想像上の想像
日本国憲法
第十一条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
◯
「鈴江ミカ様
先日の自分の発言は不適切でした。心からお詫び申し上げるとともに、是非とも撤回させていただきたいと思っています。また、可能であれば直接謝罪させていただけたらと思っています。ご検討いただけましたら幸いです。
嵯峨律有人」
……という文章に、全員分の既読が付いてから、およそ一時間。
「別に」
「謝りたいなら謝ればいいけど」
「どうでもいいし」
鈴江から、そういうレスポンスが飛んできたとき、律有人が苦悶の表情を浮かべるところを、すぐそばで生央が見ていた。
「僕にも責任があると思います。事前に嵯峨くんの考えた創憲案の条文について知っていたのに、その問題点を指摘してあげることが出来なかった。誰かがつらい思いをするかもしれないというリスクに、気付くことが出来なかった。僕からも鈴江さんに謝罪したいです」
律有人の画面に生央のメッセージが表示される。律有人が顔を向けると、彼はにっこりと微笑んだ。言うまでもなく、律有人の謝罪の文章も生央が添削したのである。当初は「誤解を招く表現」とか「不快にさせてしまったなら」というような、まあ、悪い意味で政治家みたいな文言を並べたのだが、そうした言葉のケバを生央が全部削ぎ落としてくれた。
大事なのはこの期に及んで自分の名誉を守ることではなく、自分の傷つけてしまった相手の心を救うことだ、……頭では理解できているのだけど、それを素直に表現することは難しいし、恥ずかしい。しかしそこと向き合い、超えるからこそ、謝罪の言葉は意味を結ぶ。
生央の言葉が効いたのだろう。しばらく置いてから、
「明日の放課後だったら、時間作れるから」
「聞いてあげる」
という鈴江からの返信があった。
「よかったぁ……」
とベッドの上に仰向けに崩れた律有人に、
「よかったねぇ……」
生央が寄り添うように倒れ込んだ。だが、すぐに廊下を歩いてくる足音がして、二人揃って起き上がる。ほどなくして、母親がドアを開けた。
「お風呂。どっちが先に入るの」
生央がいることが、当たり前の振る舞いだ。
もともと小学生のころから仲が良くて、律有人が佐々原家の旅行に一緒に連れて行ってもらったこともあるし、こうして生央が律有人の部屋に泊まることを今更問題視もしない。「今日、生央泊まっていくから」と一声かければ、夕飯も生央の分が当然のように用意されるし、なんなら箸と茶碗とバスタオルも生央の分が備えられているぐらい。
「じゃあ、生央先入れよ」
「うん、……えっと、おじゃまします」
浴室に入る生央を見送ったタイミングで、玄関のドアが開き、父親が帰ってきた。一年前より額がずいぶん広くなった。俺もやがてはああなるのかな、と想像する。でも、高校一年生の息子とその父親ということを考えれば、悪い関係ではない。
「おかえり、おつかれ」
「うん。生央くん今日も来てるのか」
並ぶ靴ですぐに把握した彼に、「いまお風呂」と告げる。
「生央くん、すまんが、手ぇ洗ってうがいしてもいいかい」
ドアの向こうから声を投じた父に「おかえりなさい、どうぞぉ」とどうやらシャツを脱ぐところだったらしい生央のくぐもった声が返ってくる。この父と三人で箱根の温泉に浸かったことがあるので、生央は動揺もしない。
台所では、母がメカジキのトマト煮を温め直しているところだ。
夕方に、立川の両親の話を聞いた。嵯峨家は二人揃っている。母は、「律有人が高校入ったらパートに出る」と宣言していたが、まだそれを実行に移してはいない。その理由について彼女は「大変なのよね色々。働くのってしんどいし」という、生々しい声を聴かせてくれた。父の話では、この母は意外にもお嬢さま育ちでいるもので、学生時代以来外での労働なんてしたことがないのだそうだ。
その代わりと言ってはなんだが、料理は上手である。
食卓に着いた父が「ああ、今日も美味そうだ」と嬉しそうに箸を手にする。トマトソースで白いごはんを食べるのが、何よりも好きな父である。父はめでたい色合いのごはんを二口食べて、
