二枚のチケット
マサのスマートフォンに電話をするのは二回目だった。初めての電話は、彼がアルバイトの面接に来た翌日、採用を知らせるためにかけた。あの頃は互いに雇用関係から生じる独特の緊張感をにじませて会話していた。
あの時も、なんだかドキドキしてたっけ。普通ああいう場面では面接を受けた側が緊張するものなのにね。
呼び出し音を耳にしながら、アオイは懐かしい思いに胸を馳せる。それもこれも、胸を激しく鼓動させる心情をごまかすためだった。
マサを一方的に避け続けて数日。タイミング悪く、本日、一時間後から入るはずのアルバイターが体調不良で欠勤することになってしまった。こういう事態は常に予想しており、自分だけはいつでも店に入れるようなスケジュール管理を心がけてきたのだが、今日はこれからどうしても業者との打ち合わせがあり、欠勤者の入るはずだった時間帯のうち数時間は店に出られない。幸い客足の少ない曜日と時間帯なので別のアルバイトに任せてもいいのだが、連絡してみたところ全員都合が悪く、いざという時の助っ人を見込んでいた真琴は今日に限って飲酒しているとのことで、致し方なくマサのスマートフォンに電話をかけたというわけである。
こんな時だけ頼ってくるなよって、マサに思われたくなかった。
だからこそマサにだけは連絡せず優先的に他のアルバイトへ連絡したのに、あえなく全滅。朝から開けていた店を今の時間になって突然閉めるわけにもいかなかった。わずかながら、数時間前からくつろいでいる客がいる。前もって休業予告していたのならともかく、こちらの都合で突然帰ってほしいなどとは言えなかった。
お願い。マサ。出て……!
どれだけ鳴らしてもマサは電話にでなかった。最初は、どのツラ下げて電話なんかしているのだろうという自責の念で緊張していたものの、無機質な呼び出し音が次第にアオイの思考を冷静にしていく。
私なんかと話したくないのかもしれない。
よくよく考えたら、いや、考えるまでもなく嫌われて当然なのだ。それだけのことを彼にはした。甘えたと思ったら相手の気持ちを無視して避けるなど、どう見ても最低な行為だ。自分から友達になろうと近寄ったのだからよけいタチが悪い。
店長のくせに従業員に私情を抱いたのがそもそもの間違いだったのだと思い知る。マサとああいうことがあっても、自分は店をやっていかなければならない立場なのに。やはり甘えがあったと認めざるを得ない。万が一経営が立ち行かなくなったら自分の貯金でまかなえばいいし、それでもダメなら両親の財力に頼ればいいと心のどこかで思っていた。
人としても、女としても、社会人としても、私はダメなところばかりだ。
仕方ない。こうなったのも自分のせいだ。客には謝って帰ってもらうしかない。マサにつながった電話の回線を切ろうとした直前、
『店長、お疲れ様です』
彼が電話に出た。普段のマサらしく冷静な声音だったが、そこへはアオイにしか感じ取れない種類の感情もにじんでいた。こちらのことを嫌っているというより、怯えたような声。やはりマサは引いているのだろうか。
「今日はお休みだったよね。それなのに突然電話なんかして本当にごめんなさい」
吐き出すように一気にしゃべる。それでも、避けていたことを謝る言葉は出てこなかった。それを謝っても、マサを不愉快にさせたことは変えられないと感じた。嫌々相手をされると思ったのに、マサの反応は意外にも穏やかだった。むしろ、アオイがしゃべったことで向こうの戸惑いが消えたようですらあった。
『どうしたんですか? 何か慌ててます?』
心臓が跳ねた。相変わらず、少しの情報でこちらの心情を読むマサに。
「どうして分かったの?」
『なんとなくですかね、声の感じとか……』
「そうなの。実は、この後入るはずだった高橋さんが病欠することになって、他の子に連絡してみたんだけど休みだったからやっぱり予定があったみたいで、私もこれから業者さんとの打ち合わせに行かなきゃいけないし、でもお客様もみえて……」
