知らない人の顔
◯
日本国憲法
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
◯
保守とリベラル、という二項対立があることは知っている。というか、この一週間でずいぶん詳しくなった律有人だった。
しかし彼はふと、なぜ「保守」は日本語で、「リベラル」は英語なのだ、という素朴な疑問さえ抱かず、短い時間の検索ならびに倍速での動画閲覧を経た結果として、自分が「保守」側の人間であると認識するに至った。はたして最初からそうだったのか、それとも情報に触れたことで|そうなった《was becoming》のか、今となってはわからない。
一方で、生央は、……同性愛者であるとカミングアウトした佐々原生央は、最初からマイノリティだったのか、マイノリティになったのか。
「だって、僕は律有人みたいになりたかった。律有人はずっとずっと僕の、憧れだったんだ」
ほんの小さなころから一緒にいた。たまたま律有人は学校でいじめに遭い、お漏らしをするという憂き目にあったわけだが、実のところ生央は律有人がうんこを漏らすところを見たことがあるし、そうした失敗の回数ならば律有人の方が多いほどだ。いまとなってはロリコンのオタクで、レヴィルヴィアのつるぺたビキニ姿でオナニーをしていることだって知られている。総体としての「嵯峨律有人」に胸を張れるところなんて一個もない。
けれど、ずっとずっと、つまり、いまよりもう少しぐらいはまともだったころから今まで変わらず、生央は律有人が好きなのだ。
躊躇いを、戸惑いを、すぐに捨てることはできなかった。けれどそれはだいたいほとんどが具体的なもの、もっと言ってしまえば、直接的かつ物理的な行為に伴うものだ。一方で、佐々原生央という幼馴染が、律有人にとって幾つになっても可愛く、優しく、のみならず尊敬に値する男であることには変わりがない。
その心というものがいとおしく思われるのならば、次段階としてその肉体というものを律有人はどういう「反応」として映し出すだろう? ……実のところそれは、ちっとも難しいことではないのだった。それというのは、律有人はオタクで、ロリが好きであって、ロリその一個隣にはショタというのがいて、それら間あるいは向こう側に「男の娘」なんてのもいて、……欲というものは実のところ、当人の思うほどかっちりと分けられるものではなく、隣接するもの同士を隔てるのはせいぜい半透膜ぐらいのものでしかないのだ。
つまり、後天的に変遷することは起きうる。
それを律有人は生央の、自分よりはっきり一回り小さな身体の、すべすべの肌や柔らかい唇や、それでも男らしく強い握力によって知ったのだ。
想像したことがなかっただけで、存在するものであったことを、知ったのだ。
知らずに身に付けていたパッチワークのクソダサい外套を生央に脱がしてもらうような時間を経て、保守とリベラルという二項対立を、律有人は見下ろしていた。
俺は保守に「なった」のかな、元々そういう考え方だったから、保守的な主張、具体的には「外国人参政権はNO」という主張に賛同したのかな。
という自問は、実のところ生央が同性愛者「だった」のか、「なった」のかということと同じぐらいにどうでもいいことだった。律有人にとっていま重要なのは、同性愛者であることを生央にカミングアウトされたとき、彼が律有人の抱えるいくつかの秘密を大事に守ってくれたように、同じほど大切なものとして抱えていくことだ。
……ああ、でも。
とうに日付は変わっているのに、眠りが途絶えてベッドから抜け出した。そっと窓を開けてベランダに出て、街を見下ろす。
都心から結構離れた浅川という街、近くには大きい道路もあるのだが、すっかり閑散としていて、通りには、二十四時間やっているファミリーレストランの灯り以外は街灯が規則正しく道を照らしている。散らばる光は顔を上げたところにあって、どれがどれともわからない星座よりも瞭然と、律有人になにがしかの輪郭を思わせた。
律有人は星座を、北斗七星とオリオン座しか知らない、……それが冬の星座だということは知っているが。
一方で、生央は星座に詳しいのだ。律有人にはただチカチカする光の群れにしか見えないものを、繋げて描いた絵を教えてくれる。律有人にわかるのは、あれが甲州街道で、あっちが新宿で、……地上の光を結んで読み取っていくことぐらい。