「そうだ。あのね、パートに出るって話だけど、やっぱりやめといた方がいいんじゃないのかな」
とテーブルの斜向かいに座って温かく淹れたジャスミン茶を啜りながら半身をテレビに向ける母に向けて言った。安心したような、訝しむような、複雑な色合いの眼差しに見えた。要は、やっぱり母は働きに出ることに気が進まないのである。
でも、一応といった感じに、
「あら、どうしてよ」
と訊き返すことはする。あたしは本当は家計のためには働きたいのよ、でもあなたがそう言うならね……、その後に続く言葉をきっちり用意しているのだろう。今夜メカジキに使ったトマトソースは、多めに作って冷凍しておいて、明後日あたりに今度は鶏肉を煮込むのに使う、そういう頼もしい周到さが、律有人の母にはあった。
「最近、このあたりも外人が増えた」
父は眉をひそめて言った。
「特に、ほら、北口の商店街のあたりなんて、いっぱいうろうろしてるだろう」
嵯峨家・佐々原家の最寄り駅は、西浅川という。南口には街道が走り、主な商業地は北口。短い商店街に、昔ながらのお惣菜屋やら、大手のスーパーやら、個人の漢方薬局やらドラッグストアやらが渾然一体と軒を連ねており、その先は山を背負った住宅地。
嵯峨家・佐々原家があるのは、南口から街道を渡って川の近く。学校があるのはさらに川の反対側の山の手である。川に沿って鉄道と道が敷かれ、それに従い街が開け、離れると山、というのがこの辺りの地形の大きな傾向。
「山の方は昔からそうなんだよ。不便だから、よくわからんのがたくさん住んでて、……僕はほら、地元だから。昔はあんまり山の方へ行っちゃダメだなんて言われててね。まあ、何か具体的に物騒な出来事があったってわけでもないんだけど」
「最近では熊が出るでしょう」
母親はどこかピントのぼけた相槌を打った。
「そうそう。そういうこともあるし。でも、最近は外人が増えて、商店街の方もうろうろするようになってるんだ」
まるで外国籍の住民が熊か猪であるかのような言い方である。
「でさ、お母さんが働くっていうのは要するに、ドラッグストアとかスーパーでってことでしょう。そういうところに、話の通じないのがいっぱい来て、でも『お客さま』だから接客はちゃんとしなきゃいけないわけで。そういうのは、しんどいんじゃないかなぁって思ったんだ」
テレビでは今年になってから始まった中東の戦争のニュースが終わり、地域のニュースに移る。
「今日、午後四時ごろ、K県S市の国道◯◯◯号線で路線バスと乗用車の衝突する事故がありました。路線バスには乗車していた二十名のうち、一人が軽い怪我を負ったということです。現場は見通しのいい二車線道路ですが、……、乗用車を運転していたリビタニア国籍のマルデリフ=コッパート容疑者を道路交通法違反で……」
「ほら」
父は顔を顰めて言う。
「信号ぐらいは見たらわかりそうなもんだと思うけどね……。まあ、これからはどんどんそういう人たちが入ってきちゃうわけだからな、そんな中でお母さんみたいな人が働くのは、なかなかリスクが高いような気がするんだよ」
「こんなおばさんに……」
「おばさんだなんて」
律有人はさっさと部屋に引っ込んだ。律有人の両親は仲がいい。律有人が一人っ子なのが不思議なほどである。
父は、九時代と十時代のニュースを続けて観るのが習慣だ。ニュースを見て世の中の動きにアンテナを張っておくのが、社会を生きる大人の責任なのだと思っているそうだ。良好な関係の父親と母親と息子、この小さな世界に存在する、ちょっとした危機感……、正確には二つの危機感が、父の言い方を借りるなら律有人の「アンテナ」に引っ掛かった。
父は母を心配していると言った。母が仕事で外に出るようになれば、言葉の通じない外国人(推定されるのは、どうも「男」であるようだ)が母に具体的な危害を加えることを想像して、彼は恐れている。
律有人としては自分の母親の性的な要素に思いを馳せるという行為はとてもしがたいのだけれど、要するに外国人の男というものはそういうことをするのである、という考えに基づいてなされた発言だったのだろう。
それが自身の配偶者への当然の愛情であると、少しも疑うこともなく。
