ぼくらのまだぜんぜん知らない世界
「律有人は、想像力っていうのは、液体みたいなもので、どんどん先へと広がっていくものだって言った……。そうだよね? で、今日、朝起きて、学校に行って、終わってからここに来るまでの道で、ずっと『想像』っていうことについて、考えてて……、こんなことを思ったんだ、えっと」
生央が考えの内容を語るより先に、鈴江のお母さんがトレーに三人分のナシゴレンを持って来た。細長いライスを炒めた赤い炒飯の上に、目玉焼きと白い揚げせんべいが乗っていて、さらに野菜も添えられている。ナシゴレンという言葉は聞いたことがあるし、こういう形の料理がアジアのどこかにあるというのも律有人は知っていたけれど、この瞬間から二つが結びつき、きっともう忘れない。
食欲をそそる香りに、男子二人のお腹がきゅーっと鳴った。
「食べながら聞くのでもいい?」
鈴江の問いに、生央は恥ずかしそうにこくんと頷く。
想像力は、泡のようなもの。
……と、昨日と同じ言葉を、生央は口にした。
「泡ぁ?」
「……ん。えっと……鈴江さんが使うかどうかわからないけど、ジェル……、髪を固めるジェルってあるでしょ」
生央はサラサラの髪である。律有人も使わない。しかし、「ねーパパぁ、パパのジェル持ってきていい?」と鈴江が立ち上がり、お店の奥へ引っ込んで程なくして、お父さんが使っているヘアジェルを持ってきた。まだ開けてから間もないようで、半透明のチューブの中に透明なジェルがたっぷり詰まっている。
そのジェルの中には、細かな泡が無数、浮かんでいる。
「わざわざありがとう……。あのね、僕は、世界はこういう形をしてるんじゃないかって思ったんだ……」
「こういうって、……こういう?」
底が平らで、円筒形の蓋が付いていて……。
生央がしどろもどろになりつつ頑張って言葉を並べたところを「こういうことか」と律有人が言い換えてみる。
「世界全体が、このジェルみたいなものに塗り潰されている……、って言いたいのか」
「嵯峨くんは佐々原ちゃんに何か言うときはフツーなんだね」
「えっそっ……」
生央は頷いてくれた。
世界中がジェルの中に沈んでいる。
「この泡は、想像力。僕の想像力、鈴江さんの想像力、律有人の……、みんなの、誰かの」
鈴江と顔を見合わせて、……わかった? わかんないです、声に出さずに言葉を交わす。
「会ったことのない人、見たことも聞いたこともないもの、行ったことない場所っていうのが、みんなそれぞれにあります、……ありますよね」
「まあ」
「あるだろうね」
「でも、僕らはまだ、誰と会ったことがなくて、何を見たり聞いたりしたことがなくって、どこに行ったことがないっていうのはわからない……、よね?」
「そりゃ」
「うん」
生央が一生懸命に何かを言おうとしているということは律有人も鈴江もわかるので、余計な口を挟むことはしない。
「でも、そこにある何か……、初めて会う誰かとか、見たこともない景色とか。そういうのと触れた、接したときに、鈴江さんの中、律有人の中、僕の中に、……なんだろう、どういうものだろう、こういうものかな、……っていう想像が生まれる」
「あー……」
「まー……」
わかるような、わからんような……。
「何かに出会ったら、みんな、必ずその何かのことを一発で『はいっ、全部わかりました!』ってなるわけじゃなくて、最初は想像から入ると思う……」
「そうー……そうだね」
「かもしれない」
例えばこういうことか。
律有人は(そして多分、生央も)いま、生まれて初めてナシゴレンという食べ物に接している。
口にする前に、目にして、色合い、雰囲気、あるいは鼻に届く香りから、「こういう味がするのかな」と考える、……つまり想像するのだ。
「ってことは、ね」
生央は心を細らせることなく、しっかりと言葉を紡ぎ続ける。
「そこに『何か』がある、僕らが『何か』と接したときに、必ず『想像』が生まれる。……そこに何かあるかなぁっていう想像じゃなくて、何かがあることによって生まれる想像。つまり、想像は常にそこにある」
ん?
