心の拠り所
アオイは平静を保つので精一杯だった。気付かれてはいけない。この気持ちだけは。マサの好意を感じ、それを嬉しく思ってしまう自分がいた。
私は結婚してるんだよ。
自分に強く言い聞かせる。夫婦のための家。いつも空虚に見えた空間がやけに色鮮やかに見える。マサがそこにいるというだけで。
アオイが作ったという、抹茶風味のパンケーキ。二口ほど試食し、マサは言った。
「美味しい。正式にメニューに出してみたら?」
「そうしたかったけど……。あんなことがあったし、店はしばらく休業かな」
玲奈が店で起こした騒ぎ。見ていた客の間で噂が広まるのも時間の問題だろう。そんな状態ではとても集客なんて見込めない。アオイは当然店を休むつもりでいたが、マサは納得がいかなさそうである。
「せっかくこうやって新メニューも考えたりしてるのに……。休むなんてもったいないね」
「そうかもしれないけど、今はとても普通に営業できないと思う。最悪お客さんに迷惑がかかる。玲奈もまたやってくるかもしれない」
「その時は俺が何とかする。今日は力不足でごめん」
心底申し訳なさそうに視線を下げるマサに、アオイは胸が締めつけられた。
「マサが謝ることない。全て私がまいた種なんだから」
「……玲奈さん、やりすぎだと思う。業務妨害になるんじゃ」
「あそこまで追いつめてしまったのは私だから。慰謝料払ったって済む問題じゃないんだと思う」
「そうだとしても。だったら、アオイが結婚する前に阻止することだってできたはず。今さら店であんなこと言って騒ぐなんておかしいよ」
どこまでもこちらの味方をしてくれるマサ。アオイは頬が熱くなっていくのを感じた。
「嬉しいよ。マサの優しさ。だけど、もうすぐマサはこの店とは無関係になる。だから、自分のことを第一に考えてほしい」
「俺はしたいようにしてるけど」
まっすぐにこちらを見るマサ。アオイは思わず動きを止め、彼に見入ってしまった。逸らしたいのに逸らせない。重なった視線から、言葉以上の何かが伝わってくるようで。
「マサは学生でしょ? そっちに専念しなきゃ」
「学業とバイトの掛け持ち、余裕だよ」
マサの視線は逸らされることがなかった。こちらの心をくすぐるような、様子を伺うような、心地良い目線。
「ダメ」
きっぱりと、意識して強く、アオイは言った。
「マサには九月いっぱいで辞めてもらいます」
わざと敬語で、マサに壁を作る。
「この先もバイトを続けてくれるって言ってくれた時、正直嬉しかったよ。マサにはいつも助けられてる。だけど今は普通じゃない。経営者として、こんな時こそ人の手を借りず一人で立たないと」
「無理してない?」
「無理が必要な時もある。自分のせいだし。落とし前は自分でつけないとさ」
「アオイが決めたなら。店長はアオイだから。分かったよ。だけど、俺は続けたかったよ。アオイのそばで」
店の今後の経営。マサはあらゆることを心配してくれているようだった。その気持ちはありがたい。でも、このままマサに甘えるわけにはいかなかった。
私はもう、失敗できないんだよ。
分かってほしいなんて言わない。ただ黙ってここを立ち去ってほしい。マサに。
じゃないと、歯止めが効かなくなるから。
このままマサのそばにいたら、きっと本当に好きになってしまう。現に今、仁の浮気に落ち込み過ぎずいられるのはマサの存在のおかげだった。玲奈の件もそう。もしマサがいなかったらこんなに平然としていられなかっただろう。
「マサは充分助けてくれた。これからは自分のためだけに力を尽くしてほしい」
本心であり、取り繕う言葉。
こんな風にしか好意を示せない。
アオイの予告通り、九月三十日をもって、マサはイルレガーメを辞めた。従業員のほとんどはアオイを信頼してくれたが、一部の者は玲奈の件で自主的に辞めたいと申し出てきた。その分アオイはシフトの穴埋めに回った。客達の間でもアオイに関する良くない噂が回り始めていた。そんな時に戦力のマサを失うのは心細いし正直なところきついが、どうしてもマサにだけは離れてほしかった。
さよならだよ、マサ。
マサがここにいてくれるのも最後。働くマサの姿を、アオイはとくと目に焼きつけた。これで最後だと、自分に言い聞かせながら。
閉店作業、アオイとマサは二人きりになった。
「マサ、今までありがとう」
「最後の別れみたい」
冗談めかしてマサは笑う。
「最後だよ。マサはマサの日常に戻る。私は元の私に戻る」
マサがバイトを辞めたら、彼とはラインも電話も一切しないとアオイは決めていた。仁との結婚生活を続けていかなければならないから。
アオイの気持ちを察して、マサは深刻な面持ちになる。
「俺が辞めたって友達なのは変わらないでしょ」
「私ね、ずっと、寂しかった」
マサの言葉をさえぎり、アオイは話す。