静かな光の中で、信号機だけが忙しい。歩行者用信号がぱたぱたと瞬き、赤に変わる。遅れて自動車用信号も青から黄色に変わり、赤に変じる。
それらが再び青に変わる前に、赤い光の明滅が猛スピードで向こうから近づいてくるのが見えた。短くサイレンの音を響かせて赤信号を突っ切って、その先で左折して住宅街に入っていき、見えなくなった。救急車のようだった。どこかで誰かが傷み、病んでいる。
ほとんどもう反射的に律有人は、「誰だろう」ということを考えてしまった。今日までは無関係な他人の身に起きた不幸だったのに、……今日までは、同性愛者なんてどこか遠くの他人でしかなかったのに、今日、いま、自分が当事者になるという予想だにしなかった出来事の中に放り込まれてしまった律有人は、例えばそれが生央の知っている誰か、生央の家族の大切な人ではありませんようにということを当たり前のように祈るし、自分にとっての「誰」でなくても明日からネームドの人になるかもしれないと思えば、それが最も自然な態度であるようにも思われる。
律有人はマイノリティになった。
生央はそこにいる、そこにしか生央はいない。きっと自分の両親を含む幾千万の人々の集団から出外れた場所にしか生央がいられないのならば。
こんな俺は、例えば「パヨク」とか言われるような人間なのかな。現実が見えていない、頭の中がお花畑な奴ってことになっちゃうのかな。……まさしくそういう言説を、ほんの一日前まで当たり前のように使いかねなかった自分であることが、律有人は恐ろしくなった。仕入れてきた自説を、さも自分の手柄のように得々と語る律有人を見て、生央はどう思っただろう? それでいながらなお、嫌いにならないでいてくれた、「好き」だと言ってくれた。自分は生央がこれから歩んでいく世界を、少しでも優しく幸せなものにしてやることが出来るだろうか? ……そんなことを考えるような奴に対して、「世界を変えられるなんて思ってるの」という冷笑の言葉はすぐに用意できてしまうけれど。
息も絶え絶えに、もう一人の律有人が言う。
だったら政治家にでもなればいいじゃん(笑)
その可能性が低いから志してはいけないというものでもあるまいが、政治家でなければ世界に対して何らの期待をしてはいけないというものではないはずだ。そして求めていけないものでもないはずだ。
でもさ、サヨクの側に付くってことは、お前、アニメを裏切るんだな、漫画を裏切るんだな。あいつらがどんだけ表現を燃やしてきたと思ってるんだよ、お前の好きなレヴィルヴィアだってそのうちあいつらに潰されるんだ、裏切り者。
「あ、そうか……」
もう一人の律有人がちょっとばかり息を吹き返した。
それはそう、わりとほんとにそう……。
律有人が中学時代に熱中していたソシャゲがドラッグストアとのコラボが決まり、オリジナルグッズが配布されることが発表されていたのに、「露出度が高い」「公共の場に相応しくない」と難癖を付けられて、結局そのコラボは見送られることになってしまったのだ。そういうことをした主体は、左翼でありフェミニストである。
つまりは仇敵……。
ここにおいて、現実の恋人と二次元のオカズのどっちを取るか、なんて二項対立は無意味である。だって、どっちも同じぐらい大事なものであるのが当然だから。
いやはや、しかし、そうか、左翼になるってことは、俺の好きなもんを燃やすあいつらと同じになるってことか。……いやでも、男と付き合うから左翼ってのも違うよな、そこは分けて当たり前だよな……。
さっき住宅街に入って行った救急車が、赤い光を方々に撒き散らしながら大急ぎでまた街道を走り去っていくのが見えた。現実の悲しみや苦しみに思いを馳せる。一度だって風邪をひいたことがある大半の人間は、他の誰かの風邪の苦しみに共感することができる。でも、例えばなんか別の、こう、ええと、難しい病気、……の苦しみは共感出来ない。代わりに想像することができる。自分が、自分の大切な人が、そしてその人にとって大切な人が、そういう病気で苦しんでいると知った時に向ける思い……。
