ぼくらの街
律有人と生央は、西浅川駅の北口にある商店街を歩いていた。
商店街に入って四つめの角を、左に折れて、左の三軒目……、という鈴江の送ってきたメッセージに従って。
いま、二つ目の角を超えたところだ。
ドラッグストア、スーパー、母が働きに出るに当たって候補にしていた店々に自然と目を惹かれる。通りの半ばにあるカラオケには、生央と来たことがあった。その向かいに当時あった家系ラーメンのお店は、もともと牛丼屋で、いまは油そば屋に変わっている。
隣の浅川駅のバスターミナルからは四方にある大学へ路線バスが出ているが、そうした大学に通う学生たちの下宿先として、西浅川駅周辺は人気があり、設備も若向けになりがち。いきおい、郊外の小駅でありながら、どこか繁華街めいた雰囲気が漂う。金曜の夕方五時というこの時間は既に、講義を終えた大学生たちで商店街は大いに賑わっていた。
外国人の姿もある。ロランと同じ国の人だろうか、目の当たりがよく似た印象の二人連れが、身振りを交えながら笑って会話している。
生央も、彼らを見てロランを思い出したのだろう。
「律有人、知ってる? ロランのお父さんって外交官だったんだよ」
鈴江に呼び出された場所に向けて歩く道すがらである。律有人の緊張をほぐそうとしてくれたのだろう、生央だってもちろん緊張しているはずなのに。
「外交官?」
初耳だった。
「……って、どんな仕事してるんだっけ?」
「僕も、よく分かってるわけじゃないけど……、例えばさ、経済的な交渉なんかもそうだろうし、日本で働くロランの国の人たちのことよろしくね、みたいな話もするだろうし、あとは、文化交流、みたいなのも」
クールジャパン、みたいな話か。
日本の漫画・アニメの文化は世界に向けて発信され、多くのファンを得て、リスペクトを向けられている。これについてはオタクとして、大いに胸を張りたいと律有人は思っている。
卒業式の日にロランはみんなの前で、「日本語がわかるようになって、漫画が読めるようになって、楽しかった。みんなと話せたことは、もっと嬉しかった」と言ったのだ、号泣しながら。
「それでね、思ったんだけどさ、ロランはこっち来たばっかりのときは日本語全然喋れなかったし、そもそもお父さんの仕事の都合で一年こっちにいるだけだから、別に日本語喋れるようにならなくてもよかったわけだよね」
「まー……、そうか。喋れて損になることもないかもだけど」
「インターナショナルスクールっていうのがあるでしょ」
外国人の集まる学校。そういう学校においてならば、日本語が喋れなくても苦労はしない。
「そういうのは、私立だろ。高いんじゃないのか、……ああでも外交官か」
「って、シンプルに言えるものじゃないかもしれないけどね、でも、お金の問題もあったかもしれない。でも、ロランがこっちに来てくれたから、僕らはロランの国でなくても、あっちのほうの国で紛争とかがあったときは、大丈夫かなって思うのが自然と習慣づいたよね」
「最近だと、どこになんて国があるかもわかんなくなっちゃったなぁ……、ロランが地図でここがこれでこっちがこれでって、教えてくれたのに」
「僕ら同級生がそういうこと考えるようになるって、結構大きいことだったんじゃないのかなって思うんだよね。ロランのお父さんとお母さんはそういうこと考えて、僕らの小学校にロランを通わせようって思ったんじゃないかな。それか……」
ちょっと、生央は表情を曇らせる。
「……インターナショナルスクールは、どっちかっていうと欧米の子が多いと思うんだよね。そういうところに自分の大事な息子を放り込むよりは、日本人だけの学校に入れたほうがまだ大丈夫だろうって思われたのかもしれない」
ほとんど反射的にもう、律有人は鈴江に謝らなければいけない自分を自覚した。そう自覚できる自分に、律有人はなっていた。
ロランと関わって、外国人を差別しないという学びを一度は得たはずの自分なのに、あっさりとそれと真逆のことを口にしていたのだ。そもそも鈴江に叱られる前に、生央を困らせる前に、自分で自分の頭を蹴って「何言ってんだお前は」と怒鳴ってやらなければいけなかった。