堰を切ったように話してしまった。アオイの様子に、電話の向こうでマサは笑った。
『これから入りますよ。すぐに行きます。ちょうど店の近くにいたし、待ってて下さい』
「え、でも……。急な話だし迷惑じゃ……」
『いえ、そんなことないですよ。って言いたいところですが、そうですねー、すっごい迷惑です』
「だよね……。本当にごめんなさい」
マサの思わぬ突き放しにアオイは傷ついた。マサならきっと嫌な顔をせず引き受けてくれると、無意識のうちに期待してしまっていた。
身勝手にすり寄ったり避けたりする相手の頼みごとなんて、普通は迷惑だよね……。
これ以上マサに嫌われたくない。アオイは言った。
「用事があるなら、無理しないでね。お客様には事情を話して帰ってもらうから」
『冗談ですよ。用事もないし。迷惑っていうか、今ひたすら汗だくなんですよ。ずっと外にいたんで、とても接客できる状態じゃないかなーって……』
「だったら、家にシャワー浴びに来る?」
『え……!?』
ためらうマサの反応に、アオイは赤面した。
「ごめん、変なこと言って。私の実家、店からすぐのとこだから。庭の外壁がベージュの洋館あるでしょ? あそこなの」
『ああ! 分かりますよ。あれ店長んちだったんですね』
アオイの実家は近隣でも有名な目立つ邸宅だった。もちろん店の客や店員も知っている。待ち合わせの目印にされることもあるほど大きな建物だった。元々それがアオイの実家だと知っている近所の住人はともかく、アオイはそれを知らない人にまでは言わないようにしていた。マサにも教えていなかった。
『じゃあ、そういうことなら急ぎます。すぐ行きますね。待ってて下さい』
電話が切れた。アオイは今の時間店で働いてくれているアルバイトに声をかけ、一旦自分は実家に戻った。徒歩五分もない距離にある実家へは久しぶりに行く。前に行ったのはいつだったか。
生まれ育った自分の家の門前に、マサがいた。見慣れた実家がまるで異国の洋館に思えた。彼は本当にすぐ近くにいたようで、電話で言っていた通り、彼の体は汗まみれだった。夏の薄着は、細身なのに程よく筋肉のついたマサの体のラインを適度に透かす。アオイは反射的に目を逸らした。
「来てくれて本当にありがとう。シャワールームに案内するね」
「お願いします」
マサの顔を見ないようにして彼を案内した。マサが後ろをついてくる気配と、彼の自宅のものと思われるシャンプーの甘い香りがアオイの感覚を支配した。接客業という手前、汗による体臭を気にしたのだろうが、マサからは不快な臭いなど一ミリも放たれておらず、むしろ汗をかいた姿に色気すら漂っていた。
マサはどうしてこんなにも関心を引くんだろう。
「こういう時のために、店内にもシャワー室を作っておけばよかったね」
気持ちを悟られないよう冗談めかしてそんなことを言ってみると、マサはすかさず冗談で返した。
「それ、ご令嬢の発想です」
「そうかな?」
「家もすごいし、お店も持ってるし、何もかも俺とは別世界って感じですよ」
マサなりの、場を和ませる冗談だ。ここ数日、二人の間にあった気まずさがなくなっているのがいい証拠。それなのに、アオイはどこかもの寂しさを覚えた。
そんなこと、言わないで……。
今度こそ、マサの意思で明確に突き放された気がした。彼の気持ちは分からないけれど、分かろうとしたところで現実は変わらない。先に離れたのは自分。穏やかながらもぎこちない雰囲気のマサを見て、相当な気を遣わせているのだと知った。
たとえこの先仁とやっていくのだとしても、マサとの友情をなかったことにはしたくない。自分のせいとはいえ、このままぎこちない関係を続けていくのはやはり耐えられない。謝るべきことを謝り、ちゃんと彼と話がしたい。
シャワールームへ続く通路を歩きながら、アオイは背後のマサに振り返った。
「マサ。ゆっくり話がしたい。近いうちに時間作ってもらえる?」
一瞬マサの顔がこわばったのが分かった。でもすぐ普段のポーカーフェイスに戻る。
