しばられないで
寝不足を乗り越えた木曜日の放課後である。
いや、「乗り越えた」は語弊がある、律有人は授業中何度も船を漕いだし、一度などノートによだれの跡を付けてしまった。
「あれ、律有人、どこ行くの?」
高校を出て、まっすぐ家に向かうのであれば、昨日このパートナーから告白を受けることとなった河原の道を辿ることになる。しかし律有人は校門脇の自販機で缶コーヒーを買うなり一息に飲み干して、あさっての方向へ歩き始めていた。
「ちょっと、寄りたいところがあるんだ。……生央は先帰ってていいよ。そんで、……夜、またうち泊まりに来いよ」
生央は頬を紅くして、こくんと頷いた。しかし律有人を追う足は止まらない。
律有人は、立川泰雅のところへ向かっているのだ。
正確には、多摩スタジアムサブグラウンド……、彼が所属する「多摩アルプスFC」が練習を行うのが、そこだということを昼休みに調べて知った。
立川は毎日学校が終わるなり、母親の車でその練習場へ直行するらしい。だから「憲法をつくる」のグループワークに参加できるのも授業のあるタイミングだけだ。昨日のグループワークでは、律有人の「創憲案」が鈴江を怒らせてしまったことで終わったが、一コマ五十分の枠の中で立川が口にしたのは「いんじゃね」「わかんないけど」「ふうん」という三言だけであった。
律有人は自分の腹の中にある考えを、立川に共有することを考えているのだった。
「考え……?」
多摩スタジアムへの道は歩き慣れない。駅まで出ればバス路線もあるのかもしれないが、調べたところ歩いても三十分程度である。
「うん。……まず、俺は昨日の外国人参政権については撤回する」
「それ、まず鈴江さんに言った方がいいんじゃないかな……」
それはわかっているのだが、正直、まだちょっと気まずい。今日も、鈴江は律有人の方を見ないようにしていたようであるし、謝るというのは、もちろん早い方がいいに決まっているけれど、勇気と覚悟が要るのである。
まずは、立川に話を聞いてもらって、撤回への同意と、それからもう一つ。
「相馬の『創憲案』に反対してもらえたらって」
昨夜、生央が眠ってからもなかなか寝付けず、彼の顔を眺めることで時間を潰しながら考えたのである。それはショート動画を延々はしごするよりはずいぶん有意義な時間だった。
「生央は、どう思う? 相馬の言ってた、緊急時のアレ」
緊急事態においては、一時的に国民の自由を制限する、……全体の安全のためにはやむを得ない措置であると思ったから、律有人は賛成した。生央は、消極的ながら賛成した。
「あれもこれもダメっていうわけじゃないなら、……人命最優先っていうのは、わかるし。律有人だってそれはわかってたから賛成したんじゃないの?」
そう、それはそう。命より大事なものはない。病禍、天災、戦争……、律有人はもう、生央の命が失われるかもしれないなんて事態は到底耐えられそうにない。
しかし、律有人は生央の寝顔を眺めているうちに、こんなことも考えたのだ。
「緊急事態だから、表に出るな、あれするなこれするなってなったら、まず、表現の自由もたぶんダメになっちゃうよな?」
言うまでもないが、律有人だって流石にそのタイミングであれば漫画やアニメをのんべんだらりと楽しむ気持ちにはなれないだろうと思う。というか、コロナ禍のときにはやっぱり何をしていてもぼんやり憂鬱で、楽しみにしていた作品へも没頭することが出来なかった。
なお、当時まだ小学生だった律有人は逃避するように自習用ドリルに取り組み、一時的にやたら成績が良くなった瞬間があったのは、全くの余談である。
「いまでも台風とか雪とかのときに、『不要不急の外出は避けて』みたいな言い方するよな」
「浅川は特にね」
山が近く、春夏秋冬がやけに強く顕れる街なのだ。すなわち春は首都圏で最も強い風が吹き、夏は屈指の高温となり、秋は台風で川が溢れそうになり、冬は雪がどかどか積もる。