と鈴江が固まった。律有人も同じく。しかし、生央はここへ来て勇気が板に着いたような、凛々しい表情を浮かべているのだった。
「例えば、このナシゴレン。とてもおいしい」
「ありがとう」
「こういう感じの料理があるってことは何となく知ってたけど、でも実際に、自分がいただくものとして目の前に現れたのは初めてで、見た瞬間に『どんな味がするんだろう』『辛いのかな』『おせんべいはいつのタイミングで食べるのがいいんだろう』みたいなことを考えた」
「好きな時に食べりゃいいんだよ。途中でかじる人もいるし、あたしは目玉焼きの黄身を崩してそれに付けて食べるのが好き」
「そうなんだね。目玉焼きも添えてあるし、これが、なんかとても華やかで嬉しい。……こんな風に、世界には知らないことがいっぱいある。僕らの知ってることなんて、ほんの一パーセントもないだろう。でも僕らは『世界には知らないことがたくさんある』ってことを知ってる」
幼馴染がどういう到達点、あるいは着地点を見据えて言葉を連ねているのか、律有人にはわからない。わからないのだけど、彼の語る言葉を邪魔する気は湧かなかった。なにより、生央の目の煌めきが、……女子を前にしても堂々と自分の言葉で語っている姿が、律有人にはとても魅力的に見える。
「世界の隅々にジェルが行き渡っていて、そのジェルの周囲には常にこういう、細かな泡がある。僕らがそこに行き着いて、その『知らない何か』と出会った瞬間に、泡の中にあるものが見えてくるんだ。その『何か』が『何であるか』を知る前に、僕らはきっと、必ず、……たぶん、常に、確定的に、想像をするはずだよ」
反射的に、律有人は鈴江を見た。鈴江も律有人を見たのだ。だから二人の視線は真っ向からぶつかった。
「この人はどんな人だろう? 中身がわからないから、『こうかな』っていう想像をする。その、……ごめんなさい僕は、鈴江さんの金色の髪とお化粧を見て、えっと、いわゆるその、ギャル……、なのかなって思って、怖いなって思っちゃったんだ」
「まーギャルなのは否定しないけど。そうなりたいし」
でも鈴江ミカは、ギャルだけど、おうちの手伝いをしている女子高生だ、家族思いなのだろうと察することもできる。ギャルだけどとか、ギャルなのにという先入観もまた「想像」であるという指摘を、きっと生央はしている。
律有人の周りに浮遊する泡、鈴江は律有人と遭遇して「あ、オタクくんだ」と思っただろうし、そのオタクくんが排外的な言説を口にしたとき、非常に強硬な対応を取らざるをえなかった。律有人の周囲の泡は、鈴江にはとても危険な想像をさせたのだ。
想像と実態は違う。
しかし、同時に想像は実態への架け橋となりうる。想像は、生央の説によればジェルの中の泡の形をしているのだから、形を変えるし、他の泡と一つになったり、あるいは別れたりすることが起こりうる。そうこうしているうちに、当初の想像とは全く違った本体、……そのものではなくても、本体に比較的近い存在を察することが出来るようにもなる。
世界にジェルが行き渡っている、同時に無数の泡は、律有人が、鈴江が、その場所に実際に行って遭遇する前から常に、既に、確定的に存在している……、という生央の考えの行き着く先が、少しずつ、朧げながら、律有人には見えてきた。
「僕ら、想像力を捨てることは、出来ないと思うんだ。何かを見て何も感じない、思わない、イコール『想像しない』ってことは、絶対にありえないから。つまり、まだ知らないこと、会ったことのない人に対しても、僕らはまず想像をするっていうリアクションをして、それから、その人そのものに繋げていく、……わかろうとする、そういう動きをしちゃう……、しなくちゃいけないんじゃなくて、しちゃうものだと思うんだよね。だから」
生央は、慌てて何口もナシゴレンを食べた。「おいしい」と小さく言う、「ほんとにおいしい。大好き」と言う声を聴いて、鈴江がとろけるような目になるのを律有人は見た。
