願えない願い
更衣室の扉を店側から見ていたアオイは、ひんやりしたそれにそっと触れた。軽く指先が震え、思わずマサの名前を呼んでしまいそうになる。
迷うことない。これでよかったんだよ。
結婚とはそういうものだ。マサへの思いは気の迷い。愛しているのは仁だけ。
アオイの決意を受け取ったマサは、覚束無い仕草で着替えをすまし店を後にした。いつも最後まで店に残って施錠するはずのアオイは、その時ばかりは店内にいなかった。彼女なりにこちらに気を遣い外にでも出てくれたのだろう。
もう辞めた方がいいのかな。バイトも。
元々夏の間だけ働く予定だったし、今辞めたってたいして変わらない。自分の代わりなんていくらでもいる。人気のあるバイトなので欠員はすぐに埋まるはずだ。とはいえ、予定より早めに辞めるだなんてやはり無責任だろうか。でも、今アオイのそばにいるのはきつい。かといって、会えなくなったらそれはそれでつらい。
そんなことを考えながら歩いていたせいで帰宅途中の記憶が全く残らず、いつの間にかアパートに着いていた。しかも、いつものバイト後と違い、見慣れたアパートの前には妙な来客の姿があった。珍客と言ってもいい。
「バイト? お疲れー」
どういうことだろう。イクトがこちらに手を振っている。しかも友好的な笑みまで浮かべて。彼がここにいるのは、決まって悪態をついてくる時と決まっている。どういう心境の変化だ。昼間よりマシとはいえ蒸し暑い中こんな時間までこんなところで何時間も待っていた理由は、いつも通りこちらを徹底的に罵倒するためなのだろうか。あまりいい予兆ではないはずなのに、今は気持ちが弱っているためか、見慣れたイクトの顔を見て、不安と安堵、両方を交えた奇妙な心地がした。
「どうしたの? 暑かったでしょ」
「ああ。まあ。話があって」
イクトと会うのは海以来だ。あの時、アオイにベタベタするイクトに腹が立って、半ば喧嘩別れのように別行動することになったのだった。さすがにもう頭は冷えているが、イクトがユミと共謀してアオイにちょっかいを出そうとしたのは事実。会わない間に冷静さを取り戻したとはいえ、こうしてイクトに対面してしまうと思い出さずにはいられなかった。
「話って?」
尋ねる声が思っていたより尖る。イクトは苦笑した。よく見ると、イクトの右手にはコンビニで買ったらしき酒類の缶が数本とチキンナゲットや菓子類が入っていた。
「海では悪いことしたな。謝る気はないけど」
だったらなぜそのことを口にしたのだ。わざわざ待ち伏せしてまでしたかった話とはそのことか。ツッコミたい気持ちをグッと抑え、マサは淡々と答えた。
「謝ってほしいなんて思ってない。イクトをそういう風にさせたのは俺だから」
こんなことを言ったところでイクトの気が和らぐはずもないことはすでに承知済みだが、言わずにはいられなかった。それに、今は以前の自分よりさらに実感を持ってイクトの心情を理解できるようになった。
「今になって、本当にそう思うよ。俺がイクトにしたことは、許されることじゃなかったんだって……。イクトは、リオちゃんのこと深く好きだったのに、俺は……」
簡単な気持ちで手を出した。リオから誘惑されたのはたしかだが、自分さえしっかりしていたら防げた関係だった。マサはそれを今さらに痛感した。
「ごめん。謝ることすら自己満足だって分かってるけど、イクト、本当にごめん……」
頭を下げると同時に、マサのまぶたは途端に熱くなった。アオイが旦那を選んだという事実が、時間差で胸をえぐる。そして、この痛みはかつて自分がイクトに与えたものでもあるのだ。
マサの様子にイクトは肩をすくめた。
「今のマサとなら同じ目線で話ができると思った。だから来たんだよ、ここへ」
「イクト……」