「でも、律有人はちゃんと気付けたし、固まらなかった」
「……固まらなかった?」
「そういう考えよくないなって、自分で思って、だから変えようって思ったし、謝ろうって思ったわけだし」
生央の存在があるからだ。
眠っていた想像力が目を覚ました。インターネットの海に転がるものを拾い集めて、それがさも自分の言葉であるかのように使いこなすことには、インスタントな快感があった、けれど、いまや律有人の世界の中心には生央がいる。
生央が悲しい世界にはしたくない。
百二十パーセント格好つけて言うのならば、俺は生央が救われるためならば、自分の首だって差し出すだろう。
みんなもそうなればいいのに、なんて途方のないことまで、律有人は考えた。
自分の中に、大事なものを一つ、本当に守りたいものを一つ選んで置きなさいと言われたら、誰も信頼できない言葉や人なんて選ばないはずなのだ、ましてや「お国のため」なんて精神は置きたがらないだろう。そうではなくて、もっと身近で、その人がいるから生きられる、その人のためにこそ生きたい……、そう思う存在があるはずだ。
そんなことを考えながら歩いているうちに、いよいよ四つ目の角に至った。深呼吸をして、左に折れる。奥にはなんてことのない住宅地が広がっているが、手前には商店街から染み出したように、クリーニング屋、コンビニ、そして、小さなアジアンレストランがある。
左の三軒目が、そのアジアンレストランであった。
黄色い看板に「ワルン・スマイル」と明朝体で書かれた下に「Warung Smile」と書かれている。
入り口のガラス戸は開いていて、カウンターにテーブルが三つあるだけの小さな店だが、テーブルでは女子大生風の二人連れが、カウンターには、仕事の休憩中に違いないカラオケ屋の制服を着たおじさんが座って、勢いよく麺を啜っている背中が見えた。
「ここって……」
生央と二人で立ち尽くしていたら、
「入って」
店のカウンターの中から鈴江が出て来て言った。
急いで生央が調べてくれたところによれば「Warung」というのは、インドネシア語で「小さな食堂」ぐらいの意味なのだという。
まばゆい髪に浅黒い肌、濃いめの化粧、……強い見た目のギャルだと律有人が勝手に思い込んでいた同級生の女子は、女子大生二人が食事を終えるとレジを打ち「どーもありがとうございましたぁ」と愛想よく挨拶をし、二人が綺麗に空にした食器を片付け、テーブルを拭き、その合間におじさんの水のおかわりを用意する。
「ミカの、お友達ね」
少し日本語のたどたどしいお母さんらしい女性が出てきて、テーブルに並んで座った二人の前に、よく冷えたお茶の入ったグラスを置いてくれた。淡い金色で、柔らかな芳香が漂う。ジャスミンティーである。
「友達じゃないよ」
冷たい声を、鈴江が向けた。律有人と生央は肩を縮めて小さくなる。彼女はつかつかとやって来て、二人の前にメニューを置いた。
「なんか頼んで」
「え……あ……、あっ……」
「あたしも食べるから」
「おっ、あっ……、でも……」
「食べられないもん、何かある」
二人が揃って首を振ったのを見て、
「パパぁ、ナシゴレン三つ」
と厨房に向けて声を投じる。
「それで?」
あくまで冷たく強く、鈴江は律有人に向けて言った。
「そっ……、あの、……はい、えと」
恥ずかしいぐらいにしどろもどろになっているという自覚はもちろんある。恥ずかしい、みっともない、逃げ出してしまいたい、けれど。
「ごめんなさい」
律有人は膝に手を置いて頭を下げた。咄嗟に生央がジャスミンティーの入ったグラスを退けるぐらい、速く、そして深く。
「自分に考えが足りませんでした。ほんとに、すごく愚かでした。いまは考えを改めています。でも、鈴江さんに不快な思いをさせてしまったことを深く反省しています!」
用意していた言葉だったのか、それとも、その場で口から出て来た言葉だったのか、律有人にはわからない、生央にもわからなかったはずだし、鈴江もそれは同じだろう。