そういうときは、漫画だアニメだとは言っていられない。律有人だって推し作家の新刊ラノベの発売日だったとしても、台風の中出掛けて行こうとは思わない。
けれど、雨が止んだら、すぐにでも買いに行くだろう。
「思ったんだけどさ、その『緊急事態』ってのは、誰が決めるんだ?」
これは素朴な疑問、生央はすぐ答えてくれた。
「たぶん、国会だろうね。内閣が、いついつまでに緊急事態を発令したいって求めて、国会がそれを承認して……」
「でも、コロナの時は延長したよな?」
「そうだったね。だから、そのときもやっぱり国会で……」
「国会って、多数決だよな? でもって、内閣っていうのは、国会で多数を持ってる人たちの党の、えー、リーダー的なあれだよな?」
「まあ……、とは限らないけど、だいたいはね」
「じゃあ、『いついつまでに』を、ずーっと延ばして延ばして、ずーっと緊急事態にしちゃうことも出来るよな」
「え」
ようやく前方に、多摩スタジアムの大きな輪郭が見えてきた。
「内閣が『もっと延ばしたい』って言って、その仲間で出来てる国会が『いいよ』って言ったら、いつまででも延ばせちゃうってことだよな?」
「それは……、それはさすがにないんじゃないかな。だって、そんなことしてたらその内閣の支持率どんどん落ちていくと思うし」
世論の反発、というやつだ。何となくではあるけれど、律有人もそれは想像が出来る。
「でも、緊急事態に選挙なんてやるかなって思ってさ」
生央が、横断歩道の途中で立ち止まってしまった。慌ててすぐに駆け出して、律有人に追いつく。
「自分の都合で緊急事態を延ばして、反発を喰らってるなって思ったら、選挙なんて絶対やらないだろ」
頷く横顔が強張っていた。
「つまり、自分たちで決めた『緊急事態』をずーっと続けちゃうことだって出来る。そこにはたぶん、漫画とかアニメとかないし、……もっと言っちゃえば」
前方から小学校低学年ぐらいの女の子の二人連れが歩いてくるのが見えたので、一旦言葉を止め、狭い歩道で二人身を寄せてやり過ごす。律有人は二次元でははっきりロリコンであるが、三次元の子供に対してそうした狼藉を働こうと思ったことは一度もない。
「……同性愛者も、攻撃されるかもしれない」
その想像には、すでに生央も至っていたのだろう。
「僕は、律有人のことがどんなに好きでも、律有人との間に子供をつくることは出来ないからね」
いまとなっては、どうしてそんな言葉が許されたのだろうと思うのだが、同性愛者が子供を産まないことを指して「非生産的」という言葉を使った人間のいることを、律有人は知っている。
もちろん生央はもっと早くに知っただろう。どれほど強い怒りと悲しみ、何より恐怖に心を浸すことになったことか、想像に難くない。それを批判することが「表現の自由」とどうバランスを取るのかという問いに向けて、発言に対する批判も含めて表現の自由であるという答えを、もう律有人は自前で用意することができるようになっていた。
どの視点、どの主語で「非生産的」と言っていたのか。
国、国家という視点・主語である。国を支えるために国民が果たす義務、……そのうち最も大きなものであろう納税の頭数を増やすことができないのである。また、仮にそれが義務付けられるものであったとしたら兵役という義務に応ずる人員の頭数も、同性愛者は、……同性愛者でなくとも、何らかの疾患によって子を作ることができない人間は皆「非生産的」であると言っているのだ。
先週の同じ時間と比べても、憲法に触れる前よりも、はっきりと気温が高い。律有人はもうネクタイを外していたが、生央は律儀にしっかり締めている。季節の針が進んでいく中で、律有人は少しだけ世界の解像度を高めている。
「……俺の想像だけどさ、想像でしかないけど。でさ、立川のところ行って、サッカーだって漫画やアニメと同じで不要不急だってことを説明して、……要するにその、上手く言えないけどさ、大事なのは、緊急事態になったときどうするかとかよりも……」