「分かりました。じゃあ、今日バイトの後にでも」
マサのおかげで、その後も無事に店は回った。業者との打ち合わせも難なく終わり、アオイは緊張の面持ちで店に戻った。その日はラストまでアオイとマサの二人きりだった。個人的な交流があった仲なのに、その日はいつもより夜の客足が多く、ただの店長とバイトの関係で過ぎていった。
アオイの話ってなんだろう。
客足が落ち着くのを見計らい、マサは食器を洗浄機にかけた。なんの前触れもなくアオイから電話が来たと思えば急なバイトを頼まれた。何かショックなことを言われるのかと思っていただけに覚悟は無意味になり肩透かしを食らった。
それはまだよかったものの、流れで彼女の実家に行くことになった。外観からくるイメージを裏切らない豪華な内装だった。両親が様々な事業で成功しているとのことだが、一体何をどうしたらあそこまで裕福になれるのだろうか。富裕層の生活のリアルを切り取ったかのような屋内には、親子の交流がかもしだす温度や家族の歴史を感じさせる物が一切なかった。真琴の話を思い出した。そして、マサはその空気感を過去に体感したことがある。
俺んちも似たような感じだったな。アオイんちほどデカい家じゃないけど、親がいつも仕事でいなくて。空虚っていうか、ただ寝に帰るだけの場所っていうか。
アオイが旦那と暮らす家ではなく、かつて住んでいた実家に呼ばれたのも、シャワーのためとはいえ嬉しかった。少しだけ素のアオイを知れた気がする。彼女から電話が来た時は恐怖で心臓が止まりそうな心地だったのに、実家に呼ばれた瞬間プラス思考に傾く自分の気分がおかしかった。かと思えば、改まった様子で話がしたいと言われる始末。
膨らんでいたプラス思考はしゅるしゅるしぼみ、頭の中には次々とネガティブな想像が繰り広げられた。バイトで紛らわそうとしたものの無理で、洗った食器を再び洗浄機にかけてしまったり、すでに飲食中の客に来店したての客に出す水を運んでしまったり、ささいなミスを何度かしてしまった。それをアオイに気付かれてしまった時には、心配そうに眉を下げられバツが悪かった。
閉店後、客のない静かな店内にアオイとマサは二人きりになった。仕事前に約束した、〝ゆっくり話をする時間〟が訪れた。
マサは真っ先に仕事中のミスを謝った。
「すいません、今日は色々と……」
「マサ、珍しいよね。入ったばかりの頃でもあそこまで間違うことなかったから。心配なのと同時に、私のせいだなって思った」
「いえ、そんなことは……」
「今までたくさんごめんね」
「どうして謝るの?」
マサの胸は不安一色になった。
「この前、イクト君に会ったよ」
「イクトに!?」
「正直に話した。私が結婚してることも、私達が付き合ってるのが嘘ってことも。マサと口裏合わせてたのに、私の判断で勝手に暴露してごめんね」
「そうだったんだ……。でも、それはもういいよ」
アオイの告白に不快感は湧かなかった。むしろ、既婚の身であのような芝居に口裏を合わせてくれたことに感謝している。それに、イクトにもいつか本当のことを言わなければならないと思っていた。騙し通せる相手ではない。色々な意味で。
それよりもマサが気になったのは、イクトと会ったという部分だ。どういう流れで二人は会うことになったのだろう。イクトがアオイを好いているのは分かっていたので、よけい嫌な感じがする。
「どうしてイクトと会うことに?」
一番気になるのはそこだ。イクトがアオイに惚れているのなら、すでに何らかの行動に移していてもおかしくない。
「指輪を返してもらったの。あの日、海で落としたのを、イクト君が拾ってくれてたみたいで……」
「指輪、イクトが持ってたの!? あんなに探しても見つからなかったのに……」
「ね。私もすごく驚いた」
アオイはただただ苦笑している。大切な物だったのだろうし見つかったのは良かったが、マサの気分はどうにもスッキリしなかった。
本当にイクトが拾ったの? あんな人気の多い砂浜で? そんな偶然ある?
