目覚めの脆さ
朝を通り過ぎ昼を迎える頃、アオイはマサの腕の中で目を覚ました。抱きしめてほしいとお願いしてから彼は、眠っている間片時も腕を離さずにいてくれたらしい。わずかな罪悪感と共に深い安心感を覚える。
「私のこと、そんなに好きでいてくれてるんだね」
マサの髪をそっと撫でてみた。彼は気持ちよさそうに寝息を立てている。シャンプーやボディーソープとは別のいい匂いがした。
マサの香りだ……。
好きな匂いだ。旦那がいる身とは思えないほど、こうして男性と一緒に眠るのは久しぶりである。こうしてマサのそばにいると、仁の匂いを忘れかけている自分に気付く。
仁ってどんな匂いだったっけ……?
香りだけでなく、旦那の体温すら記憶から薄れかけている。マサの存在と温もりだけが心を満たした。
ずっと寂しかったけど、マサのおかげでだいぶ癒されたよ。甘え過ぎてたと思う。二度とこんなこと頼まないから。
「ごめんね」
バスローブを脱ぎ、昨夜シャワーの前に脱いだ下着と服を再び身につけ、眠っているマサを起こしてしまわないようそっと自分のバッグを手繰り寄せた。財布から一万円札を二枚抜き、宿泊費としてテーブルに置く。
「マサ、ありがとう。楽しかったよ。またバイトでね」
本人に聞こえていないのを承知で言葉を残しラブホテルを後にした。
金なら充分にあるので帰宅手段の心配はなかった。タクシーで帰ろうとしたら親友の真琴から着信があったので、自宅に戻るのは後回しにして彼女とランチに行く約束をした。ラブホテルでシャワーを浴びたとはいえ服も下着も昨日と同じなので着替えに帰りたいような気もしたが、仁との電話を思い返すと家に足が向かなかった。
自宅から少し離れたファミリーレストランで真琴と落ち合う。タクシーで直接向かったものの、真琴の方が先に席に着いていた。到着するなり、彼女は手を振った。
「アオイー、こっちだよ〜」
低くも高くもないテンションと人好きのするソフトな真琴の声音に、アオイははち切れんばかりの安心感を得た。
「真琴〜! 会いたかったよぉ」
真琴のいるテーブル席につくなり、アオイは彼女に抱きつく。
「ご乱心だねぇ。さては、例のバイト君と一悶着ありましたな?」
「うん……。ちょっとね」
わざとおどけた話し方をするのは真琴なりの気遣いだと知っている。彼女の向かい側に座り、アオイはぽつぽつと昨日の出来事を話した。
「こんなこと真琴にしか話せないんだけど……。ホント私最低なんだけど……」
マサといて楽しかったこと。彼にときめいてしまったこと。マサの恋愛歴にショックを受けてしまったことや、仁との関係。旦那としては冷たいように感じる仁の言動。マサの寝言から自分への好意を知ってしまったこと。真琴には包み隠さず話した。いくら親しい間柄とはいえさすがに引かれるのではないかという不安もあったが、真琴にだけは受け止めてほしいという思いもあった。
「私、マサの存在に甘え過ぎてた。本当は一緒に帰ってきたかった。でも、そこまでしたら本当にもう後戻りできなくなりそうで……」
「それで、アオイは先にホテルを出てマサ君を残してきたってわけだね」
「本当はもっと一緒にいたかった。マサと」
「でも、その感情は仁君との関係から来る寂しさから逃げてるだけかもしれないと思う、と」
「うん」
アオイはゆっくりうなずいた。ひと通り話し終え、ちょうど二人の頼んだ物が運ばれてきた。ウェイトレスが立ち去ると、今度は真琴が中心に話をした。
「そうだね。現実逃避の可能性もある。ただ、本当にそれだけなのか、私からしたら疑問だな」
「どういうこと?」
アオイは前のめりになる。真琴は穏やかな顔つきのまま諭すように言った。
「仁君という旦那さんがいてもいなくても、アオイはマサ君に惹かれてたんじゃないかな」
「そうなのかな……?」
「恋は理屈でするものじゃないからね〜。仁君とうまくいってたとしても、アオイの目にはマサ君が魅力的に映ったかもしれない。アオイは今、マサ君に惹かれる理由や彼を諦めるきっかけをあえて懸命に探してるように見える。そこへ仁君との関係を絡めて考えることで自己の正当性を見出そうとしている」
容赦がない指摘だった。臨床心理士を目指している親友の考察にドキリとする。目を逸らしていた本性と向き合わされるようだ。
「つまり……。仁との関係がいまいち良くないのを理由にすることでマサに惹かれることによる罪悪感を薄れさせようとしている。そういうことかな」
「あくまで推測だよ。本当の心はアオイ本人にしか分からないんだから。確かなことは私には分からない」
