好きに徹する
「泣き上戸かよ、ったく……。普段スカしてるやつほど酔うとヤバいって言うけど、あながち間違ってないなー」
呆れた声音とは裏腹に、イクトは親しみを込めてマサの頭をクシャクシャと撫でた。アオイとは決して結ばれることはないけど、こんなどうしようもない自分にも友情が残った。それだけで充分なのかもしれない。マサはそう思った。
「ありがとう、イクト。こんなヤツと、また一緒にいてくれて……」
「あーもーそういうのナシで! 俺も色々悪いことしたし、お互い全部水に流そうぜってことで!」
本当にイイヤツだよな。イクト。ありがとう。
夜が明けるまで、二人は語り合っていた。途中、アオイに会いたいだの触れたいだの戯れ言を口にしていた気がするが、イクトは根気よく相槌を打ってくれていた。
「指輪返した時、アオイちゃんに頼まれたよ。マサと仲良くしてほしいって。でも、だからこうしてるわけじゃないからな」
互いに眠気も増し、寝言のような途切れ途切れの会話になっていた頃、イクトはこんなことを言った。
「あの子、本当にマサのことを大切に思ってるんだな。『大切』の種類も色々あるけどさ。あんな優しさ見せられたら深入りしたくもなるよな。アオイちゃん、ホント罪なことしてる」
「……そっか。アオイそんなこと言ってたんだ……」
「好きな男のことになると過剰に世話焼きになる子ってけっこう多いじゃん。アオイちゃんがそのタイプかどうかは分からんけどさ。マサのこと、ホントのとこどう思ってるんだろなー」
「ホントも何も、ちょっと親しい年下バイトでしかないでしょ」
自分で言っていて胸がチクリと傷んだ。イクトが言うように、アオイが特別な意味合いでこちらを思っていてくれたらいいのに。だけど、それは叶わない願い。願う資格すら、自分は持ち合わせていない。
好きでいたって叶わないからつらい。だけど、それ以上に……。アオイを好きになったことを忘れたくない。
今たしかに思うのはそのことだった。モヤがかかっていた頭の中は鮮明になり、思考がクリアになっていく。こうしてイクトと話す前はただただ目の前の現実に絶望して悲観的になるばかりだったが、本音を吐露し放題にした今は、不思議とそんなに苦しくなかった。
「アオイを、ただ、好きでいる。何も願わず、何も求めず」
アオイを好きになって、悲しく切ない思いをしたのはたしかだ。しかし、それ以上に自分を成長させてもらった。恋をして人の痛みが分かったことで、かつての親友と再び友情を繋げることができた。アオイを好きにならなければ、こうしてイクトと対等に話すことすらできなかっただろう。
人を好きになる気持ちを知った。それだけで、自分はここにいてよかったと思える。異性関係において誰かを傷つけることしかできないと思っていたけど、そんな自分でもわずかながらアオイを癒すことができた。彼女の中で旦那が一番なのは明確だが、それでも、彼女の心の片隅でほんのわずかでも支えになれただけで幸せだと思える。こんな気持ちを持てて、虚しいながらも強く嬉しい。
「いいよ、俺。このまま一人でも」
すでにウトウトしているイクトに向けて独白。マサの気持ちは定まった。
アオイが幸せならそれでいい。好きって思うことからも逃げない。ちゃんと自分の気持ちを受け止めるよ。叶わなくたっていいから。
そう思うと不思議と気持ちが楽になり、前向きな思考が湧いてきた。恋愛という舞台でお役御免でも、自分にはバイトという別の舞台がある。そこでアオイの役に立てれば本望だ。幸い仕事には慣れてきたし、よほどのアクシデントでなければ難なく対応できる自信はある。アオイの良きサポート役に徹する。そばにいられるだけで幸せだ。
イクトと飲み明かした日以来、前向きなモチベーションは保たれ、マサは以前にも増して生き生きしていた。第三者から見ても、とても失恋した男の姿には見えなかった。
時折同じシフトになる真琴にも、そう指摘された。
「最近いい感じだね。マサ君。何かいいことあった?」
「はは、どうなんですかねー」
「オーラが違うもん。いいねえ、こっちまで元気になるよ」
「それはよかったです」
気持ちを切り替えたおかげか、単調だったはずのなにげない日常も楽しめている。特にいいことが起こらなくても、日々がすごく充実していた。幸か不幸かは心の持ちようだとはよく言ったものだ。
アオイに対しても、バイトの立場をわきまえつつ自然に振る舞えている。好意を出しすぎることなく、よそよそしくもせず、気さくな学生バイトという空気感で接した。無理してそうしているのではなく、これも自然に身につけた。我ながらすごいと思う。
アオイの方がどう思っているかは分からないが、今のところ悪い印象は持たれていないだろう。あれ以来、彼女と雑談をしてもプライベートなことには触れず、仕事に関する話題だけを口にしていた。そのおかげか、アオイの方もそれまでと変わらず気さくな店長の顔で居続けてくれた。ただただ、そのことにホッとした。