何の考えもまとまらないまま、星を見上げたり、道を見下ろしたり。しまいにはくしゃみが出た。尿意を催し、用を足して部屋に戻ると、今夜三年ぶりにこの部屋に泊まることになった生央が暗がりで目を開けているのが見えた。
「起こしちゃった」
「んん。ちょっと前から起きてた。律有人いないけど、ベランダにいるのはわかったから、待ってた」
シングルベッドに身を縮ませて収まった二人を親が見たら、「小学生みたいなことして」と笑われるだろう。
「眠れないの?」
自分とこういう関係になったから……、と案ずるのが判ったから、律有人はすぐに首を振る。ちょっと躊躇ってから、……思い切って、ついさっき浮かんだ言葉を、生央に向けてみる。
「俺はさ、お前が、……俺も、マイノリティであっても、誰かから差別されないような世の中になったらいいなって思うし、……憲法ってのは、俺とかお前とかも含めた国民のためにあるもんだと思うから、やっぱりその、そういう憲法を創るのがいいんじゃないかって思い始めてる」
うん、と嬉しそうに微笑んで、生央が頷く。生央が嬉しいことは、きっと大概いいことである。
「でも、……ほら、一昨年の、覚えてるか? 俺がハマってた……、『VTS』と『タマドラッグ』のコラボが、フェミのせいで潰されたやつ……」
「忘れないよ。律有人すごくがっかりしてたから」
「……俺が、いま言ったみたいな憲法がいいなって思う気持ちって、その、左翼とかフェミの連中にとって都合のいいことなんじゃないかなって」
利敵行為……、に思われてしまうのである。
「もちろん、それよりはお前の方がずっと大事だけど」
慌てて言い添えた律有人に、「ああ……」と生央はちょっと考え込む。
そして、
「二つのことが言えると思う」
眠いだろうに、わざわざ身を起こして、ベッドの上に座り直して言う。
「一つは、……律有人が僕と付き合ってくれて……、つっ……んふふ、ダメだ笑っちゃう……嬉しくて……、んっ、こほん。律有人がね、男と付き合うことを選んだからといって、何か決まった思想を持たなくたっていいってこと」
「……それは、まあ、そうだろうなって思ってはいる」
「性的マイノリティのネトウヨだっているだろうし」
「まあ、いておかしくはないか」
「その人は二重の意味でマイノリティになるわけだけど、そういう、なんていうか、『枠』の外に居ちゃう人も幸せになれるのがいいよね。……でもって、もう一つは、左翼的な考え……、っていうのがどういうものか、僕もはっきりと判って言えるわけじゃないんだけど……、リベラルとか、フェミニストと言われる人たちの考えてることもよく判ってるわけでもないしね……、でも、そういう立場の人たちって、結局のところ漫画やアニメを燃やすことは出来ても、なくすことは出来ないんじゃないかなって思った」
燃やす、と、なくす。同じことではないのかと、一瞬律有人は訝ったが、すぐに理解に至る。
「……こういうことか。左翼とかフェミとかは、すでにある作品にイチャモン付けて炎上させて、場合によっちゃそれをどかすことは出来る」
「キャンセルカルチャーって言われたりするよね」
「そういうのは、やっぱり……、まあ、ぶっちゃけ、腹立つ」
うん、と微笑んで生央は頷く。生央は律有人が例のコラボキャンペーンが炎上し、推しのロリキャラの水着アクスタが手に入らないことを知ったとき、悲しい気持ちを共有してくれたのである。
「でも、『なくす』ってのは、最初からそれがなくなる可能性があるってこと?」
「それよりはマシってこと。燃やすためには、燃やされるものがなきゃいけないよね。そこに何もなかったら、燃やすことはできない」
生央は言って、枕元で充電が完了した自身のスマートフォンを引き寄せて開きつつ、「律有人はひょっとして、相馬さんがリンク貼ってくれた『改憲案』って見てない……?」そっと訊く。
図星を突かれた。
「与党の改憲案だと、表現の自由には制限が掛かるかもっていう意見もある」
虚を突かれた。
「え……」
与党の政治家の中にはオタクも結構いて、俺たちのために戦ってくれている、という認識だったのだが。
「確かにそういう人もいるんだろうね。そういう人ですってことで支持されて、律有人みたいな人から投票されて議員になるとか、漫画好きですって言って、好感を持ってもらうとか」
でも、という言葉で、生央は彼の考えを繋げた。