「でも、それ当たってるかも」
テーブルに置かれた自分のクリームパスタを口にして、アオイはしみじみ真琴の言葉を噛み締めた。
「海にいる時、仁のことを全然思い出さなかった。いつもなら、誰かと遊んでいても必ず仁のことを思い浮かべていたのに……」
昨日頭にあったのは、心を揺るがせたのは、マサの存在。ただそれだけだった。
「仁の帰りが遅いのも気にならなかったし、自分の帰りが日をまたいだことにも罪悪感なんてなかった」
ただあったのは、マサに対する後ろめたさと後悔だけ。
「マサの気持ち知ってて知らないフリをした。それだけならまだいい。抱きしめてほしいとか、ありえないワガママを言って困らせた。最悪だよ……」
「眠ってる彼にキスしたんだよね? やるねぇアオイ」
真琴が普通のテンションで感想を言うのでこちらはますます恥ずかしくなる。顔が熱い。
「どうかしてたんだよ……。マサが起きてなかったからよかったけど……。あれで起きてたらもっと最悪だった」
「でも、なんか可愛いよ、今のアオイ。仁君のことで悩んでた頃よりいい顔してる。私の読みは当たったな〜」
「読み?」
「アオイとマサ君。二人はきっと恋仲になるって予感してた。アオイから海行く話聞いた時からなんとなくね」
たしかに真琴はそんなようなことを言っていた。しかし、その時のアオイは真琴の発言をからかいだと決めつけ深く受け止めなかった。真琴は真琴なりに真剣に話していたのだ。
「真琴の言う通りだね。仁一筋だとか言っておいてこんな気持ちになるなんて……。ホント私どうしようもない……。海になんて行くべきじゃなかった。店長としてただバイトの子の助けになりたかった。本当にそれだけだったはずなのに。今後もマサのことまっすぐ友達として見られるのかどうか……」
マサの元を離れてけっこうな時間が経った今でも、肌が彼の体温を覚えている。気を抜くと彼の声が頭の中に再生される。たくさん甘えさせてくれた頼もしいマサの声が。
帰ってきたばかりなのに、もうマサに会いたいと思ってしまう。会ってどうにかできるわけでもないのに。
こちらの心を見透かすように、優しい眼差しで真琴は言った。
「海に行ったのはマサ君と親しくなるきっかけがほしかったからじゃない? それより前からアオイは彼を好きになってたのかもよ」
「それより前から?」
「うん」
「真琴はどうしてそう思うの?」
「マサ君の話する時、アオイの目キラキラしてたから」
「……!」
これまで、恥ずかしいこともつらかったことも、ほとんど語り合ってきた真琴。そんな彼女に指摘されたら、もう、マサへの恋を否定できない。
「でも、私、結婚してるのに……。仁のこと大切だと思ってたはずなのに……。あんな手段を使ってまで仁との暮らしを望んだほど、好きだったはずなのに……」
「結婚とか夫婦のあれこれは、独身の私にはあまり分からないけどさ。アオイの仁君への気持ちは愛じゃなく占有欲だったのかもしれないね。今思うとさ」
「玲奈と付き合ってたのを引き裂いてしまったのに?」
「だからだよ。玲奈ちゃんの彼氏じゃなかったら、アオイは仁君に関心を持たなかったかもしれない。心理学的に証明されてるんだよ。好意的に見ている友達の持ちものは無条件に良く見える。〝持ちもの〟には人間関係も含まれる。人をモノ扱いするなんて、言い方は悪いけどね」
「そんな……」
「ごめんね、無神経な言い方だった。私の悪い癖だよ」
「ううん。真琴は悪くないよ。本当にその通りかもしれないと思って……」
小学校からの親友、玲奈のことが大好きだった。家族が不在がちの家で寂しい思いをしても、玲奈がよく遊びに誘ってくれたのでアオイは明るい気持ちになれた。大人になった自分なんて想像すらできなかった幼い頃から、玲奈とは永遠に友達なのだろうと思っていた。実際二人の友情は長く続いた。高校と大学が別になっても、まるで同じ学校に通う者同士のようにしょっちゅう会っていた。
良くも悪くも異性の人気を集め交際経験を重ねるアオイと違い、玲奈は奥手なタイプだった。好きな人ができても話しかけることができず片想いで終わっていく。そんな玲奈に彼氏ができたのは大学生になってすぐだった。同じ大学で仲良くなり積極的にアプローチしてきた仁と交際することになったと、照れ笑いを浮かべて報告してくれた。
