3.
結局、聖女庁の人員は補充されずじまいだった。
父によれば、正規職員の補充を打診されたエルバン殿下は、
「正規の職員なら足りている。必要になれば、その都度臨時で平民を雇い入れたほうが安上がりだ」
と答えたそうだ。
そんなことを言って、クイルたちに業務を丸投げしてさっさと帰るようなダメ上司なら糾弾もできるが、殿下は誰よりも早く登庁し、誰よりも多く案件をさばき、誰よりも遅くまで残って仕事をしているのだ。
(完全にワーカホリックね)
ヴェラは舌打ちする。
「たまにいるのよ、ああいう人。自分が仕事大好きで、いくらやっても疲れないもんだから、他人もきっと同じだろうって決めつけて、どこまでも巻き込んでいくタイプ」
「ほっほ。これはまた手厳しい」
ヴェラはぎょっとして振り向いた。
宰相府の地下書庫である。
父に頼んで入れてもらった黴臭い部屋の中には、さっきまで誰もいなかったはずなのに……。
そこにいたのは、くたびれた文官服に身を包んだ人の好さそうな老人だった。
「まあ、ダーウェント卿!」
エルバン殿下の前に聖女庁の長官だった方だ。
クイルによくチェスの相手をさせていたのは、このご老体である。
殿下が着任した後も、しばらく補佐をしていたが、体調不良が原因で職を辞したと聞いていた。
「お久しぶりでございます。最近は夜会でもちっともお会いできなくて……。その後、お身体はいかがですか?」
「まあ、歳が歳ですからな。今はここで、かつての仲間たちとのんびり過ごしておりますよ。……それで? クイル君ご自慢の婚約者殿が、このような場所に何の御用ですかな?」
「実は……」
ヴェラはこれまでにあったことを、あらいざらいぶちまけた。
「……そんなわけで、王宮職員の待遇について定めた法律があるかどうか知りたいんですの」
前世の社長命令よりも、今世の王命よりも強いもの。
それが法律だ。
もしもクイルの今の環境が法に照らして不当なものなら、たとえ王子が相手でも彼を守ることができるのではないか。
ヴェラが話している間、ダーウェント卿はひと言も口を挟まずに聞いていたが、やがて「なるほど」と頷いた。
「聡明なお嬢さんだ。クイル君がべた褒めするのも無理はない。どれ、この老骨もひと肌脱ぐとしますかな」
来なさい、と言われてついていくと、奥の書棚に案内された。
「過去に可決された法案はすべて、この棚に収められておる。好きなだけ調べてご覧なさい」
「ありがとうございます!」
その日から、ヴェラの地下書庫通いが始まった。
◆◆◆
ことり、と目の前にカップが置かれ、ヴェラは書類綴りから顔を上げた。
香り高い紅茶の湯気の向こうで、品の良い老貴婦人が微笑んでいる。
ヴェラは慌てて立ち上がった。
「前聖女様!」
「あらあら。そうかしこまらないでちょうだいな。今はもう聖女でも何でもないのよ」
そう言うと、かつて聖女だった老婦人は、ヴェラの向かい側の椅子に音もなく腰かけた。
「貴女が面白そうな調べものをしていると、ダーウェントに聞いたものだから」
そういえば、前聖女様とダーウェント卿の任期はほぼ重なっていたのだっけ、とヴェラは思い出した。
前聖女様はダーウェント卿の初恋の人で、そのせいでダーウェント卿は結婚しなかった、というのは社交界でも有名な話だ。
「それで? お目当ての法律は見つかって?」
穏やかな問いかけに、ヴェラは目を伏せて首を横に振った。
法案は分野ごとに分けられていた。ヴェラはこの数週間、職員の任免、就業規則、賞罰、恩給と、少しでも関係のありそうな綴りを片っ端から引き出しては、埃を払って目を通してきたのだが……。
「残念ながら、王宮職員の勤務時間を規制するような法律は、この国にはないようです」
「あら、そうなの? わたくし、あれはてっきり法律で決まっているものだとばかり……」
不思議そうな前聖女様の様子に、ヴェラはおやと引っかかった。
「あれ、とおっしゃいますと?」
「わたくしたちの頃は、日が落ちると必ずパーカーがそわそわし始めて、早く帰れ、すぐ帰れ、ってそれはものすごい形相で追い出しにかかっていたのですよ」
