5.
公判はようやく本題に入った。
原告であるヴェラが指名され、あらかじめ用意しておいた訴状を読み上げるのだ。
「――以上のことから、灯火法第十二条および第十四条の定めるところにより、被告に対し、超過額である月額五十万クロン、着任から今まで八ヶ月分の合計四百万クロンの返納、ならびに辺境における三年間の無償奉仕を科すこと。訴訟費用は被告の負担とすることの判決を求めます」
声に出して読む間、ヴェラの膝はがくがくと震えっぱなしだった。
訴状は、パーカーが口述したものをそのまま書いた。灯火法の条文は、パーカーに教えてもらいながら完全に理解するまで読み込んだ。
それでも――。
ヴェラが訴状を読み終えた途端、法廷中から声が上がった。
「何と!」
「殿下に処罰を求めるとは」
「前代未聞だ」
「不敬では」
「――静粛に!」
カッカッカッ!
法槌が打ち鳴らされ、ようやく静かになったところで、殿下がおもむろに立ち上がる。
「裁判長。原告の訴えに対し、答弁してもよろしいか」
「どうぞ、殿下」
エルバン殿下は廷内をぐるりと見渡し、最後にヴェラを見てふっと微笑んだ。
その刹那、ヴェラの脳裏に、あの日の言葉が蘇る。
『もしも殿下が、私がかつて知っていたエルバン殿下のままならば――』
風の吹き渡る丘の上で、パーカーは静かにそう言った。
『殿下は、真っ先に我々の最も弱いところを突いてくるでしょう。すなわち、自らが犯した罪を全面的に認め、自分がいかに清廉な人間かを周囲に印象づけた上で――この訴えの、根拠そのものを揺るがしにくる』
「まず、事実関係について申し上げる」
殿下は訴状を手に取ることすらせず、まっすぐに裁判長を見た。
「原告の主張する灯火法違反は、すべて事実である。私は着任以来、聖女庁に配分された灯火予算を超過して魔石を使用してきた。額はおおむね原告の主張するとおりである」
法廷が、水を打ったように静まり返った。
傍聴席の誰かが「認めた」と呟く。
「弁明はしない。私は知っていて超過した。国益に適うと判断したからだ。その判断の是非は、この裁判とは無関係だが」
殿下は初めて訴状に目を落とした。
「その上で、私はこの訴えの、訴えとしての体をなしていない点について申し上げたい」
(来た)
ヴェラは思わず背筋を伸ばす。
「原告は、私に四百万クロンの返納を求めている。誰に返せと? 国庫にだ。原告は一クロンも受け取らない。原告は私が消費した魔石代によって、銅貨一枚失っていない。……裁判長。失ったものが何もない者が、なぜ法廷に立てるのか。私はそれをここで問いたい」
殿下からの反撃。
「さらに原告は、辺境における三年間の無償奉仕を求めている。返納はまだいい。金の話だ。だが辺境での三年は金ではない。懲罰だ」
劇的な間をおいて、殿下はぐるりと法廷を見回した。
「損害を受けていない者が、一人の人間から三年もの年月を奪う。法がこれを認めるなら、明日からこの国では、気に入らぬ相手を誰でも辺境に送れることになろう!」
「確かに」
「その通りだ」
筋道の通った答弁に、陪審員席からも、傍聴席からも同意の呟きが漏れる。
「裁判長。私は違反を認めた。事実関係に争いはない。本公判の争点は――この訴えが、そもそも誰の訴えなのか、という一点だ」
違反は違反。だが、それによって何の損害も受けていない者が違反者を告訴できるのか。
――答えは、否である。
理由は殿下が言ったとおり。それを許可してしまったら、誰でも気に入らない相手を処罰できてしまうから。
それについては、この国の法典にも明確に記載されている。
「原告。答弁に対する反論はありますか」
ヘルリッツ侯爵がヴェラを見る眼差しには、気のせいか憐れみが混じっているようだった。
この論戦はヴェラの負けだ。
そう思っているに違いない。
だが――。
「ございます」
ヴェラの答えに、誰もが虚を衝かれたように黙り込んだ。