幸せそうにしている玲奈を祝福した。それと同時に感じたのは、親友を取られてしまったという感覚。そのうち仁は、アオイが知らない玲奈のことを知っているようになった。自分は何人もの男性と付き合ってきた癖に玲奈に独占欲を持つのはおかしいのかもしれないが、それがアオイの正直な気持ちだった。
弱っている時に励まされたことで仁を好きになってしまった頃、玲奈が話す仁の話題を敏感に拾うようになった。二人は大学を卒業したら結婚したいと考えていたが、それも無理かもしれないとのことだった。仁の実家には多額の借金があったのだ。生活苦を理由に父親は仁が高校生の頃に蒸発。母親もアルコール中毒の末に病で倒れ働けない体になってしまった。借金は仁が肩代わりしないといけなくなるとのことだった。法律上、仁が両親の借金を返す義務はないが、心情的に彼は親を見放すことはできなかったのである。
互いの親にはすでに挨拶ずみだが、玲奈の両親は玲奈と仁の結婚に強く反対した。借金を抱えた男と結婚しても苦労するのが目に見えている。それでも玲奈は仁と別れたくないと主張した。仁も同じ気持ちのようだった。玲奈には絶対苦労させないから結婚したいと懇願する。
アオイは思った。仁を手に入れるまたとない機会がやってきた、と。
二人が結婚するしないで膠着状態にある頃、アオイは玲奈に黙って、大学付近で仁を待ち伏せし彼を喫茶店へ促した。仁と彼の家族を助けると約束し、自分との交際を頼んだのである。仁ははじめ玲奈の存在を理由にアオイの申し出を拒否したが、そのうち厳しい現実と弱りゆく母親を前に手段を選んでいられなくなり、最終的に玲奈との別れを選んだ。アオイと結婚前提に付き合うために。
アオイが幼い頃から貯めていた個人的な貯金で仁の実家の借金と大学の奨学金を一括返済し、仁をアオイの両親が営む会社の役員にすることで生活の安定を図った。そのおかげで仁の母親も病院で充分な治療を受けられアルコール中毒の症状もだいぶ良くなっているし、多少贅沢をしても満足に貯金ができるほどの稼ぎを得た。玲奈との交際中には考えられない豊かな生活だった。
玲奈は、仁がアオイと付き合ったことで彼が長年の苦しみから逃れることができたと素直に喜んだ。自分から恋人を奪ったアオイを責めないのはそのことが大きかったと思われる。
アオイは、そのことに少なからず罪悪感を抱いていた。
「あそこまでして玲奈と仁を引き裂いたのに、今はマサを好きだなんて……。人間失格だよ」
「諸行無常。恋もそうだよ。人の気持ちは常に動くものだから」
「とはいっても……」
玲奈から仁を奪った時のように、衝動に任せた言動はもうできない。あの頃と違って今の自分は既婚者なのだから。それに、ひとつの店を担う経営者としての立場もあるのだから。無責任なことはできない。
「アオイがどうしたいか、だよ」
「私がどうしたいか……」
「ううん。どうありたいか。だね。それが一番大事」
「どうありたいか、か……」
真琴の言葉を何度も繰り返し口にしつつ、食事をした。そんなアオイを、真琴はただ見守っていた。
ラブホテルに置いていかれるという、まるで少女漫画のヒロインのような経験をしてしまった。男の自分がまさかそんな体験をしてしまうなんて。恥ずかしいとかかっこ悪い以前に、ものすごく寂しいものなのだとマサはこの日初めて知った。
ヤリ捨てされた女の人の気持ちってこういう感じなのかな。
これまで付き合ってきた女性に自分がやってきたこと。相手の気持ちに寄り添わずに突き放すような言動をいくつ重ねたか分からない。その頃の罰が下ったのだと思った。
「アオイ……」
無意味にアオイの名前をつぶやく。
彼女は無事に家まで帰れたのだろうか。タクシーや電車といった公共機関で帰れなくもないが、車の方が早くてストレスが少ないのはたしかだった。アオイが無事帰宅できたのかを確かめるのはもちろん、海に付き合ってもらったお礼の電話なりラインをしたい。しかし、それは叶わなかった。バイト先の電話番号しかアオイとつながるツールはない。
こんな時、本物の恋人同士だったら周りの目を気にせずドライブを兼ねた帰宅ができたかもしれない。アオイはきっと、自分の立場を意識して先に帰ったのだろう。
「それが俺達の関係、か」
冷えたシーツに手のひらを滑らせる。眠る前までアオイはそこにいたのに、今はその気配すら残っていない。眠ってしまったのがもったいないと強く思う。寝なければもう少し彼女の声を聞いていられたかもしれないのに。なぜ寝てしまったのだろう。
「もう、会いたい……」
ベッドの上で膝を抱え、マサは消え入りそうな声音で届かない思いを口にした。