ちょうどそのタイミングで流れた外国人のニュース、……信号無視はいけない、交通事故は怖い、でも怪我をした人が一人でよかった、軽い怪我で済んでよかった……、というニュースだったのか、「外国人のドライバーは信号を無視する」という教訓を得るべきシーンだったのか。
危険だなぁ、と律有人は思ったのだ。
つい数日前までなら自分も同じシーンで「やっぱり外国人は日本にいちゃいけないんだ」と思っていたに違いない。
そういう、危うさ。
「律有人お風呂空いたよ。……どうしたの?」
「んー、いや……、ありがとう、入る」
かつて律有人と生央の同級生には、苗字がとある有名な独裁者と同じ外国人がいたのである。
小学六年生のときに彼は転校してきた。下の名前は「ロラン」と言って、肌の浅黒く、黒髪に強いカールが掛かって、眉はびっくりするぐらい太くて濃くて、小学六年生としてはとても背が高かった。
両親の仕事の都合で日本に来て、一年後にはまた外国に発つという。
初めのうち彼はほとんど日本語を喋れなかった。しかし、しばらくは別室で先生とマンツーマンで日本語を習い、同じクラスの児童たちとおっかなびっくりのコミュニケーションを取っているうちに、一学期が終わる頃にはびっくりするぐらいに色々な言葉を使うようになっていた。当時は今よりもうちょっと明るく友達も多かった律有人も、ロランの友達の一人だったという自覚がある。卒業し帰国するとき、ロランは人目も憚らず泣き、それを見て生央も泣き、律有人も少し泣いたのである。
家に呼んだことはなかったが、運動会のとき、卒業式のときなどにも、律有人の両親はロランを見ている。律有人(と生央)の同級生に外国人の児童がいたのはロランが初めてではなかった。
ロランの国では、いま、戦争が起きている。
まさか父だって母だって、「あの国のすべての人が悪いわけじゃない」と言うだろう。
けれど、ロランが特別「いい子」だったと言うだろうか?
耳で聞いた国の名前や、肌や髪の色で、言葉で、……勝手な価値観で分類することを差別と呼ぶのなら、ヨーロッパで立川が受けたのも同じ差別である。日本人もまた、ある環境においては存分に差別されるということだ。
だから日本人が、日本に来る外国人を差別していいかという話でもない気がする。「いい」「悪い」の線引きが犯罪行為によって行われるのならば、さっきのリビタリア人の何某は確かに悪い人間の側に括られることとなる、……言うまでもなく、他のあらゆる日本人犯罪者と同じところにしまわれるべきである。
そうであるならば、他のあらゆる外国人は、他のあらゆる日本人と同じところに括られるのが当然ではないのだろうか。
自分の父であり母である人でさえ、当たり前のように言ってしまうんだな、という事実を前に、自分が意外なほど強い衝撃を受けているらしいことに気付いて、律有人は湯の中にずいぶん長く浸かっているのに、なかなか芯まで温もりが行き渡らない気持ちになる。
「大丈夫? のぼせてない?」
部屋に戻ると、心配そうな顔の生央が待っていた。
「いろんなこと考えてた」
「いろんな……」
「考えてたっていうか……」
想像していた。その行為を、昨日からよく、律有人はするようになっている。
想像力の翼を広げて……、格好いい言い回しだが、翼を広げてどうするのだろう? 翼を広げて、覆い包むのか、あるいは光にかざして作り出した影で覆うというのか。いずれにしても、覆い切れるものではないだろうと思う。
「人間がしなくちゃいけないのは、そういうんじゃなくって……」
急にこんな話をし始めたからだろう、生央は心配そうな顔で、床に座りベッドに寄りかかってぶつぶつと言う律有人の隣に腰を下ろしていた。
「俺は……、なんか、液体、みたいな気がする、想像力って、そういう感じ」
「液体……」
「水を、こぼしてさ、……ばーっと、広がっていく。ムラはあるかもしれないし、乾いていっちゃう、蒸発して……、そういうものかもしれないけど、翼を広げるよりは、もうちょっと遠くまで行く気がするし、区別なく、べたーっと……」
想像力がそういうものだとすれば、顔も見たこともない人のところまで行き渡る気がするのである。