「緊急事態にならないようにするためには、どうしたらいいか。どうしてもそうなっちゃったとき、権力がそういう暴走をしないようにするためには、どうすればいいか」
生央は正確に律有人の思うところを捉えてくれていた。
「相馬さんの創憲案は、ええと……」
ちら、と生央の目が自分を伺ったのを感じる。
「ゆうべ見たよ。民友党の改憲案から引っ張ってきたもんだったな」
ついでに言えば、この改憲案に反対する人の言説にも触れた。一昨日までの律有人にとっては「敵」である人々の語る言葉が、いまではすんなりと飲み込めるし、浸透するのだから、現金なものだと嗤われるだろうか? しかし、想像もできないことが誰の心身にだって起きることを、誰もが想像しなければいけないのだということを律有人は既に学んだ。
あらゆる極端な可能性、ポジティヴなものであれネガティヴなものであれ、想像しておくこと、それぐらいのコストは惜しまず払うことで、ちったぁマシな自分になった気で。
「緊急事態への対応は必要だと思う。だけど、そこにきっちり書いておかなきゃいけない言葉もあるんだって思った。相馬の案にはそれが足りない」
ただ、グループのトークルームにてイニシアティヴを取っているのは彼女である。彼女の作った流れによって自説を投じたことで、鈴江を怒らせてしまった。
ならば律有人がなすべきことは三つ。
一つ目は鈴江への謝罪、二つ目は自説の撤回、そして三つ目は、相馬案に代わる創憲条文を作るにあたって、同意の形成を行うこと。
まあ、一番精神的ストレスが少ないところから取り掛かったことについては、どうにか大目に見てもらいたいものだと思いつつ、多摩スタジアムのサブグラウンドに二人は着いた。探すほどもなく、多摩アルプスFCの選手たちの練習している姿を見とめることが出来た。もっとも、フェンス越しの離れたところに設けられた見学者用スペースに、ぼんやり突っ立っているぐらいだが。
立川がどこにいるか、すぐわかった。自分と同い年でありながら彼はもう、プロチームのメンバーに混じってミニゲームに参加している。身体の大きさも身のこなしも、歳上の選手たちに全く見劣りしない。いや、ドリブルで切り込んで行く時に激しいボディコンタクトがあっても、むしろ相手を払い退けてしまうほどのフィジカルの強さがある。
「かっこいいなぁ……」
生央が憧れるような声を発したのも無理はないし、それにいちいち嫉妬なんかしない。律有人も生央も、運動は苦手である。律有人の場合、運動が苦手だからオタクになったきらいがあるし、生央はそのぶん勉強を頑張って、それぞれ自身の個性に変換したのだから、悪いことばかりではなかろうけれど。
「ViewTubeで、あいつが中学のときの動画が流れてきた。なんか、どっか外国で、普通に……、もう普通に選手だった」
変な言い回しになってしまったことには自覚があった。しかし、緑色のネットフェンスの向こうの立川を見て、
「普通に、選手だね……」
生央も全く疑問に思った気配もなく同意してくれたので、そう間違ったことは言っていなかったはずである。サブグラウンドはこの時間、多摩スタジアムの陰となってひんやりと薄暗いが、フィールドには見上げると首が痛くなるほどの高さから照明によって光が満ちている。その中を駆け回っている立川は、格好良かった。言いようのない悔しさも湧かないではないけれど、しかしきっと、比べても仕方のないところなのだ。
サイドからポーンとセンタリングされたボールに、ディフェンスラインの一列後ろから鋭く飛び出して、跳躍した立川が頭で合わせる。キーパーの差し出した指先を掠めて、ゴールネットを揺らす。はしゃぐこともなくポンポンと手を叩き合わせた立川が、ポジションに戻り際、こちらに気付いて、一瞬、歳相応に目を丸くして、無防備な表情を見せた。