思考するマサを伏し目がちに見て、アオイは告げた。
「指輪を失くしたのは、結婚に迷いを感じた身勝手さに罰が当たったんだと思った。でも、今はこうして指輪が戻ってきた。これって、結婚生活にちゃんと向き合えっていう暗示なんだろうね」
「アオイ……」
唐突に始まったアオイの独白に、マサの気持ちは急激に悲しみを帯びた。
何の話だよ、これ……!
「この結婚は私の思いばかりで突き進めてきた強引なものだった。そこに引け目もあった。だけど、そんなもの最初から百も承知だったはずなんだよ。だから……」
「……旦那と、上手くいってるんだ」
アオイはウンともイイエとも言わなかった。ただ一言、こう口にした。
「仁との生活を大事にするよ」
彼女の瞳には、固い決意とほんの少しの寂しさがにじんでいた。
それってつまり、もう、アオイと二人だけの時間は二度と作れないってこと、だよね。
足元から何かが崩れ、マサの気持ちは真っ暗闇に落ちていく。元々何の関係も築けてはいなかったのに、どこかで期待していた。友達というのは建前で、アオイとは目に見えないほのかな恋愛関係が構築されつつあるのだと。全て一方的な幻想だった。
「そっか。迷いが消えてよかったね。アオイがそう思うなら、きっと上手くいくよ」
心とは裏腹のことを言って、本心を悟られないようにした。本当なら今すぐこの場から逃げ出したい。けれど、現在進行形で膨らんでいくアオイへの好意が見栄に化け、平静な自分を演出してしまう。
「あ、そうだ。だったらやっぱりあれは返さないとね」
そう言い、マサは一旦更衣室に行き自分のカバンを引っさげ戻ってきた。初めて二人で泊まったあの日、アオイがホテルに置いていった現金を財布から抜き取る。彼女に避けられていたので返しそびれていたが、あの金は使わず取っておいた。
「ありがとう。気持ちだけもらっておくよ。私の方が年上だし働いてる。そんな身で学生の子に出させるわけにはいかないから」
マサの予想通り、アオイは現金の受け取りをやんわりした仕草で拒否した。
「そう……。じゃあせめて、これは受け取ってくれない?」
現金を引っ込めると、マサは代わりにとある物をアオイに差し出した。
「これ……。あの日話してた……。マサ、覚えててくれたの?」
それは、海に向かう車中アオイが観たいと言っていた、今季話題沸騰中の恋愛アクションものの映画のチケットだった。溢れる雑談の中に埋もれてしまうささいな話題。それを覚えていたマサはこっそりチケットを買い財布に忍ばせていた。アオイの都合がよければ誘うつもりだった。友達同士ならバイト帰りに映画に行く、それくらいのことは許されると思った。しかしその機会は訪れないまま今日まで来てしまった。
「でも、二枚ある……。もしかして、これって……」
「旦那と行ってきたら?」
アオイの言葉を遮るように、マサは口早に言った。
「元々そのつもりで用意してたんだよ。いつもありがとね。今後はもう変な気遣わないでよ。こっちもバイトってわきまえてるし、アオイが旦那を大事にしてるの、分かってるから」
一気に言い切り、マサはアオイに背を見せ更衣室の方に足を向けた。
「すいません。この後大学の友達と約束してるんで急ぎます。お疲れ様でした」
本当は何の用事もなかったが、着替えを言い訳にして逃げるように更衣室にこもった。今はアオイと同じ空間にいたくない。少しでもこちらの気持ちを気取られたら、アオイの負担になってしまう。重いと感じさせてしまう。そうでなくても、避けられてしまうほどすでに彼女の重荷になっていたのだから。
急なバイトが入ってよかった。
こんなことでもなければ無期限で避けられていたかもしれない。考えただけで冷や汗が出た。そうならず、むしろアオイと二人で話せる機会を経られてよかった。そう思わないとやっていられない。更衣室の扉に背中を合わせ、大きくため息をついた。
結婚って、思ってたより夫婦の絆強める制度なんだなー……。たった紙切れ一枚のことなのに。
独占欲。嫉妬。孤独。醜い感情が次から次へと体を蝕んでいく。マサは立っているのもやっとの状態だった。




