第10話 【閑話②】おじさまのいない世界
「末期がんだったんですって?」
「ステージ4の診断の直後に事故よ」
「抗がん剤治療も高額だし、気持ちはわかるけどねぇ……家族に迷惑かけたくないってことかしら」
通夜の最中だというのに、近所のご婦人たちはヒソヒソと噂話に花を咲かせている。
喪主となった神崎祐司は、苛立ちを隠せずにいた。
(あれはバイクの暴走で! 10・0のもらい事故! 目撃者もいたしトラックの運転手もドライブレコーダーで証拠を……って説明したってな。がんは本当だし、噂は流れるよなぁ)
はあ、と深いため息をつく。
祐司は宗一郎の三歳年下の弟だ。同居の母親は高齢で、父はすでに他界している。
結婚して妻も子もいるが、兄とは昔から仲が良かった。
考えてみれば、神崎宗一郎という男は何もかも他人に譲ってしまう人だった。
貰い物のおもちゃもお菓子も、「こっちがいい!」と祐司がいえばそちらを渡してくれたし、サッカーをやっていて夕方は腹ぺこな弟に「お母さんには内緒だよ」とおやつをくれた。
空腹で呻く声が隣の部屋から聞こえていたせいかもしれないが。
母が仕事で忙しいときは代わりに練習試合に付き添ってくれた。作れるお弁当はいろんな具の入ったおにぎりだけだったが、祐司はあのばくだんおにぎりが結構好きだった。宗一郎が応援にくるときはいつも以上に試合に気合いが入った。
……有り体に言うと、宗一郎はブラコン製造機だったのだ。
祐司は高校に入るまで兄にべったりですごしてきた。
転機が訪れたのは兄の大学進学だった。
宗一郎はいつの間にか奨学金で大学に行けるよう手続きも何もすべて決めてしまって、お金は弟の進学に使ってくれと言いだした。
そしてキャンパスが遠いため、定期代の無駄だと言って一人暮らしをはじめた。
それから兄は、年末年始と夏期休暇以外はほとんど実家に戻って来ない。
親が子離れする前に、そして祐司が兄離れする前に、さっさといなくなってしまったのだ。
あのときは家族全員、ショックだった。
しかし宗一郎が急に冷たくなったわけではない。
まめに連絡はくれるし、電話でもよく話しているため疎遠になった感じはなく、その絶妙な距離感で兄は神崎家の中で存在を示し続けた。
(完璧すぎる兄だった、っていうとなんか違うんだよな。堅苦しい『完璧』じゃなくて兄貴のは……気が抜けてるというか)
一度席を立ち、祐司は受付の裏手で電子煙草を吸っていた。こうして故人を偲ぶのも葬式としては正しいのだろう。
「適当なこと言わないでください! 神崎部長が自殺なんてするわけないでしょう!!」
突然、こじんまりとした葬儀会場に大きな声が響き渡った。
ドキッと心臓が跳ねる。あの噂好きの隣人たちに向けた言葉だった。
一言一句同じように思っていたので、一瞬自分の声かと思ったくらいだ。
兄のことを大して知りもしないくせに、あの人はがん宣告なんかで世を儚んだりしないのに、と。
「やめなさい、ご迷惑だから」
「でも、……!」
「わかってる。突然のお別れで、みんなそう思っているよ」
宥めているのは初老の男性で、噛みついているのは三十代くらいの会社員のようだ。
女性が多めのグループなので兄の会社関係だろうと思い至る。
「本日はご多用の中、ありがとうございます」
電子煙草をしまいこみ、祐司はすぐにそちらへ挨拶に行った。
兄は仕事に真面目な人だった。急にいなくなって、引き継ぎのない業務では困っていることだろう。
「――いえ、実は神崎部長の仕事はすべて共有済みでして、引き継ぎはもう」
「えっ」
軽い挨拶を交わした後、初老の男性は目元に皺を寄せながら困ったように微笑んだ。周囲の女性たちも一様に『大丈夫です』と頷いている。
「あ、あの……それは兄がすでに、身辺整理をしていた、とか……?」
「いえいえいえ!! そんなわけはありません」
「違うんです。神崎部長がきてから、総務の仕事をすべてマニュアル化してくださったので。私たちの誰が休んでも、平気なようにって。それが神崎部長にも」
「……はあ」
不思議そうに首を傾げた祐司に、数人の女性がわらわらと集まってくる。
「部内の全員の仕事ですよ。それを吸い上げてまとめてくれたんです」
「ご自分の仕事もあるのに、逆に私たちに『君たちの三倍の時間がかかってもうしわけないね』なんて言いながら! 事務の仕事をですよ?」
「普通、こういうのはまとめた後に更新していくのが大変なんですけど、部長が使ったのはPDFとエクセルだけでマクロもなし。……誰でも使えるソフトな上に、同じようにはできなくても見よう見真似でなんとか」
「難しいことは何にもしてないとか言う人いましたけど! ああいうのが一番手間で大変なんですよ! 複雑だからすごいってわけじゃないでしょう? 仕事って!」
詰め寄られて思わず後ずさりした祐司は、さきほど叫んでいた三十代の男にぶつかってしまった。
「いないと業務が回らないわけじゃないんです。まわるようにしていってくれる人なので。……でも、神崎部長がいるのといないのとでは、違うんですよ。空気が」
「く、空気?」
どんよりとした表情のその男は、何度も泣いたのか目元がくしゃくしゃになっていた。
「俺たちには神崎部長が必要だったんです。……うう、……う゛ぅ……ぶちょおッ」
「ああ、コラコラ泣くんじゃないよ。ご親族の方の前でそんな……」
初老の男性がぺこりと頭を下げ、男を引っ張って行った。
「神崎さんの前の、総務部長です」
キビキビとした感じの女性がそう教えてくれたが、あの男性と宗一郎の面影はあまり重なるところはなかった。
「うちのことはご心配なく。こういった場合のお花の手配だとか、香典の集め方だとかまでうちは総務でマニュアル化しているので。なにもかもスムーズで驚くくらいです」
「はあ」
「あの男性、新入社員のときに神崎部長がOJTを担当した子で。すみません、お騒がせして。思い入れが強いんですね」
「……いえ、あれだけ悲しんでもらえれば兄も喜ぶでしょう」
人たらしな宗一郎の一面を知っている祐司は、苦笑しながら答えた。
彼が特別懐いていたんだろう、と思ったのだ。
しかし――
「実は彼も私たちも代表で」
「はい?」
「放っておくとみんな通夜に来たがって大変だったんです。これでも絞ってきたほうです」
「は」
「神崎部長が育てた新人は多いです。それだけじゃなく、飲み会を嫌がる最近の若手と飲み会したい上層部との間を取り持ったり。忘年会をやらないで納会を豪華にする案を通してくださったり、去年はそれでも飲みに行きたがる支店長や幹部をなだめすかして連れて行ってくださって。私ら主婦や新人たちは先に帰らせて頂いたんですよ。……ほんっっっとうにもう、心底助かりまして! 私たちは、神崎部長の存在がありがたかった」
一息で言うには、だいぶ早口だった。
唖然とする祐司に、女性は姿勢よくゆっくりと頭を下げた。
「あんな人、他にいません。……でもそんなことご家族が一番ご存じですよね。心よりお悔やみ申し上げます」
そう言われた瞬間、祐司はようやく現実を認識した。
明日、携帯で連絡を入れても、もう宗一郎からの返事はこないのだ、と。
「そう、ですね。……あんなできた兄貴は、いないですよ。本当に」