「立ち話もなんだし、邪魔していいか?」
「え、う、うん……。散らかってるけど」
「いいよ別に。俺んちも似たようなもんだから」
友情が壊れる前と同じやり取りだった。かつて、こうして互いの家に行き来していた。殺風景で生活感のにじむ自室にイクトを招き入れつつ、再びこうして彼と同じ空間で会話する日が来るなんてマサは信じられない気持ちでいた。イクトが持ってきた酒や食べ物を適当にテーブルに広げていると、こうするのは何年ぶりだろうと思ってしまう。関係が悪化してから年単位も経っていないはずなのに、こうして互いに落ち着いて向き合うのは数年ぶりという感覚だ。
「ま、飲めよ」
「ありがとう。色々買ってきてくれたんだ。お金……」
「じゃあ、今度アイスおごって」
「了解」
前と何ら変わらないやり取り。なのに前とはずいぶん違う関係に感じられる。マサとイクトはほぼ同時に缶チューハイのプルタブを開け、互いの缶を軽くぶつけて乾杯の合図をした。
「大人になったら誰もが当然にしてることを、禁止されてる年頃にやるってのは何とも言えないスリルがあるよな」
「分かる気がする」
イクトの発言にうなずき、マサはチューハイに口をつけた。白ぶどう味の酸味が炭酸の刺激と共に喉を通過していった。ソフトドリンクにはないアルコールのツンとした匂いで、なぜだかアオイの声を思い出した。彼女を抱きしめた時の、優しく、強く、儚げな声音。あの瞬間だけは自分だけが独占していた存在。
「そんな目するやつじゃなかったのにな
、お前」
「え……?」
「アオイちゃん、結婚してるんだって? 指輪返した時にそう聞いたよ。ビックリした」
「…………俺のために独身のフリして合わせてくれてたんだ」
「それも聞いた」
イクトはため息混じりに言った。
「言わせてもらうとさ、正直、最初は笑いそうになったよ。俺はお前にムカついてたわけだし? お前がアオイちゃんを好きなのは海の時からバレバレだったから、叶わない恋じゃん! マサ失恋確定じゃん! ってな」
「傷口に塩だよ、それ」
「…………でも、だんだんそんな気持ち消えてったよ。お前のこと大嫌いだったし、不幸になればいいって思ってたはずなのに……」
「イクトはやっぱりイクトだね。子供の時から変わらない。優しくて頼もしくて誰かの力になると生き生きしてる」
「そんな立派な男じゃないって。実を言うと、アオイちゃんの指輪黙って隠してたの、俺だし」
「知ってた」
「マジか……!」
「だって、変でしょ。砂浜なんかであんな小さな物失くしたら、普通は見つからない。イクトかユミちゃんが何かしたのかもって思った」
正確に言うと、イクトとユミで仕組んで指輪を隠したとのことだった。アオイとマサがいない隙を見てアオイの荷物から指輪を取った。マサの想像通り、失くしたと思ったアオイにそれを返して好感を得、それをキッカケにイクトがアオイと密に連絡を取れる関係へと発展させる計画だった。
好感度はともかく、アオイはあの指輪をとても大事にしてたし、見つけてくれた相手に感謝したと思う。それに、イクトとしては、俺とのおそろいだと思ったからそんなことをしてまでアオイの関心を得たかったんだろうし。
「でも、分からないことがある。どうしてアオイが指輪を持ってるって知ってたの? そんな話してなかったし」
「ユミだよ。アオイちゃんの左手の薬指にうっすら指輪の跡がついてたのを、アイツは気付いてさ。だったらアオイちゃんのカバンの中にしまってあるんじゃない? って話になって」
「ユミちゃんが、そこまで……」
「すごいな、女は」
イクトは単純にユミの観察力を褒めていたが、マサとしてはどうもそれだけの理由でユミが動いたとは思えなかった。
「ユミちゃんのこと、イクトはどう思ってるの?」
