このような状況に置かれてしまったのは、おそらく誰から見ても自業自得。先に人を傷つけたのは自分なのだから、助けてほしいだなんて言える立場ではない。それでも、罪を作ってしまったことを誰かにありのまま認めてほしいと思ってしまう。身勝手極まりないのは重々承知だが、許されたいとも願ってしまう。


「送っていきます」


「大丈夫。すぐそこだし、一人で平気だから」


 マサにこれ以上迷惑をかけられない。アオイは笑顔を作って見せたが、無理を隠せなかった。


「俺の前ではもう意地張らなくていいよ。すでにけっこう色々話した仲なんだし」


「マサ……」


 そんなことを言われたら、抑えていた感情が溢れてやまない。マサに支えられた背中に彼の腕の温もりを感じながら、アオイは涙をこぼした。自分の至らなさをこれほど痛感した日はなかった。そして、それ以上に、こんな自分を否定せず受け止めてくれるマサの存在が嬉しかった。


 この腕も期間限定のものだと覚悟している。マサには短期バイトで店を去ってもらうつもりだ。意外にも彼は長期勤務を望んでくれたが、アオイは内心それには反対だった。バイトに入ってもらうことで彼の大学生活の負担になりたくないのは当然だが、それ以前に、もうすでに自分の気持ちが制御できないほど膨らみ過ぎている。仁とも簡単には離婚できそうにない。そんな身でマサに思わせぶりなことはできない。彼の時間をいたずらに奪えない。ただでさえ過去に一度間違いを犯した身。二度目の失敗は許されない。全世界が許してくれたとしても、今マサの手を取ってしまえば自分で自分を許せなくなりそうだ。それこそ、一生涯。


 様々な思い。涙がどんどんこぼれてくる。アオイは両手のひらでそれらを拭った。


「泣く資格ないのに……。こんな自分が嫌になる。ごめんね。マサ……」


「謝らないで。今、すごく嬉しいから」


 マサは、腰に巻いていた店用エプロンを外し綺麗な内側部分でアオイの頬を拭った。


「ごめんね、これしかなくて」


「お願いだから、もう優しくしないで……」


「優しくしてないよ」


 無意識の行動だった。マサにとっては。


 普段通りの口ぶりで紡がれる会話を繰り返しつつ、アオイの自宅へ到着した。長いような短いような。距離にしたら店から目と鼻の先にある、アオイと仁が住む夫婦の家。店からとぼとぼした足取りのアオイと真逆に、マサは妙な心地でアオイ宅へ足を踏み入れた。アオイのプライベート空間。以前アオイの実家には行き、その時もそれなりに緊張はしたが、あの時とはまた違う種類の妙な感覚がマサの胸に広がる。


 夫婦の家は、アオイの実家ほどではないもののインテリアや外観にこだわったと思われる洒落しゃれた造りをしており、マサの感覚で言うと豪華だった。アパート暮らしの平凡な大学生をしている自分とはかけ離れた暮らしをしている、いわば大人なのだと言う事を改めて感じた。ただ、その件については全然気にならなかった。アオイが自分より大人なのはとうに理解していたし、年の差など恋の前ではき消えることをマサはすでに体験している。そんなことよりも、夫の物だと思われる男物の靴が脇に寄せてあることの方がひどく気になった。仁が休日に履くスニーカー。有名なスポーツメーカーの物だ。


 今、アオイの身体を支えているのは俺なのに。


 この靴の持ち主は、当たり前にここへ帰ってこられる男。容易く妻を傷つけておいてもなおのうのうと、自分がこの家の住人である存在をいくつも家に残しておける脳天気な奴。アオイで満足できないような奴が住んでいい家なのか。他の女がいいならさっさとこの家から出て行けばいいのに、なぜまだ居座っている? マサの中で、瞬く間に黒い感情が込み上げた。さきほどの玲奈への怒りも相当濃厚で瞬発的なものだったが、それとは別方向へ突き抜けてネガティブな色をしている。


 待って。冷静になれ。旦那がいるって、ずっと前から知ってたじゃん……。


 こんなにも誰かを排除したい気持ちに押し流されそうになるのは初めてで、マサは自分に困惑した。気を紛らわせて頭を冷やすため、接客スキルを発揮しスルスル言葉を発してみた。


「いいとこ住んでるね。旦那が羨ましいなー。うち玄関も通路も狭いし」


 軽い冗談のつもりだった。なのに、口にした途端わりと本気で皮肉を言ってしまっている自分に気が付いた。とんでもないことを言ってしまったと、次の瞬間には強く後悔した。完全に旦那の存在を無視した発言。アオイの気持ちなど全く考えていない身勝手な言葉。冗談にしても質が悪い。仁の浮気発覚の後の玲奈の突撃。度重なる苦しい出来事でアオイは傷ついているというのに。


 ごめん……。


 謝ろうとしたが言葉が出ない。マサは口をつぐんでアオイの様子を伺った。自分より背の低いアオイの肩を支えている体勢なので、角度的に彼女の表情が見えない。嫌われた可能性に不安と後悔が溢れてくる。それでも謝罪の言葉は出てこなかった。今のは、生まれて初めて好きになった女性への偽りない想いを初めて露骨に口にした瞬間だった。皮肉というまことに可愛げのない内容ではあったが、好意の表現に違いない。鈍そうなアオイでもこれはさすがに気が付いてくれるはずだ。精一杯考え我慢なども重ねた末に零れてしまった気持ちのしずく。何よりも大切に心に秘めていたものに、謝る要素があるのだろうか。