「なぜなら、殿下の違反により、私は損害を被っているからです」
殿下が、すっと目を細める。
ヴェラは裁判長に向き直った。
「裁判長。灯火予算は、王宮全体でひとつの枠があり、そこから各部署に割り振られる仕組みです。どこかが多く使えば、その分どこかが減らされる。四半期ごとに枠を組み直し、各部署へ通達を出すのが財務庁です」
今や、法廷中が彼女の言葉をひと言も聞き漏らすまいと固唾を飲んで耳を傾けていた。
「証拠として、この四半期の通達の写しを提出いたします。聖女庁が超過した分は、消えてなくなったわけではございません。どこかの部署の灯りが、その分だけ消えております」
傍聴席に移った父が頷くのが、ヴェラの視野の端に映った。
頷いているのは、父だけではない。
「私は昨日、日没前に灯りを落として席を立ちました。本当なら、昨日のうちに提出すべき報告書を置いて。……殿下。私は銅貨一枚失っていないとおっしゃいましたね」
いつの間にか、膝の震えは止まっていた。
「失っております。殿下が使った魔石の分だけ、私の手元の灯りが消えている。そのせいで仕事が滞り、業務に支障が出ています」
今や傍聴席だけでなく、陪審員席についた王宮職員たちも、さかんに頷き合っている。
「殿下はこの訴えがそもそも誰の訴えなのか、とお尋ねになりました。お答えいたします」
ヴェラは、まっすぐ殿下を見た。
「灯りを消された、すべての部署の訴えです。宰相府も、財務庁も、この八ヶ月間、聖女庁を除く王宮内のすべての部署が、削られた枠の下で日暮れと共に席を立ってまいりました。私は、その中の一人にすぎません」
「損害を受けた者しか違反者を訴えられないとおっしゃるのなら――殿下を訴えられる原告は、この王宮で働くほぼすべての職員ということになります」
――王手。
これこそが、ヴェラがパーカーと共に練り上げた、王子に対する逆襲の一手だった。
「返納金と辺境での無償奉仕は、灯火法の条文に明記されています。私が求めておりますのは、条文どおりの法の適用でございます」
冒頭で自ら違反を認めた以上、エルバン殿下は条文に則って罰を受け入れなければならない。
いなくなった殿下の代わりに誰が聖女庁の長官になるにせよ、ここまで大々的に話題になった灯火法に違反することはないだろう。
近いうちに聖女庁の仕事は減り、もとの穏やかな職場環境が戻るはず――。
エルバン殿下はしばらく無言でヴェラを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……なるほど。見事だ」
殿下はゆっくりと陪審員席を見渡した。
繰り上がったばかりの補充陪審員も、その隣も、そのまた隣も。座っているのは全員が王宮職員だ。
「原告は、この訴えを『灯りを消されたすべての部署の訴え』と定義した。その定義に従えば、宰相府、財務庁、外務庁――聖女庁を除く王宮のすべてが原告である。そこに座る諸君も、当然その中に含まれる。……よって」
陪審員席がざわりと揺れる。
ヴェラは、ほっと肩の力を抜いた。
だって、殿下はもう自分の負けを認めるしかないのだから。
けれど――。
「よって、私は本訴訟の審理そのものに異議を申し立てる。裁判長、あなたは先ほど、原告との血縁を理由に陪審員の交替をお認めになった。だが今はどうだ。陪審員席についているのは全員が王宮職員、すなわち原告だ。何人交替させようとそれは変わらない。――この裁判は成立しない。私を公平に裁ける者が、この中に一人もいないからだ!」
カッ、と法槌が鳴った。
だが、それは静粛を求めるためのものではなかった。
「……被告の申し立てを認めます」
ヘルリッツ侯爵の声が、ヴェラの耳にはやけに遠く聞こえた。
「本件、判決不能。エルバン第二王子殿下の処遇については、国王陛下ご臨席のもと、議会にて改めて審議するものとします。閉廷!」