「あと、……翼だと、大きさに限界がありそう……。液体だったら、最初から限界ないだろ、いくらだって……、ほら、しょんべんがやたら出るときあるだろ、水とか、コーヒーとか飲みすぎちゃったようなとき……」
いよいよ生央は心配になっているのではないだろうか? しかし生央は、律有人の視界の端っこで、黙って真面目な顔で見つめている。
「想像力って、出る時はそれぐらいたくさん出るし、水飲めばしょんべんが出るわけで……、それは『出すぞ』っていうもんでもないと思うし……」
「あ、あの……、ごめん、おしっこの話聞いてたらおしっこしたくなってきちゃったから、ちょっと待ってて」
生央が慌ててトイレに行くに、戻ってくるなり、
「泡みたいなものかもしれないよね」
と言った。
「想像力が?」
「うん。僕は、そう思ったんだ」
生央のイメージするところによれば、……遠く、見えないぐらい遠くの世界まで、自分の想像力が泡の形で浮遊している。シャボン玉を飛ばすように。一つひとつの泡は繋がってはいない、けれど繋がる日が来るかもしれない、また、弾けて消えてしまうこともあるかもしれない。しかし、とにかくそうした細かな泡が、世界のあらゆる場所に散在している。
「ははー……」
「その泡の数とか大きさにはムラがあるだろうし、あっていいと思う。でも、あらゆる場所にそれはあって、……自分がたとえば、嫌だなとか、嫌いだな、苦手だなって思うものとか、自分と真っ向から対立する何か、……人だったり場所だったり考え方だったりするところにも、やっぱりその泡はあって、イメージする余地が残ってる、みたいな感じ」
「ほはー……」
「律有人だいじょうぶ? ほんとにのぼせてない?」
そうではなくて、ちょっと、……変な言い回しにはなるが「ほんとになるほど」と思ったのである。
生央が挙げた「嫌だなって思うもの」たちは、「対立するもの」と言い換えてもいいだろう。
なぜ対立するのかは、わからない。わからないけれど、そして、わかりたくもないけれど、想像する余地がそこにさえ残されているということだ。
もっと言うならば、
「……すっごいぼんやりしたこと言っていい?」
「ぼんやりするの……?お水注いでこようか……」
「大丈夫、水はさっき冷蔵庫の飲んだから。えーとな、冷蔵庫に、ドレッシングが入ってた」
また生央が心配そうな顔になって、でも、ひとまずは頷く。
「フレンチドレッシングの、あの、透明なやつ、油とお酢? とかの。かける前に振って混ぜて使うやつな」
「わかるよ、晩ごはんのサラダにかけたやつだよね」
「ドレッシングって、お酢と油でできてる」
「うん……」
「お酢と油は、別なもんだよな、なんか……、あるだろ、ことわざで、『お酢と油』みたいな」
「水と油……」
「それだ。基本的には別なもんだけど、振ると混ざって、ドレッシングになる」
あくまでお酢と油と、あと香辛料という話であるが、律有人が言いたいのは別にドレッシングやマヨネーズの作り方や「乳化」のシステムについてではない。
灯を消して、律有人はベッドに、生央は一応、床に敷いた布団に一度は横たわってから、話の途中からまた起き上がり、枕を律有人の頭の隣に置いていた。
実のところ、律有人はもう自分が何を言っているのかあまりわからなくなっているのだった。
「だから、その、混じり合ってどろどろした中に、俺もいるし、お前もいるし、立川や相馬や鈴江もいて……、両親とか、あと、遠い国の人、会ったことのない人も、いてさ……」
昨夜あまり眠れていなかったせいもあるだろう。すっかり頭は回らなくなっていて、思考のためのコストを用意できなくなっている。
けれど一方で、想像力はさっき律有人が口にしたように液状化して世界へと行き渡ることをやめない。眠れていなかったのは生央も同じであるはずで、相槌もあまり中身のないものへととろけて、流出していく。律有人は「ん」という生央の声がときどき聴こえるたびに、自分が眠りに落ちていることを自覚するし、生央は律有人が言葉から逸れて、つまり数秒の沈黙を挟むたびに目を覚ました。そういう時間を短く挟んだ末に、二人はとうとう安らかな眠りに落ちる。今日とよく似た明日が来ることを、期待するようにぼんやりと想像しながら。