 指をくわえて見ているだけなんて、しょせん無理だったんだよ。


 気が付いてしまった。アオイの唯一無二の存在になりたいと。友達の距離では不満だと。今までは、アオイのためだとか困らせたくないだとか言ってサバサバした男を気取っていたが、そうではない。ただ単に、振られて傷つくのがこわかっただけだ。アオイは既婚者。旦那に浮気されようが、その浮気相手の女に滅多打ちにされようが、妻の立場は揺らがない。玲奈も言っていたが、それが結婚の効力だ。たかが紙切れ一枚のことだと安易に考えていたのが間違い。それは、想像以上に夫婦の関係を崩せない壁になりうるのだ。そんな相手に恋を打ち明けたところで無駄なのは目に見えていた。だから、初めから諦め友達の関係へ逃げようと決めた。


 もちろん、友達のままアオイを支えたいという気持ちも、好きでいられるだけで充分という気持ちも、その時その時では本音のつもりだった。けれど、こうなってしまうともはやそれらは綺麗事だったのだと認めざるをえない。


 カッコつけてただけだ。俺は……。


 好きだから。

 他に代わりのいない大切な存在だから。

 自分が幸せにしたい。

 それの何が悪い?


「アオイ。もうさ……」


 旦那と別れて、俺と付き合ってよ。


 紡ごうとした決死の告白は、アオイのひょうきんな声に打ち消された。


「ありがとねー、マサ。もう大丈夫」


 肩にあったマサの手をやんわり外し、彼の言葉などまるで聞いていなかったかのようにけろりと笑っている。


「なんかね、泣いたらスッキリした。久しぶりに子供みたいに泣いちゃって。ビックリしたよね、ごめんねー。あ! お礼と言うにはあれだけど、お茶してく? 店用レシピの考案中で、試作で何度か練習してたパンケーキがあるんだけど、作り過ぎちゃったから冷凍して取ってあるんだ。すぐ温めるから上がっていって。ね!」


 完全にペースを持っていかれてしまった。良くも悪くも接客スキルの賜物たまものなのか、マサの皮肉など平然と受け流し、いつもの様子でアオイは彼をダイニングルームまで案内した。スペースの広さが手伝って生活感が失われたモデルルームのような内装。


「今日は家政婦さんにお休みしてもらってるの。手際悪くてごめんね」


 今この屋内に二人きりなのを暗に匂わせているアオイの言葉。マサは思う。本気で鈍感なのか、こちらの好意に気付いて逃げたのか。どちらとも取れるアオイの反応に胸がつまる。整然とした調味料の棚。光沢を放つ大理石のシンク。家電製品。冷蔵庫。勝手は違うが店内の要領でやれば何とかなるかと、マサは動いた。


「レンチンでしょ。後はやるからアオイは座ってて」


「さっきは倒れたけど、ほんともう大丈夫だから」


「ならせめて手伝うよ」


「じゃあ……。冷凍室からパンケーキ取ってくれる? 抹茶味だから色見たらすぐ分かると思う」


「あ、コレかな」


 アオイの振る舞いに合わせつつ、マサは悔しくもあった。結局ここが自分の立ち位置なのか、と。それでも帰るとは言えなかった。本当に悔しい。だけど、やっぱり、彼女と共有する時間そのものがただ嬉しかった。ほんの数秒前まで、今のままでは満足できないと嘆いていたはずなのに。


 アオイって、天然なの?


 心の中で嫌味をつぶやく。優しく柔らかい心持ちで。


「マサ、抹茶ラテ好きでしょ? だからパンケーキも抹茶がいいかなーって」


「よく覚えてますね」


「記憶力だけはいいねって、昔先生とかが褒めてくれたの」


「だけ、って。先生褒め方間違ってるし」


「親はそういう事全然言わないタイプだったからさ、私にとっては充分嬉しかったんだよー」


 ほのぼのムードの楽しい会話にも、アオイの自己肯定感の低さが垣間見える。それすら愛しさの材料になってしまう。


 アオイは鈍いよ……。さすがにさっきのは気付くでしょ? ううん。この感じ……。本気で俺の気持ちには気付いてない?


 アオイは浮かれた声で話す。


「親とこうして家の中で一緒におやつの準備した記憶も、あんまりないなー」


「旦那は? 休みの日くらい、家政婦抜きでこういうことしてるでしょ?」


「さあ。どうだろうなー。記憶にございません」


「政治家か!」


 アオイは茶目っ気たっぷりに笑って見せた。その笑顔がもう可愛くて、可愛くて、守りたくて、仕方ない。


 重症だ……。


 期待させるような会話は本当にやめてほしい。アオイの気持ちを勝手に都合よく想像して浮かれてしまうから。罪作りな人だ。そう思うのに、思わせぶりでもいいから彼女の笑顔を何度も見たい。この距離感のままでもいいから。マサは別の意味で諦めを覚えた。自分に対しても、アオイに対しても……。










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