「……ん。だから、だからね、余地が必要なんだ」
「なんかまた新しい言葉が出てきたな」
「余地、……余地っていうか、あそびっていうか。ちょっと動かせるぐらいの余裕」
「わかるけど」
「何もかもあんまりきっちり固めて決めちゃうと、それがなくなっちゃうし、そこからちょっとでも外れたものを考えるとき、また何か決め事を一つ作らなきゃいけなくて、効率が悪い。でもって、人間のやろうとすることだから、全体まで行き渡って何にでもフィットするものなんて作れないと思うんだよね」
鈴江がそっと律有人に訊いた。
「これは、憲法の話になってんの?」
律有人はたぶん、とこっくり頷く。
「決めすぎない、固めすぎないのが、いいんじゃないのかなって。人は必ず知らないものにぶつかるし、知らないものがあることだけは知っているし、その『知らないもの』の周りには自分の想像力があることも、たぶん本当だし、その想像が、最初は間違ってることが多いことも織り込まなきゃいけない。だから僕は、……人が間違えられるような、そんな世界観がいいなって、そういう世界観の憲法がいいなって思うんだ」
律有人はもう先に食べ終わってしまった。生央はまた猛然とナシゴレンに向かう。
「あんたの幼馴染はさ、いつもこういう話をすんの?」
鈴江は呆れたように言った。「ちっちゃいけど、めちゃめちゃ頭いいんじゃん」
「普段はしないよ、こんな話」
憲法について考えた、そして(これは鈴江には言えないけれど)自分というものの在り方と向き合い、それを認め、初めて律有人に開陳したすえに、一歩大人になった。
それによって、何らかの、……成長、なんて簡単な言葉の箱にしまい込むことも憚られるような大きな、……あるいは何か言葉に仮託してわかった気になってはいけないような、目を凝らして見詰めなければいけないぐらい繊細な変化が、生央の中で起きたということだ。
無論、それは同じタイミングで律有人にも起きている。この俺に同性のパートナーが出来て、いまはギャルと一緒に、ナシゴレンを食べている! 十日前の自分に向けて、こんな未来が来ることを告げたら、どんな顔をするだろう?
世界には、想像もしていないことが起き得る。
まず、そのことぐらいは、想像しておいたほうがいい。
目の前に現れた人間、どんな背景を持つだろう、どんな苦しみを痛みを抱えているだろう。不用意な表現をする前に、想像を巡らせて、それでもなお間違えることがあったとすればそのときには、きちんと謝って、……許してもらえる、そんな世界。
そんな世界を定義する憲法。
そもそも憲法というものをそう捉えていいのかどうかはさておき、生央の言うことだから、まあちょっと、肯定してやりたいな、なんて気持ちにはなる。少なくとも憲法について考える時間を経たことで、律有人が捉える世界の形がこれまでと全く異なるものとなったことは、……文字通り想像もしなかったことだ。
鈴江のお母さんがサービスしてくれた「ピサン・ゴレン」という、揚げバナナにココナッツのアイスを添えたデザートをいただきながら、
「じゃー、どうする、リュー、イオちゃん」
鈴江が言った。金色の髪をしたハーフの女子高生と向かい合って話をしているという感覚こそあれ、彼女はもう、未知の存在ではない。もちろんこんな短時間で何もかもわかったような気持ちになるのも間違っているけれど、鈴江ミカという人物の外見だけで何もかもを語ろうとすることは、もうするまい。
「リューが『撤回する』っつってさ、でも、委員長は何も言ってないよね、まだ」
「話し合わなきゃいけないかなって思ってる」
律有人はもう、自分に勝手なあだ名をつけた彼女と話す時、変に言葉に詰まることはなくなっていた。
三人はごく自然に、相馬のことを考えることが出来た、……想像することが出来るのだった。
「委員長は、ええと、緊急事態のなんとかっつってたよね」
「コロナとか災害とかのときには、迅速な対応のためにある程度は国民の人権を制限してもいい……、そういう考え方だね」