「名前だけの家族。肩書きだけの彼氏。友達といるのは唯一楽しかったけど、子供の頃からずっと心の拠り所なんてどこにもないような気がしてた。でもね、学校帰りになんとなく立ち寄ったカフェに、なぜだかすごく安心した。人の気配が適度にあって、ほどよく気にかけてくれる店員さんがいて。私も、大人になったらこういうお店を作りたいって思った」
「夢、叶えたんだ。アオイはやっぱりすごいね」
「うん。叶えられた。何も無い私だったけど、この店がある。やっと見つけた居場所だよ」
アオイはマサに笑顔を向けた。
「だから大丈夫。今までありがとう。マサが来てくれて、毎日楽しかったよ」
「俺も……。こんなことバイト先で思うなんて変かもしれないけど、俺にとって、この店とアオイが。ううん。アオイがいてくれることが心の拠り所だった」
「……!!」
「アオイを見てると元気になれた。働くのが楽しいって思えたのはイルレガーメのおかげ。ホント、ここで働けてよかった!」
アオイの胸はじんと熱を持つ。涙が出そうだった。
「マサ……」
「もう明日からは別々の生活だけど。ここでのことは、ずっと忘れない」
「私も忘れないよ。マサと働けてよかった!」
お互いに、最高の笑みを交わす。
これが、アオイとマサが顔を合わせた最後だった。
アオイの日常は淡々と続いた。
時折、玲奈の件で面白おかしくからかってくる客はいたが、店の経営は何とか順調で、マサに代わる新しいバイトも入った。真琴も変わらず続けてくれている。
仁とも仁の母親とも上手くやっている。仁は、新婚当初のそっけなさが嘘のように甲斐甲斐しく尽くす夫になった。けれど、アオイは意識して夜の営みを避けた。仁もそこは理解してくれているのか、はたまた自身の浮気に罪悪感があるためか、無理強いはしてこなかった。かといって別の女性と関係を持っている様子もなく、職場と家を往復する日々。アオイと仁は同じ家に住みつつも、別の時間を過ごしていた。
マサと最後に会ってから一ヶ月。彼とは連絡など一切取っていないし、顔も合わせていない。
ドキドキはないけれど平穏な日常がそこにあった。最近、毎日が穏やかすぎて、マサと過ごした日々が夢だったような気さえしてくる。時々彼とのラインのトークルームを見ては、涙が出たり笑みがこぼれたりした。そういうことで心の渇きを満たしていた。
そんな時だった。イクトが店にやってきた。
「アイスティーひとつ。アオイちゃん、後で少し話せる?」
マサの親友であるイクトが、何の用だろう。アオイは久しぶりに胸がざわつくのを感じた。休憩時間、アオイはイクトと共に外に出た。
「ごめんね、もう来ないつもりだったんだけど、ユミから妙なこと聞いて心配になってさ」
ユミ。イクトの大学での女友達。マサとイクト、ユミの四人で海に行った。アオイはまたマサのことを思い出し、頬に熱を感じた。
「店で、旦那の昔の女が暴れたんだって? ツイッターとかで拡散されてたのをたまたまユミが見つけて」
「そのことならもう大丈夫。たまに突っついてくる人もいるけど、かわすのも慣れてきた。それより、ユミちゃん元気?」
「うん。すっげー元気! マサとはどう?」
「マサはもうバイト辞めたから、今は会ってないよ」
「そうなの!?」
思いのほか、イクトは驚いていた。直後、納得したようにうなずく。
「旦那と、上手くやれてる?」
「うん!」
「そっか。俺が心配するまでもなかったな!」
何か言いたげにしつつも、イクトはそれきりマサの名前を口にしなかった。
「アオイちゃんが元気そうでよかった。それだけ確かめたくて。じゃあな!」
「わざわざありがとう」
イクトの厚意を嬉しく思う。それと同時に、満たされない自分を感じた。久々にマサのことを強く思い出してしまった。
イクトやユミと海に行った時に撮った何枚かの写真。毎晩のようにスマートフォンの画像フォルダをスクロールし、マサと共有した時間を辿る。ラインのやり取りを眺める。心安らぐ時間だった。はるか昔、仁に焦がれた時にはなかった感情だった。
私の本当の初恋は一一。
アオイは気付きつつあった。仁への感情が、恋愛感情ではなかったことに。ただの憧れでしかなかったのだということに。
本当の恋は、こんなにもずっと。
自分の中に散らかった様々な感情で、理解できていなかっただけ。だなんて、言い訳でしかないが。強く長く続く想い。離れてもなお頭に浮かぶ存在。何より、彼を幸せにしたい。彼と共に幸せになりたい。そのための努力なら惜しまない。そう思えたのは、ただ一人。
恋に恋していただけだったんだね、昔の私は……。
自分の愚かさに虚しさが募る。気付いたところでもうどうしようもない。
してはいけない恋だったよ。マサ。好きだよ。ずっとずっと。たとえマサに彼女ができても、この気持ちは消えない。
そんな風に思えるだけですでに尊い。心の拠り所となった。誰にも知られてはいけないこの気持ちに名前を付けるのなら、それは……。