考えが足りなかった、いや、考えよりももっとローコストで賄える想像力を発揮することさえ出来なかった。しかし、生央が自らの心の矢印の形を律有人に告げるときに必要であった勇気の量をリアルに想像することが、いまの律有人には可能である。
であるならば、自分の配慮のない言葉が鈴江ミカを傷つけたことについても、当然のように。
長い沈黙を挟んで、
「……いいよ、別に」
溜め息混じりに、鈴江は言った。恐るおそる律有人が顔を上げると、頬杖をついて、まだ不機嫌そうな顔でこっちを見ている。
「オタクくん、フツーに喋れんじゃん」
「えっ……あっ、えっ……」
生央が隣で、身体から力を抜いていくのがわかった。鈴江は肩を大きく上下させて、
「あたしは、政治のこととかぜんぜんわかんない。憲法のことなんて、考えたこともなかった」
と言った。カラコンをしていても隠せない印象的な瞳が、真正面から律有人を捉えている。もともと異性と話すことが得意ではない律有人、まして鈴江ミカはギャルであるから、やっぱり緊張してしまって、挙動不審にならざるをえない。思うに、頭を下げて視線を避けていたから、先ほどは噛まずに言えたのだろう。
「でも、考えてみたらあたしのいるの、憲法の上だわって。オタクくん、……嵯峨くん? だっけ? が先週とおととい言ったの聞いて、そんときまで気付いてなかったけど……。だからまあ、気付かせてくれてありがとうとは思う」
「い、っえ、っあの……」
「ぼ、ぼ、僕も、律有人も、同じなんだ、です、これまで、憲法のことをちゃんと考えたことなんてなくって、でも」
考えの歩みが進んだ、と言うことは許されるだろうか?
考えの入り口が、排外的な言説であったけれど、生央の力を借りながら進んだ先、現在位置は、そう悪い場所でもないように思っている。
「自分が、……自分がね、大人に、これから先なって、自分だけじゃなくて、自分の周りの人とか、あと、自分の大事な人にとっての大事な人にとっても、この国が、……居心地がいいなって思えるようなのが、一番いいって、僕だってちゃんと考えたことはこれまで一度もなかったし、でも、律有人と二人で考えて、だから、その」
じー、とまだ冷ややかな目を向けていた鈴江が、目を逸らして、「ふすっ……」と笑った。
それは初めて見る鈴江の笑顔だった。
「いいよ。ごめんね。あたしもカッとなって言い過ぎたし、……それでなんか、あんたたちが凹んだりしてんだったら嫌だなって思って、でも、ガーッて言っちゃったから、引っ込みつかんなどうしようかなって思ってたとこで、……でも譲れんもんは譲れんしなぁどうしようって。したら、嵯峨くんのほうからライン飛ばして来たからさ」
「う、あう、だう、す、すみません……」
「見直した」
「ふぁうぁ」
「ああいう考えの人ってさ、絶対変わんないと思ってたから。こっちがなんか言ったって聞く耳なんて持たんくてさ、どんどんどんどん悪い方に尖って行くばっかりだって思ってたからさ。考えて、わかってくれるなんてことあるんだって、嬉しかった。っつーかあたしもどっかであんたたちのことを社会のこと全然わかってない自己中なオタクだって、そういう色眼鏡で見てたとこあったと思うし」
ギャルだから、……同じ柄の色眼鏡を、自分が掛けていたことを律有人は認める。
「あ、あ、あのっ……」
生央が挙手をした。
「なに。かわいいな」
「あのっ……、全然、全然関係ない話をするかもしれない、ですけど、でも、思ったことが、あるのでっ……、あるのでいいですか」
鈴江がもう一度「なんだこいつかわいいな」と呟いて律有人を見る。そこについては完全同意なので、律有人はほとんど反射的にこっくりと頷いて、生央に続きを促した。
「あの、ね、あの、僕、昨日とおととい、律有人の家に泊まってて、そ、それはあの、僕ら同じ中学で小学校で幼稚園から一緒だから、それは別に珍しいことじゃないんだけど、それで、あのね、その」
大丈夫かこいつ、と律有人は心配になる。一方で鈴江は頬杖をついて、楽しそうに生央を眺めている。
生央が言ったのは、昨日、二人で寝落ちぎわに話した「想像」の話である。