「パーカー様、というのは確か、身体を壊して財務庁から転属になった方ですよね」
「ええ」
かつてクイルの同僚だった、顔色の悪い青年を思い出す。
(確か、あの方もエルバン殿下が着任して間もなく離職されたはず)
彼に訊けば、何か新しいことがわかるかもしれない。
ヴェラは勇んで立ち上がった。
「ありがとうございます、前聖女様。私、これからちょっとパーカー様のところに行ってきます!」
「ええ。そうするといいわ。パーカーなら、確か今は郊外の……」
前聖女様はパーカーの現住所を教えると、「がんばってね」と微笑んでヴェラを送り出した。
◆◆◆
王都郊外。
風の吹き渡る丘の上で、ヘイ・パーカー伯爵令息は車椅子に座ってヴェラを待っていた。
パーカー伯爵の三男で、クイル同様、法官貴族としての男爵位を持っている。
「遠路はるばるご足労いただき申し訳ない」
「いいえ。こちらこそ、面会謝絶と聞いておりましたのに、会っていただけて恐縮です」
丁寧に頭を下げたヴェラに、パーカーは「お気になさらず」と手を振ってみせた。
「ああでも言っておかないと、未だに仕事を持ち込んでくる馬鹿がいるものですから」
「まあ」
クイルの話では、現役時代のパーカーは知る人ぞ知る敏腕財務官だったという。
王宮内の汚職や不正を暴いたことは数知れず。だがそのせいで恨みを買ってしまい、どこかの貴族が雇った破落戸に襲われ瀕死の重傷を負ってしまった。
かろうじて命は取りとめたものの、元の激務には耐えられず、聖女庁に異動になったと聞いていたが……。
「それで、僕が終業時間にうるさかった理由をお聞きになりたいと?」
「ええ。前聖女様がおっしゃるには、パーカー様は日没を過ぎると、必ず皆に帰るように促してらしたとか」
「そうですね。どこの部署も、灯火予算は厳しく制限されていますから」
聞き慣れない言葉に、ヴェラは目を瞬いた。
「灯火予算、ですか?」
「文字通り、王宮内の照明に関する予算です。シャンデリアに使われる蝋燭代、魔導ランプに使われる魔石代などですね。かつてそれらが今よりずっと貴重だった時代の名残で、これがかなり低く設定されているのですよ」
殊に、聖女庁のように仕事の少ない部署には、その予算は最低限しか下りないという。
「要するに、割りを食っていたのです。王宮全体で使える灯火予算には限りがありますから、どこかが多く使えば、その分どこかを削らねばならない」
「その『どこか』が聖女庁だったわけですか」
パーカーは頷いた。
「財務庁が四半期ごとに枠を組み直して、各部署に通達するのですが……。例年、聖女庁に割り振られる枠は、年中行事の前後以外、日暮れと共に退出しないと賄えないくらいでした」
「え、でも……」
今の聖女庁は「不夜城」と言われるほど、夜遅くまで煌々と明かりがついているのに。
ヴェラがそう言うと、パーカーはふんと鼻を鳴らした。
「今はおそらく逆でしょう。聖女庁が使った分だけ、どこかの部署の灯りが消えている。この四半期も、通達は出ているはずですよ」
その言葉で、ヴェラはあることを思い出した。
「言われてみれば、宰相府の廊下は真っ暗でしたわ」
先日、父を訪ねていった時のことだ。
パーカーは「ええ」と頷く。
「法を司る宰相府がその法を破っては、国民に示しがつきませんからね。違反して罰されるのは、この場合、部署の長たる宰相閣下ですが、閣下もさすがに辺境送りは避けたいでしょう」
「辺境送り!?」
唐突に出てきた物騒な言葉に、ヴェラは目を見開いた。
辺境での無償奉仕は、放火や殺人を犯した犯罪者に課される重罰だ。
パーカーの説明は続く。
「灯火法は、かつて王宮が二度にわたり火災で全焼した時代に制定された法律です。どちらの火災も多くの死傷者を出したことから、超過額の返納だけでなく、辺境での無償奉仕も追加されました。今では魔石が主ですから、条文だけが当時のまま残っているわけですが」
「…………」
ヴェラはしばらく考えこんでいたが、やがて顔を上げてパーカーを見た。
「すでに王宮職員を辞したパーカー様に、こんなことをお願いするのは心苦しいのですが……」