休憩中は、店の飲み物から好きな物を一杯もらっていいことになっている。マサは、この日も抹茶ラテを飲んだ。商品用の様に生クリームなどのデコレーションなどはないが、それでも充分美味しい。偶然にも、最近ではアオイも休憩中に抹茶ラテを飲んでいることが多い。前まではココアやカフェラテばかりだったのに、どういう心境の変化なのだろう。嬉しい共通点である。同じ飲み物を飲んでいることだけで、今のマサには至福だった。
アオイと休憩が重なった。四人がけテーブルを挟む形で、二人は斜め方向に向き合って椅子に座った。彼女の顔を見てドキッとしたものの、マサは普段通り平然と彼女に話しかけた。
「ホント、ここの抹茶ラテ美味しいですよね。で、結局毎日飲んでますよ」
「業者さんにも無理難題言ってワガママ聞いてもらったから。おかげで美味しいものを作ってもらえてる」
「店長のがんばりのおかげなんですね。そういうとこ、ホント尊敬です」
「もう、いきなり何!? やめてよ。照れるから」
「ははっ。思ったこと言いたい気分だったんです」
「はいはい。マサはそういうこと誰にでも言ってそう」
「バレました?」
誰にでもじゃなく、アオイだからだよ。
心の中でそう返し、口では冗談のように振るまう。元から嘘は得意な方だが、そういった軽い冗談を口にすることすら最近ではアオイを欺いているような心地がして罪悪感を覚える。高校時代の自分よりは真っ当になったというか、純真さのような心情が身についたらしい。
「大人になればなるほど汚れてくものだとばかり思ってましたけど、そうでもないんですかね」
思わずマサはつぶやき、次の瞬間、アオイがこちらを凝視しているのに気付き、言葉に詰まった。まずい。変なことを言ってしまっただろうか。すぐに取り消すべきか? 尾を引かないよう適当な言葉で濁してしまおうか。若干のストレスを感じつつ考えていると、アオイから共感の声が返ってきた。
「分かる。私も高校出る頃まではそう思ってたなぁ。でも、逆かもね。最近は特にそう思うよ。子供って善悪の判断も未熟で自分の欲望に忠実で、だからこそ脇目も振らず残酷な選択をする。かつての私もそう」
彼女の結婚の経緯について言っていた。自分の考えに共感してもらえて嬉しいものの、アオイの表情がいつになく曇って見え、マサはそれがひどく気になった。これが悪い予感というものなのか、変に胸がざわつく。自分のものかアオイのものか分からない抹茶ラテの甘く苦い香りが休憩室に漂っていたおかげで、マサは何とか心の落ち着きを保てた。
「残酷な選択だったとしても、結果幸せならいいんじゃないですか」
「うん。一度目の間違いならね、それが許されないことだとしても周りは大目に見てくれるかもしれない。でも、次に似たような過ちを犯したら……。次はないでしょ?」
両手で包むように持った抹茶ラテのカップに視線を落としたまま、アオイは言った。
「でも、子供だったら何度間違えても幼いからって理由で見逃してもらえる。私、もっと子供だったらよかった。大人だから、前科があるから、もう二度と好きなことはできない。……汚れた大人だよね、完全に」
「店長……」
「なんてね。ビックリした?」
残った抹茶ラテを飲み干し、アオイは晴れ晴れしたように席を立った。
「清い大人になるよ。私」
「もうなってると思いますよ。旦那は幸せ者だね」
「うん。だといいな」
「俺も行きます」
アオイに続いて席を立ち、マサは抹茶ラテを飲み切った。よかった。彼女の幸せを冷静に受け止められるようになってきた。抹茶の後味がいつもより苦い気がしたけれど。
それから数日間続いた平穏は、突然に崩された。
真琴とアオイ、二人とシフトが重なった平日の昼下がりのことだった。いつも通りバイトをこなしていたマサの耳に、男性客の鋭い声が刺さってきた。中年というにはまだ早い青年のものと思われる。怒りと蔑みを含んだその声はアオイに向けられたものだった。
「お宅の衛生管理、どうなってるんだ? サラダに虫なんて、ありえないでしょ!」
「申し訳ございません。すぐに新しいものをご用意します!」
「いらないよ。ただ、金も払わない。虫入りサラダなんてとても食べられないし、払う筋合いないよな?」
どうやら、アオイが接客し注文を受け付けた客のサラダに小さな虫が入っていたらしい。いわゆるクレームだ。生野菜を使っているのでそういうことが全くないわけではないが、アオイはそこを気にしてかなり入念に野菜を洗っている。そして、マサが気になったのは男の顔だった。どこかで見た覚えがある。しかもわりと最近に。
男は、爽やかで端正な顔に似合わず執拗にアオイを責めた。まるで、他にいる数人の客達に見せびらかすように。それを見て真琴は胸を痛め、焦った。
「助けた方がいいよね? でも、下手に私が出ていってアオイの立場がよけい悪くなったりしたら……」