鈴江の言葉を生央が引き取って、頷く。
「でも、それをやろうとするなら、相当に厳格に運用しなきゃダメなんだ。そのときの総理とか内閣の気分で、どんどん延長されて、好き勝手されちゃう可能性があるから」
これは生央の受け売りである。そんな状況下で漫画・ラノベの新刊発売やアニメの放映スケジュールがしっちゃかめっちゃかになってしまっては困る。
いや、スケジュールのみならず「こんな緊急時にそんなものを読むなんてけしからん!」なんて取り上げられてしまうことを、律有人は何より恐れた。表現の自由を守護する騎士になったような気持ちである。
「自由……、権利って、例えばどんなんがある」
えーと、と生央がスマートフォンでAIに協力を求める。
「いっぱいある、読んでいくね。第十九条、思想および良心の自由。二十条、信教の自由。二十一条、集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由。二十二条、通信の秘密」
「通信?」
「その、ラインとかメールとかを見られない、送り元と届け先以外は、例えばおまわりさんとかでもいきなり見せろって言ってきても見せなくていい」
「ほーん……。他には?」
「あとは、学問の自由、移住・転居の自由、職業選択の自由、えーと、外国に移住し、国籍を離脱する自由……、あとは、身体的自由、これは、奴隷的拘束や苦役からの自由とか、拷問の禁止とか、その人の身体を傷付けるようなことはしてはいけない。いけない、って定義することで、自由を表現してるって見ればいいのかな?」
律有人も一応ざっと目を通しはしたけれど、とても覚え切れるものではない。とにかくたくさんの自由を、憲法というものは保障しなければいけないものであるらしい。「憲法をつくる」にあたって、他の班はそういうところも考えて作ってくるのだろうか? ……きっと、作ってくるだろうと律有人は考える。だって、じぶんがここまであれこれ考えてしまったのだから、それはもうきっと、必然。
「で、こういう自由はぜんぶ十一条で侵すことの出来ない永久の権利だって言ってて、十二条で国民は不断の努力でこれを保って行くようにしなきゃいけないって言ってる」
「ふーうん……、えー、そうなのかぁ、あたしこれまで一度もそんなん考えたことなかったな。ほんとは毎日努力してなきゃいかんかったのか……」
普段の努力、ではないのだが、しかし日常的に意識することが間違っているわけでもないので、生央は訂正しなかった。
「『あれも自由これも自由』って言う前に、『それは絶対大事』って言ってる。っつーことはさ、委員長の言ってたそれも、『あれもダメこれもダメ』だけど『一番やっちゃいけないのはそれを好き勝手使うこと』みたいなの追加すればいんじゃね?」
名案だと律有人は思った。
きちんと謝った律有人を許したのみならず、自身の態度にも非のあったことを認めたところから、鈴江ミカの心の柔軟性は察せられたが、思考力も柔らかく、そして冴えているようだ。
「イオちゃんさ、それ考えて、委員長に言ってみたらいんじゃないかな」
「う、うん、そうだね、やってみる」
にー、と鈴江は笑う。歯並びがとても綺麗だし、女子の歯をこんなに見ることはないので、律有人も生央も互いをパートナーとしながらも、なんだかどぎまぎしてしまう。
「すげーじゃん、いいの出来るじゃん。あたしさぁ、こんなさぁ、学校の何かでしっかり考えたりとかしたことなかったよ一度も。あんたたち来なかったらこれからもずっとそうだったかもしんない!」
彼女がとても無邪気に、嬉しそうに笑う顔を見て、何だか胸の奥がぼうっと熱くなる。遥か遠く、まだ行ったことのない地球の反対側ではない。駅の向こうの、インドネシア料理屋のテーブルと自分とが、想像力で繋がった悦びが四肢に行き渡って、帰り道の律有人と生央は興奮の余韻を持て余していた。