「党として通したい法案、例えば漫画を規制するようなものがもし出てきたら、その議員さんたちも党の偉い人には逆らえないんじゃないのかな」
政党から選挙に出て、当選をするという流れの中で、その候補が政党からどれだけの支援を受けているのかということだ。
「えーと……、これね。はっきりと『制限する』なんてことは書いてない。けど、目的によっては……、政治的な表現とか、メディアの報道の仕方とか、そういうところに制限が掛かるかもって言ってる人がいる」
ほっと胸を撫で下ろす。新しい憲法になったら即表現規制が入るというわけではないのだ。
「律有人の方で、今の憲法の同じところ開いてみてくれる? 二十一条」
日本国憲法、第二十一条。
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
「でも、今の憲法と違って、『目的』っていう項目が追加されてる」
曰く、「公益の秩序を害する目的とした表現活動は認められない」とある。
「……えーと、公益の秩序っていうのは……」
「エッチなのとか、……あとその、律有人が好きな女の子みたいな……」
「ロリとか」
そう、と生央が頷く。
「たぶん、こういうことだよ。今の憲法の『表現の自由』のところでは、『表現の自由を制限することを禁じる』って言ってるけど、新しい憲法では『表現の自由を制限することは、場合によっては認める。その場合っていうのは、なんかこう、良くなさそうなやつってことだよ』っていう……」
それが、エロとかロリとかを指すものであるという解釈を下されるのだというのは律有人にもすぐに理解できた。
「キャンセルカルチャーがいいか悪いかはちょっと、僕には判断できないから、後回しにするけど……」
そういう前置きをした上で、
「いまの憲法では、とりあえずどんな表現でもしていいことになってて、でも問題になったら、まあ、嬉しい気持ちはしないだろうけど炎上したり、問題のあるまま……、その、大事なところとかをモザイクかけたりしないでそのまんま出しちゃったら刑法に引っかかって怒られるわけだけど、出すことそれ自体を止めることは、憲法の名のもとに『しちゃダメ』って言ってる。だから、エッチなのも描いていいし、出版していいし、……でも、それを批判されるのもしょうがない、不快だと思う人がいる……、律有人みたいにそれを『好き』って思う人がいるなら、仕方のないことだと思うよ」
あんなにいいものなのに、誰かに迷惑をかけてるわけでもないのに、……そういう反感を、律有人は抱く。とはいえ、好悪の反応のいずれも、それがまず「世に出される」ことが保障されているがゆえのものであるという事実に、初めて律有人は気付いた。
「憲法で表現の自由が認められてるから、『どんなのでも表現していい』って、本になる。売ることも出来る。漫画家さんはお仕事になるし、それを買って嬉しい人がたくさんいる」
買って嬉しい人の代表格、大いにそれを愛読するのが律有人である。
「でも、憲法に『こういうのはダメになるかも』って書かれちゃったら? それが仕事として成り立つと思う?」
こんなエロいの描いちゃったら/売っちゃったら、捕まっちゃうかもしれない。
じゃあ、やめとこう……。
リスクを恐れず自由な表現を貫くような、気骨のある表現者・出版社もいるかもしれないが、限定的だろう。そういう人たちこそ規制されて、見せしめのために晒しものにされてしまうかもしれない。
「……でも、でもさ、これまでも、法律とか、あと、……条例? で規制しようとしてきたじゃん。サヨクとかフェミとかPTAみたいなのが騒いで……」
「そうみたいだね。あのタマドラッグのコラボみたいに、燃やしてね。だけど、それが問題になって、対抗する声が上がるのも、憲法で表現の自由が認められてるからだよ。……まあ、僕の言ってるのも、タマドラッグコラボの件で律有人が落ち込んでるの見て、ちょっと調べただけのものなんだけど……」
調べた? どうして……、と口に仕掛けた言葉を、律有人は飲み込んだ。
生央はもちろんそのころからずっと、律有人のことを好きでいたからだ。
翻って、律有人は誰かのために在る法律、誰かのために在る憲法……、そんな考えを抱いたことがこれまでにあっただろうか?