そうマサに耳打ちしたが、それを全て聞き終えることなくマサはアオイの元に早足で寄っていった。
「あの、失礼ですが、あちらのお店の従業員の方ではありませんか?」
「君は……」
「覚えていて下さって嬉しいです。先日、お店の方でお会いしましたよね。あの時の抹茶ラテ、とても美味しかったです」
「あ、ああ……。あの時はどうも……」
某カフェの従業員としての自分を思い出し、男は気まずげに語気を弱めた。一度は来店してくれたマサを相手に文句を言うのはためらわれたのだろう。そこを狙って、マサは畳みかけるように柔らかい物腰で言葉を続けた。
「その後、スイーツの新作は出ないんですか? 甘い物好きなので楽しみにしてたんですよ。出たら絶対行きますね! あっ、そうだ。ここだけのお話なんですが、こちらでも今後のスイーツフェアを計画してまして、試作段階のものがいくつかあるんですが、お時間ございましたら今日お召し上がりいただけませんか? もしよろしければご意見ご感想をお聞きしたいですし、サラダのお詫びも兼ねてぜひ!」
アオイを悪者で終わらせない。その一心で、マサは営業スマイルを顔に貼り付け男を誘導した。
「そ、そこまで言うなら……」
「もちろん、お代はサービスさせていただきますので。これに懲りず、今後も贔屓にしていただけたら助かります」
「悪かったよ。こっちも言い過ぎた。同業だとつい、自分の店のことのように厳しくなってしまう。君、今後は気をつけてくれよ」
アオイは泣きそうな顔になりながらも気丈に謝り、すぐさまマサと共に新作スイーツの試作品を同業の男に提供した。試作品とはいえ何度も作り直した末の完成系なので、かなりのコストがかかっている。それだけで誠意は通じないと感じたアオイは、さらに手土産に店の新作ケーキなども持ち帰ってもらうことで男の気を収めた。次もまた来店してくれると言い置き、男は店を後にした。一同、安堵し、同時に深い疲労感をあらわにした。
一部始終を見ていた客からは拍手喝采が飛び、馴染みの客からは「マサ君、大学出たらここに就職しなよ〜! こういう仕事向いてるんじゃない?」と言う中年男性までいた。幸い居合わせたのは常連客ばかりだったのでアオイの失態で店にネガティブな印象を抱く客はいなかったが、それは本当に運が良いことで、次はない。今回の件はアオイにとって恐ろしい出来事として心に刻まれたのだった。
「マサが居てくれなかったら、大事なお客さんを逃すだけでなく、店の存続にも関わっていたかもしれない。本当にありがとう」
営業時間が終わり、真琴とマサだけになった静かな店内で、アオイは深く腰を折り頭を下げた。
「真琴も、驚かせたよね。私が不甲斐ないばっかりに二人にはものすごく迷惑をかけて、本当にごめんなさい。ううん。申し訳ございませんでした」
公私を捨てて一心に謝るアオイに、真琴とマサはケラケラと笑った。
「気にしないで。あの場で私何にもしてあげられなかったし、逆にごめんねって言いたいよ。アオイが無事で本当によかった」
「ですね。店長の普段の頑張りがあの人にも伝わったってことだし、もう大丈夫ですよ」
それらの励ましも、アオイは納得がいかないように苦い表情で受け止めていた。
「私なんて、全然ダメ……。あの人に苦情を言われてる途中から段々頭が真っ白になって、手も震えてきて……。こわかった。マサがいてくれなかったら、本当にどうなってたか……」
思い出し、アオイの両手は再び震えた。
「話の途中で悪いんだけど、もう行かないとっ。夏休み中にやらなきゃいけない課題たまってるの忘れてた! 続きはまた今度ゆっくり聞くから、ね」
真琴は嘘の言い訳でそそくさと店を後にした。課題があるのは本当だが、急ぐほどのことでもない。アオイとマサを二人にするべき場面だと思った。仲がいいことはいいのだが、少し前からアオイとマサはどこか無理をしている。そんな雰囲気を、今夜なら打ち消せるのではないか。そう考えたのである。
余計なお世話だったらごめんね。アオイ。
内心謝りながらも、真琴は鼻歌混じりに帰路についた。
真琴のはからいで店に残された二人は、目を丸くして互いを見つめ合った。
「院生ってのも大変そうですね」
「だね。課題とか、いっぱいあるみたい」
しんと空気が静まり帰った。真琴がいた時にはポンポン言葉が溢れてきたのに、二人きりになった途端どちらかともなく言葉数が減った。何を言っても間違えてしまうような気がして。真琴の帰宅宣言はあまりに唐突だったのでビックリしてアオイの震えもおさまっていた。それを確認し、マサはひとまず安心する。
「じゃあ、俺も帰りますね。お疲れ様でした」
「待って……!」
引き止められるのとほぼ同時に、アオイに腕を掴まれた。柔らかいのに強い力のこもった衝動に、マサは足を止め彼女を振り向いた。
「まだ、帰らないで……」
頼りなさげに伏せられたアオイの瞳。彼女から発せられた言葉は、マサのどんな妄想よりも現実的で甘美で、儚い色をしていた。