「いきなりだな! どうって、普通に友達だよ。アイツ、最初はそっけないやつかと思ってたけど意外と人情に厚くてさ。よく分かんねえけど俺のこと慕ってくれてるんだ。それにつけ込んで今回の件に巻き込んだことは本当に悪いと思ってる。二度とこんなことで甘えたりしない。今後も大事にしたい仲間だしな」
「仲間、か……」
ユミの恋心を知っている身としては答えに詰まった。ユミがイクトに隠しているのなら、ここで勝手に彼女の気持ちを暴露するわけにもいかない。
どうにも返答できずマサが黙っていると、イクトはしみじみ語りだした。酔いが回り始めているようだ。
「誰かさんのせいで当分女なんていらないと思ってたけど、やっと好きになった相手は人妻だしー? 人生、うまくいかねーよな」
「アオイのこと、本気だったんだ」
「うん。好み。ドタイプ。可愛いし優しいし。ま、俺には冷たいけどな」
「そこがアオイのいいところなんだよ。でも、他の男が褒めてるとわりと高濃度で腹立つ」
アオイの良さを知っているのは自分だけでいい。可愛い部分を見られるのも自分だけがいい。他の男の目から隠してしまいたい。深く強くそう思う。
「おっ!? ポーカーフェイス君も酔いが回って本音が出たかー!?」
「そうだね。そうだよ。これが本音だよっ! たとえイクト相手にしても、アオイのことは譲れないからっ!」
茶化すイクトに、マサも同じようなテンションで言い返していた。これがアルコールの力というものなのだろうか、平常時と違い、ネガティブな発言をしても暗くなりすぎずにすむ。それどころか、悩んでいる自分がおかしく思えて笑い声すらあげたくなった。
「そんなに好きなら旦那から奪っちゃえよー」
本気か冗談か見分けられないノリで、イクトは言った。
「結婚はゴールじゃなくてスタートなんだって言葉もあるくらいだ。途中経過で他に気持ちが行くことなんて、ぜーんぜんっ! 珍しいことじゃない。だいたい、アオイちゃんは謎すぎるんだよ。マサのためにカップルのフリしてたって言うけど、本当にそれだけかー?」
「そうだよ。アオイは優しいからー。店長として? バイトの悩みを解決してあげたかっただけでしょー。今日はっきりそう言われたし。旦那と上手くいってるって。旦那を大事にしたいって時に、他の男なんて眼中にないわけでして」
相当深く酔ってしまい、普段しないような口調になっている。
「ふーん。それがマサの本気か。遠慮してるのか何か知らないけどな、だったら俺はさらに全力でアオイちゃんに当たるだけだ。振り向いてもらえる可能性は限りなくゼロに近いけど」
「遠慮なんて、可愛いものじゃない」
「だったら何だよ」
普段アオイの前で総動員している理性が、完全に外れてしまっている。マサは次々と本音を吐露した。
「イクトにだって譲れない。遠慮なんてする気もない。アオイのこと、誰にも渡したくない。旦那のことだって、いなくなればいいのにって毎日思ってる」
「そうだよ。それが恋なんだよ。厄介な感情だよな。単純に"好き"なだけならまだ楽なのに」
リオのことを思い出しているのか、アオイへの気持ちを感じながら言っているのか、イクトの言葉には生々しいほど実感がこもっている。その言葉に共鳴するかのように、マサの頬には涙がこぼれていた。
「アオイを好きになる資格がほしい。他の男にも、イクトにも、奪わないでって言うことすらしたらいけない立場だから」
「マサ……」
静かに、人知れず夜が更けていった。冷たいようで優しく過ぎていく時間は、二人の気持ちをなだめ、時に波を立てる。イクトとの友情が再構築され始めたのを肌で感じつつ、アオイとは決して結ばれることはないのだと痛いほど思い知り、マサは胸を痛めたのだった。