あったってよかったのに、一度もなかった。
思考することはハードルが高い。馬鹿の考えなんとやら、自分を「馬鹿」と思いたくもないが、間違えるのは恥ずかしいので、なんとなく大勢のいる方、みんなが言っているのと似た方、あるいは、耳によく入ってくる大きな声に従っておくのが間違いなさそうだと考える。
きっと、これは普通のことだ。
けれどいつしか律有人は、想像することすらやめていなかったか。思考することをアウトソーシングして、身を委ねているうちに、想像するということすらしないようになっていなかったか。つい昨日までそれほど興味の向かなかった同性婚の問題が、律有人に直接関係のある話になった。自分の手の届く範囲にいる人、にとっての大事な人が抱える悩みであるかもしれないという想像のコストさえ惜しんで、代わりに自分は何をやっていただろう? ……大したことをしていたわけではない、このベッドの上、睡眠時間を犠牲にしてまでショート動画を延々眺めて、得たものはいくつかのミームぐらい。思考も想像も手放して、「サヨクとフェミは漫画の敵」という先入観に囚われた結果、あらゆる漫画とアニメと小説にとって不自由な世界を作り出すことに、そうしたものを愛する自分が加担していた。
「……あのさ、生央」
律有人はいつからか自分の指先がひんやりしていることに気付いた。無意識のうちに生央の細い指を見て、その手を握る。
律有人よりももっと冷たい手を、生央はしていた。
「俺、だいぶやばいかも……。なんか、自分が生きてる世界っていうか、この国が、なんだったんだろうっていうか……、わかんなくなってきちゃった……」
生央は優しく微笑む。「律有人は手ぇあったかいね」と嬉しそうに言いながら。心の優しい人は指が冷たいという言い回しを、ラノベで読んだことを律有人は思い出していた。
「僕だって、知ってるからどうするって話じゃないよ。でも、……自分の大好きな人とずっと一緒に暮らしていくことが、『おかしい』って言われるよりは、言われない方が嬉しいかな。憲法がそれを認めてくれるっていうことは、……どんな漫画だって描いていいのと同じように、僕みたいな人間も他の誰とも変わらず幸せになっていいってことだと思うから。……誰かから『気持ち悪い』とか、マイノリティであることを理由に意地悪なこと言われなくて済むってことだと思うからさ」
深い深い穴の底に落ちた夜だ。
穴の底には生央がいた。自分の体温を分け与えて冷たい手を温めることで、自分の中になぜだか温もりが灯る。マジョリティとマイノリティ、右か左か、上か下か、……「A or B」で捉えてきた世界観から切り離されたところは、とても心細く、おぼつかなく、境界線も曖昧で、……いま一応足が付く気はするのだけど、でも、この「底」もいつ抜けてしまうかも定かではない多次元空間。
そこにはあらゆる知らないことが漂っている、流れている。
知らない人の顔が無限に見える。
知らない苦痛、知らない煩悶、知らない悲嘆、知らない病気、知らない障害、知らない不快、知らない不安、けれどそれを抱える誰にとっても普通の問題、そしてある日突然自分か自分の大切な人か自分の大切な人が大事に思う人の心身に降りかかるかもしれない問題。
枝分かれした先の枯れた部分を、ちょっとばかり剪定するだけだとして、そのハサミを持っているのは誰か。もしかして、自分がそのハサミを持っているとでも思っていた?
律有人は思っていたのだ、……思ってしまっていたのだ。自分は「いい外国人/悪い外国人」を選別し剪定する側の人間であると、思い込んでいた。
そうではない。ある日突然、そのハサミはこの俺自身の首を切るものだと、律有人はこの夜、初めて気付いた。
律有人がほんの少しだけ、大人になった夜だった。




